07.看病をする

まぶたを開くと、最悪な気分での目覚めだった。

心臓がバクバク鳴るのを感じながら、今見た夢のことを思い出す。

夢の中で俺は、進級するのに必要な単位の数が足りなくて必死に教授のところを駆けずり回っていた。

まさか大学を卒業してから数年経つのに、単位足りなくて留年する夢を見るとは……。

しかも実際には留年したことなくて、必修も単位数も余裕をもって取って卒業したのに。(まあ成績はお察しだったけど。)


「だる……」


ひどい夢を見たせいか頭が重くてなにもやる気が起きない。

それでも一応ベッドから起き出して、冷蔵庫を開けてお茶のペットボトルをラッパ飲みする。

喉ががらがらになっていて、体を潤す水分がとても美味しい。

ちらりと覗いたカーテンの外はもうすっかり暗くなっていた。

スマホを見ると『おきたー?』と愛からのメッセージに、ちょっとだけ悩んで返事を送る。

『今日は用事があるから、悪いけど部屋には入れられないぞ』

送信ボタンを押して、スマホをベッドの脇に置く。

そのままなにもする気がおきず、緩慢な動作でベッドに潜り、体を丸めて目を閉じて、再び眠りに落ちた。




◇◇◇




目を閉じたまま、額に触れる感触に意識が引き上げられる。

なんとなく、半覚醒の意識の中でもその感触の正体に見当がついていて、まぶたを開けた。


「おはよう、優」

「なんでいるんだよ」


居たのは予想通りの相手で、ベッドの脇から俺の額に手を当ててこちらを見下ろしている。


「だって、玄関開いてたし」


そうか、昨日愛が帰ってから閉めるの忘れてたのか。

あの時から既に若干頭がぼーっとしてたからかな。

額に触れた愛の手が冷たく気持ち良くて、その愛本人はなぜか怒ったような表情をしていた。


「体調悪いなら、呼んでよね。一人で倒れてるとか、馬鹿じゃないの」

「倒れてるんじゃなくて寝てたんだよ」


正確には体のダルさと頭の重さと喉の痛みと酷い夢の後遺症でなにもする気が起きなくて、ベッドに強制返却されたんだけど。


「どっちも一緒でしょ」


いや、全然違うと思う。


「それにしても、用事があるって言ったのによくわかったな」

「優は『悪いけど』なんて、言わないでしょ」

「あぁ……」


確かに普段の状況で本当に用事があって会えないなら、『悪いけど』なんて枕詞は使わない。

頭の回転が鈍くなってる影響が、そんなところでも出てたみたいだ。


「なんでここにいるのかはわかったけど……、風邪うつるから帰れよ」

「良くなるまで帰らない」


愛の態度に頭が痛い。

このくらいなら寝てれば治るから一人でも困らないのに。

実際一人暮らしを始めてからはずっとそうしてきたし。


「お粥作るからね、その間に体温計っといて」


受け取った体温計を脇に差す。

本当は愛がいることに続けて抗議したかったが、重い頭とダルい体がそうするだけの活力を生んでくれない。

座ったまま動かずに愛が料理する姿を眺めていて、ピピッと鳴ってから表示を確認すると、そのまま愛に奪われる。


「呆れたような反応はやめろ」

「呆れたよう、じゃなくて実際に呆れているの」


体温計の表示を見て、やれやれと頭を振った愛に言い返された。

確かに体温計の表示はちょっと高かったけどさ……。

そのまま再びベッドに寝かされて、頭に濡れたタオルをのせられる。

ひんやりとしたその感触に、頭が少しだけ軽くなったような気がして気持ちがいい。

楽になった頭でぼーっとしていると、いつの間にか時間が過ぎていて、愛がお粥を乗せた盆を置いて脇に座る。

それを見て体を起こすと、座ったままバランスを崩して愛に支えられた。


「もう、ふらふらじゃん」

「ちょっとバランス崩しただけだろ」

「手離すけど倒れないでよ」


言ってベッドに腰掛けた愛が、膝にお盆をのせてスプーンでお粥を掬い、こちらに差し出す。


「はい、あーん」

「いや、ひとりで食べられるから」

「あーん」

「……」

「あーん」

「あー……ん」


その迫力に負けて、そのままお粥に口をつける。

飲み込むと、白米と卵の優しい口当たりに梅干しの酸味が利いて、弱った胃でも自然に飲み込めた。

美味い。

そのまま、愛がスプーンを運ぶに任せて口を動かし、結局茶碗が空になるまで食べ続けた。

といっても、俺の体調に配慮してか量は少な目だったけど。


「もっと食べる?」

「いや、これで十分」


首を振ると愛が茶碗を片付けて、かわりにコップを持ってくる。


「ポカリ飲む?」

「じゃあ、一口だけ」


コップを受け取って口に含む。

ポカリはよく冷えていて、普段飲むよりもかなり美味しく感じた。

そのまま返すと愛がコップを傾けて、残りを口に含み喉を鳴らす。


「って、風邪うつるぞ」


今更間接キスどうこう言うつもりはないけれど、風邪がうつったら問題だ。


「これくらい大丈夫でしょ、それに風邪は人にうつしたらよくなるらしいよ?」

「そんなの妄言だろ」

「本当かもしれないじゃん」


本気で思ってはいないであろうその言葉を聞いて、しかしそれを問いただすほどの気力がない。


「そろそろ寝る?」

「そうだな」

「それじゃあ電気消すね」


愛が部屋の明かりを消して、再びベッドに腰かける。

暗闇の中で、再び換えてもらったタオルの感触が冷たくて心地良い。


「暇だったら帰っていいぞ、鍵は開けっぱでいいから」


俺の言葉はスルーして、愛が輪郭しか見えない暗闇の中でこちらに手を見せる。


「手、出して」


言われたとおりに片腕を布団から出して手に重ねると、愛がそれを両手で包んで膝の上に置く。


「ねえ、優」

「どうした?」


何気ない口調で投げられた言葉に、まだぼうっとしている頭でなにも考えず返事をする。


「どうして嘘ついたの?」


嘘というのがなんのことか、鈍くなった頭でもすぐにわかった。


「風邪なんて寝てれば治るだろ」


実際今まで風邪ひいた時はいつもずっと部屋で寝てたし。


「じゃあ、私が来たの、迷惑だった?」

「そうじゃないけど……、わざわざ看病してもらうほどじゃないってことだよ」

「優は、私が看病しに来てほしいって言ったら迷惑?」

「そんなわけない」

「私だって同じだよ」


それは別の話だろうと思ったが、じゃあどう言えばいいのか考えがまとまらない。

黙り込んだ俺に言葉は重ねずに、ぎゅっと握られたままの手は冷たくて、意識の中で愛の存在感が増していくような感覚に陥る。


「優は、自分のことが嫌いなの?」

「そうじゃない」


そうじゃないんだけど、どう言えばいいのか、答えがでない。

それでも重い頭を回転させて言葉を吐く。


「嫌なんだよ、誰かに依存するのが」

「どうして、嫌なの?」


どうして、なんて言われても、昔からずっとそう思って生きてきたから理由なんて思い出せない。

でも、思考が綺麗に回らない頭の中で、一つの言葉が思い出された。


「昔父親が言ってたんだ、普通に生きろって。いい大学に入って、いい企業に勤め、人の役に立つ仕事をして、家族を養え、そうやって普通に生きるのが人の幸せだって」


その考えにどうしても納得できなくて、大学進学したままほとんど家には帰ってない。

結局大学卒業後の仕事の話をした時だけは怒鳴り合いになったりしたけど。

今の自分に後悔はないけど、もっと普通に生きられたら、と考えることはある。

だから、誰かと一緒に幸せになるなんて考えたことはなかった。

そもそも『誰かと一緒の幸せ』なんて、テレビや映画の中でしか見たことないから上手く想像できないんだけど。


「バカみたい」


愛が俺の言葉を聞いてそう切って捨てる。


「じゃあ芸能人は幸せになる資格はないの? ミュージシャンは? 単純に優が自分に自信がないだけじゃないの?」


言われて確かにその言葉が胸の奥にピッタリとはまった気がした。

結局俺は、自分のことを駄目だと思って最初から諦めてただけなのかもしれない。

愛が重ねた手の甲を優しく撫でる。

その感触がくすぐったくて、確かに今繋がっていることを感じさせられた。


「普通じゃなくたっていいんだよ」


なんて言われても、すぐに考えを変えられるわけじゃないけど。


「あたしが、その後ろ向きな性格を直してあげる」

「直らないかもしれないぞ」

「一生かければ死ぬまでにはどうにかなるでしょ?」


冗談めかしたその言葉に、心が少しだけ軽くなった気がした。

根拠なんてなにもないけど、その言葉を信じてみたい。

繋いだ手を強く握ると、愛がきゅっと握り返してくる。


「おやすみ、優」

「おやすみ、愛」


今度こそ、本当に寝る前に一言だけ付け加える。


「今日はありがとな」

「大したことはしてないけど」

「お粥、美味かったよ」

「そっか」


電気を落とした部屋の中でも、愛が微笑んだ気配はちゃんと伝わってきた。




◇◇◇




部屋が静まりかえったあと、寝顔を上から覗き込む。


「ばか」


悪態をついて、鼻先が触れるくらいの距離に近付いても、優が起きる気配はない。


「風邪は人に移したらよくなるんだって」


だからこれは、ただの看病だよ。

そう呟いた唇が、優しく触れた。

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