誇り高き蕾

 髪を耳にかけて、これを口に服した。食感は氷のようである。ごりっと音を立てて冷たい断面が舌に乗った。自分の涙の所為か、これがあまりにも氷に似ているからか、舌の上でこれが熱で溶けていくように思えた。ぴしゅ、と冷たい綺麗な水が出る。噛み砕けば砕く程に冷たいものが広がって、まるで宇宙の絶対零度を口にしたかのような水色の味だった。冷たさで煌めく星々を余韻に感じながら、これはゆっくり口の中から消えた。

 誰かはこれを「毒を持つ」と広め、人々に毒を持つ物というイメージを植え付けた。その拡散力は並の空気感染する病より強く、早かったのだ。故に、私のような存在は民衆からすれば異端そのものである。数百年昔ならば、私は魔女裁判にでも掛けられていただろう。否、今だって掛けることは容易だ。

 よくもまぁ私は生き延びたもんだ──いつものように物陰に隠れ、一つ小さく溜め息を吐き出した。巾着袋に入った黒い石が、僅かに紫に輝く。

 人々はこれを、「アビリティストーン」などというセンスの無い言葉で称した。



 髪を切られたことも有った。プールに沈められそうになった時も有った。

 後に本でそれが実に魔女裁判に近いものだということが発覚したが、それまでにも私は自分が魔女だと思われていることは知っていた。何故なら、私の渾名が『魔女』だったからだ。

 無論、自覚は有った。全てそれはこの行為に尽きるのだということも、勿論のこと分かっている。入学してまだ早いというのに、クラスを足早に出て石を念入りに洗って、それを口に含むなどという行為をしている辺り、本当に高校生らしくない、と自分でも思っていた。

 汚い石は食べたくはない。本物の光を放つ石だけを食べたいと思えた。早速出会えた才能の塊に、私もこっそり狂喜している。しかし、それを表に出すことなどできない。『魔女』は民衆が食べることのできない毒物を食べているからだ。


──悪どい魔女め!


 頭にがん、と鳴り響く誇り高き騒音が私を一瞬焦らせた。誰かが見ているのではないか、という極めて普通の不安に駆られて辺りを見回すも、当然の如く倉庫には誰も居ない。居るのは埃臭い──それも前の話、今では私が掃除した、埃一つ無い、私にお似合いな場所──一人部屋なのだから。居るとしたら私が『魔女』と化すのを咎めないぶっきら棒な無機物だけだ。

 そもそも、私が悪いというのは何か可笑しいと思う。このような行為を何処かに居る神様が憎むなら、何故神様は「才能の塊は時々欠片を落とす」などという仕様を付けたのであろう。

 しかもこれは「食べられた本人に危害は無い」という仕様もおまけとして付いているのだ。そのようなことが無いようにととある人は『アビリティストーン』を毒物だと言ったのであろうが、確かめた者が居ないのならば意味が無い。馬鹿げた印象操作だ。

 こっそり倉庫を出て、人気がすっかり無くなった廊下を歩いて行く。先生らしき大人と出会ってもいたって普通の表情で応対することはもう習慣づいていた。

 女性らしき先生は右耳に銀の金具に紫の石が付いたピアスを付けている。綺麗に磨かれ、形度られた菱形は人に誇らしげに才能を見せつける様だ。女性達の中では才能の宝石をピアスにして付けるのが流行ってるらしい。しかもそれを学校長も許可している学校も多く、今では小学生から年のいったお婆さんまでピアスを付けていた。


「あれ、ツボミちゃんまだ帰ってなかったの?」

「……ユウカ、ちゃんこそ。いつもはレッスンだか何だかで早く帰るのに」

「楽譜を忘れちゃって。まだ覚えきれてない曲だから、電車に乗ってる間に覚えようかなって」

「そっか。どの駅に行くの?」


 ユウカは白い指で楽譜をペラリと捲りつつ、私と同じ駅に向かうのだと答えた。私もリュックサックを背負い、再びユウカの方を見やった時には、ユウカは既に白く美しい顔に薄く清らかな笑みを浮かべて近くに立っていた。

 思わず目を逸らすも、逃がさないと言わんばかりに水色の声で私を絡めた。


「一緒に帰ろうよ」

「……いいよ? でも、私とでいいの?」

「どういうこと? いいに決まってるよ」


 これでは傍から見れば清く美しい姫を攫う魔女そのものではないか──短めのスカートから仕組まれたように白い太腿が覗く。

 ユウカはにこりと笑うと、歩き始めた私と数歩離れた真横で歩幅も合わせず歩き始めた。

 ふと左を向くと、少し背の高いユウカの髪が揺れ、左耳に付いた乳白に少し青を混ぜたようなグラデーションのピアスがきらりと光って同じように揺れていた。全く会話もせず、まるで彫刻の隣に居るかのような淋しさと、体の奥からふつふつと沸き上がる熱気と興奮とが同時に現れた。

 それもその筈、ユウカは極稀に居ると言われている『デュアル』と呼ばれる存在であるからだ。石に二色付いていて、綺麗なグラデーションになってるのがその証拠である。

 人は一般的に一つ才能の石を持って生まれるというが、中には二つ持って生まれる人も居るらしい。そして、それは次第に一つになり、二色に変わる。

 一般的に石が完全に輝くのは中学生頃と言われているが、この体質の人は小学生頃には輝くらしい。未だに輝かない見窄らしい石を手にした私とは大違いだ。


「ユウカちゃん、ってさ」

「どうしたの?」

「デュアルなんだね」

「うん。バレた? 皆がピアス付けてるから、私も付けないとって思って付けたんだけど、やっぱりバレちゃうか」


 言葉と裏腹に、惜しげも無く見せられた左耳の宝石は歩く度に揺れている。ユウカはそう言うと、此方のピアスを伺うように向くが、私は直様耳を髪で隠した。当然、耳に石を付けてはいない。

 気が付くとユウカはもう前を向いて、またドールのように顔に清い笑みを浮かべていた。メディアで注目されているピアニストなだけあって、耳を髪で隠す白く細い指は切り取られて美術展に飾られても可笑しくはない程の美しさを持っている。

 駅に到着すると、別の路線だと言って直ぐに別れて行った。私とハーモニーが奏でられそうな高く丸い声で別れの挨拶を言って、少し低く鋭い私の声を嘲笑うかのように白い手で口を覆ってクスクス笑っていた。

 いつもと変わらずに振る舞っているのだろうが、音楽家故か、それともデュアル故か、その笑顔の裏が見え透くのだ。ふと冷たい表情になって、全ての出来事に干渉しないと言わんばかりに人を寄せ付けない。

 私はこの女を、出会ったその時から恨んでいた。

 通過していく電車の風に吹かれ、別の高校の女子達はピアスを風に揺らしてケラケラ笑っている。ぼんやりと上り電車と女子学生達を見送り、ヘッドフォンを耳に付けて日常の音を遮断した。



 それはもう、ガラスを噛み砕いたかのような味のする美しい旋律だった。噛めば噛む程に白い味が広がり、耳を擽る。恥ずかしがっていた筈のユウカの旋律に、耳が冷たさで凍りつき、そのまま崩れてしまいそうな程に酔いしれていたのは、私だけではない。

 隣で桃色の瞳を輝かせている女子生徒・カナタもまた、そうだった。

 カナタの才能は、「音色を聴き分ける敏感な聴力と感覚」だった。本人が自己紹介の時、誇らしげに語っていたのを思い出す。

 私はといえば、適当に、まだ分かっていないが、最近開花したと自己紹介をした覚えがある。

 演奏を終えたユウカは正直にデュアルだと答えようとせず、片目に青いカラーコンタクトを入れて「研ぎ澄まされた美的感覚」だと答えた。しかし、もう数人にはピアスの色を見られデュアルであることがバレているらしい。

 その研ぎ澄まされた感覚から生まれた音楽は、声を失う程に美しく、まるでこの世の者ではないようにさえ思えてしまう。

 ユウカにいつもの綿菓子を噛み砕いたような甘ったるい声で話しかけるカナタを横目で見つつ、私は他の人のピアスの色を探っていた。


「ユウカちゃんの演奏、凄いね! とっても心が洗われて綺麗だった!」

「そう? 私はカナタちゃんの演奏、大好きだよ。何年ピアノやってるの?」

「三歳くらいから、かなぁ」

「私は二歳くらいからだよ」

「へぇ! やっぱり凄いんだね! いいなぁ、今度連弾しようよ!」


 私も昔は数年程ピアノを習っていた。しかし、あっという間に年少者に実力で越されていってしまった。先生は口にはしなかったが、私には先生の諦めが見て取れていた。

 大抵、何をしてもそうなのだ──話している二人に乗っかろうと振り向いた時には、二人は既にその場を離れていた。

 置いて行かれた。ユウカとは最近仲が深まり、普段から一緒に行動する程になっていたのだが、カナタとの話に夢中になり、完全に私を除け者にして数歩先を歩いて行く。声を掛けても隣に立っても歩幅は合わず、まるでカナタのピアスの光で私が霞んでしまっているかのようだ。

 ふとブレザーのポケットから取り出した巾着に視線を落とす。その中には、埃一つ無く綺麗でありつつ、輝かない原石がころんと入っていた。僅かに赤色が顔を出してはいるが、それはアクリル絵の具を少しつけてしまった程度のものだ。お世辞にも、才能の輝きを持つとは言えない。

 ふふ、と思わず笑い声が溢れてしまう。前で歩くユウカは白い手で口を覆わずに、カナタの方を見て、きゃはははは、と笑っていた。

 嗚呼、下品だなァ。

 台風が近いこともあって、三階は窓を開けると風が強く吹き込んでくる。二人の声が外にふわりと広がっていくも、私の耳に風が吹き付けてもう聞こえなくなった。



「センセーの授業、なんかダサいよね」


 後ろから聞こえた声は届いていないのか、随分と年をとった男性教師は生徒に熱く語りかけ続けている。

 国語教師にはロマンチストが多いが、この世の中、ロマンチストは生きていけない。このような人達を総称して、人々は懐古主義者と呼んで蔑んでいた。静かにノートを取りつつ、黒板を見やる。

 其処には、努力こそ才能開花の道標、と激しく荒ぶった字で叩きつけられていた。「努力」という言葉は漢字検定でもかなり難易度が高い級で出てくる単語のようで、クラスメイトの一割程度しか話を理解していなかった。それでも男性教師は誇らしく熱く語り続ける。


「いいか、君達。才能の石だか何だか知らないが、俺が生まれた時はそんなもん無かった!

何に頼ってたかって? 有名な国語辞典で引かないと出てこない言葉、『努力』だ。

これは、血を流す程に頑張り、ベストを尽くすという意味だ。

才能が重視される今、君達に是非憶えててもらいたい字だ」


 電子辞書によれば、努力とは、心を込めて物事にぶつかり、骨を折って物事の実現に努めることだ。

 言っていることは正しいのだが、その感覚は私を含め若者にはあまりピンとこないものである。眉を吊り上げて、口には笑みを浮かべて強く強く言ったかと思えば、クラスメイトの冷ややかな視線に気付いたか、素早く授業へと戻り始めた。教室にはかつかつとチョークを叩きつける音だけが広がっている。

 その姿は私が出会ったことのある社会科の教師に似ていた。高校生故にある程度乗っかってくれるから良いものの、反抗期という面倒な時期に浸かって目が死んでいる中学生に対して同じ話をした時には、他人事だというのに冷や冷やさせられた。

 赤い眼鏡の下はまだ若々しい光を持っているにも拘らず、レンズの向こうは暗い紫と怒りの赤の霧がかかった生徒達が居るために此方に光は通らなかった。


──知ってるか? 血を流して努力すると才能が開花するんだってよ!

──マジ? ガセネタ乙。

──おい! 本当みたいだぞ! 俺も開花した!

──マジかよ……ここまで来ると本当みたいじゃん……


 インターネットには数々の実践してみたスレッドが並んでいる。それを見て、懐古主義者ではなくオタクと呼ぶ人も多いようだ。

 嘘と曖昧な物とほんの少しの真実で出来たインターネットというものは、時に真実より真実らしい嘘を突き付けてくる。

 チャイムが鳴り、男性教師が出て行ったことをいいことに、女子生徒も男子生徒も寄って集って先程の話に難癖をつけていた。

 結局年を取れど、偏見は変わらない。それは才能を象った偉大な石が毒を持つなどという戯言が収まらないのと同じである。

 学活が行われ、担任が何かを話し始める。ユウカは隣に居るカナタと一緒にそれも気にせず会話していた。

 放課後に向けて、徐々に教室の温度が上がっていく。授業中は静かになって冷ややかな目を向けているというのに、授業後はおやつを強請る子どものようになる。それはいつになっても治らないのだろう。

 足元に転がる紫の石の欠片を見つめながら、担任の話を聞き流した。



 今日の収穫は多い方だ。紫に緑、赤に黒、そして白の欠片が手の中に収まっている。

 そろそろ外の暑さに影響されて暖まってきた水道水でゆっくり濯ぎ、私にお似合いな埃一つ無い宝石へと変える。人目を避けて独りで隠れん坊をしているような気分である。

 倉庫に向けてだんだんと少なくなる人の足音に呼応するように、私の心は鎮まっていった。

 埃一つ無い倉庫に駆け込み、口の中に一つ一つ石を置いていく。先ずは紫だ。前髪を耳に掛ける。

 まるで宇宙の煌めきを口の中に入れたかのようなパチパチとした刺激が舌に走った。この才能は恐らく芸術関連であろう。噛めば噛む程にコスモとカオスが深まっていって、目を閉じれば満天の星空が瞼に張り付いて見えるようだ。しばらく氷のような冷たさを感じつつ宙を見つめていると、宇宙が閉じ込められた石は舌の上で溶け消えた。

 次は緑である。また落ちてきた髪を耳に掛けて、舌の上に置いてみると、今度は口の中で跳ねるような食感が脳を満たした。香りは何処か森の中の湿ったような、それでいて心地良い霧の中に居るような感覚に襲われる。耳元で誰かが山を登る足音が聞こえてくるかのようだ。山麓独特の肌にさらりと滑る湿気が清々しさを感じさせる。舌の上でころころと転がされた後は、葉っぱや花の青緑の香りを残して消えてしまった。


──血を流して努力すると才能が開花するんだってよ!


 今食べた二つの石に血の味は混ざらない。半信半疑である故に、いつも石の中に鉄の味を探してしまう。しかし、今まではあまり遭遇することは無かった。

 そんなものは無いのかもしれない、と諦めつつも、赤色と言うよりは紅色と言うべきであろう石に血を垣間見て、舌に放り込む。口を閉じた瞬間、それは私の頭を殴りつけた。

 声が出ない程に驚愕した。舌の上に広がる鉄臭い匂い。しかし、其処から連想できる場所は学校のグラウンドだ。そして、私は風を切って走る──風の透明さに、努力と興奮の赤がふわりと広がって、今度はミントのような味を広げた。私を覆った風は、血と汗の匂いを軽く持っている。生暖かいその速さは、私の足をどんどん進めてしまいそうだった。この石の持ち主は陸上部に所属していると推測できる。

 きっと努力という難読文字のことは知らないだろうが、それを体現してみせる人なのだろうと思えた。


──これは、血を流す程に頑張り、ベストを尽くすという意味だ。


 舌の上で溶けるまで、私は才能の石の毒に侵され、ぼんやりと幻覚を見続けていた。後一つ残る黒い石を飲み込むこともできない程に、人を興奮させる赤が舌に広がって、濃い余韻を残すからだ。

 ──そっと巾着袋に私の埃一つ無い石と一緒に黒い石を放り込み、人の足音が聞こえなくなるのを感じるまでドアに背を預けた。

 静かな中に、視線を感じる。血と汗の混じった努力の味に酔い痴れる私は気付かなかったが、冷めてきた私は気付けた。恐る恐る振り向くも、其処にもう人は居ない。

 パシャリ、とタブレット端末のシャッター音がしたかと思うと、ぱたぱたと勢い良く駆けていく音が遠ざかって行った。周りの目も気にせずに飛び出すと、ふわふわと走るカナタの後ろ姿が見えた。慌ててその背を掴む。


「ねぇ……カナタ、ちゃん。何で、逃げるの?」


 カナタはゆっくり、怯えたような勝ち誇ったような、はたまた見下したような、とどのつまり化けの皮がめくれた顔をして振り返った。

 普段ほわほわした雰囲気を漂わせたお茶目なキャラとして知られているらしいが、全くそんな風には見えない。王冠をこれ見よがしに頭に乗せて、愚民を叩く為の鞭を持ったような、そんな姿に見える。カナタは口元に小さく笑みを浮かべていた。


「え、ごめんね! 私、ちょっと急いでたから……誰かが追っかけてくるのかなぁって思ったら、ツボミちゃんだったんだぁ!」

「何を撮ったの? ねぇ、見せて?」

「えー、ちょっと見せたくないものが在るんだよォ」

「見せて」

「ツボミちゃん、怖いよ」

「見せろ!」


 自分でも女らしくない姿でカナタの端末を掴んだ。がしっと掴んで、それを奪う。そうすると、カナタはちらりと後方を見た後、俯いて肩を揺らし始めた。

 それに目も向けずに私は写真を見て、私が石を片手にしているものだけを消去しようと弄り始めるも、カナタは運良く近くを通った先輩に何やら話し掛け、その場から逃げ出そうとしている。

 押しつけるような形で端末を渡し、直ぐにでもその場から走り去ろうと思った。物的証拠は消せたが、カナタのような人気の女子生徒が噂を広げればあっという間に拡散するだろう。それはまるで既存のSNS上のデマのような、細菌のような、瞬く間にクラス全体に広がるものだ。黒い粒子のような悪意が教室の空気に混じって、教室に居るだけで苦しくなる。

 それはもう中学生時代に慣れた。私が魔女だと再び呼ばれることになるのは直ぐであろう。

 じっとりとした雨の湿気が風と共に吹き込んでくる。カナタは端末を片手に遠くへとまるで水溜まりをぽんぽん踏みながら歩くように逃げて行くが、私は傘も持たず重くなった髪の毛を動かすのに必死でゆっくり歩いているかのようだった。



 今でも才能開花に関する努力というキーワードを用いた噂話は広がっているらしい。一部の人はそれを試し、一部の人はそれを懐古主義者によるデマだと言って非難し、大多数の人は都市伝説として受け止めているようだ。

 図書館にもそれに関する文献は無い。在ったとしても、借りる人は一部のオカルト好き且つ懐古主義者だろうから、需要が無いと思われる。

 中にはホームページまで建ててそのことについて検証したり情報を集めたりしたようなことが書いてあるが、信憑性は定かではない。

 きっと今避けられているクラスメイトにそれについて聞いたとしても、誰も知っているとは答えないだろう。

 一歩、足を出す。やはり想像できた通り、教室内には黒い霧が立ち込めたように悪意が蔓延っていた。それは私から発せられているものか、周りが発しているものなのかは全く分からないが、中学校の頃のように息苦しく、肺に重くのしかかるものだということは直ぐに分かった。

 すうっと息を吸う。肺が痛み、鼓動は早まる、胸は痛む。吐いてみると、肺の痛みは増して、吐ききれなかった空気が心臓をチクチク刺してきた。お腹と頭に誰かが寄りかかったかのようにぐわんと鈍い痛みが走り、足を前に出す気が一気に磨り減る。動かそうとするエネルギーは、全て溜め息に変換された。


──彼奴って、魔女みたいじゃね?


 言葉足らずの中学生でも、魔女裁判という異端審問のことは知っているようで、虚構ばかりの知識を駆使して私を懸命に虐め上げた。野蛮さは侮辱を暴力を以って成そうとする。故に、私の肌には痣が出来、髪はアシンメトリーになり、持ち物はいつしか水の跡がくっきり付くものばかりになっていた。

 しかし、同じ私を魔女と呼ぶ人間だとしても、高校生は賢明で陰湿だ。今度は仲間外れにして私をクラスから間接的に追い出そうとしているのだ。周りから見れば、それは私がクラスから逃げたことに等しくなる。

 このやり方には流石に度肝を抜かれてしまった。私から見ればデュアルで何でもできる、傲慢で下品なユウカの方が魔女に見えるのだが、周りからはヒロインだと思われているようだ。

 才能さえ有れば私の方が皆に認められるのに──ふつふつと込み上げた間違った怒りが拳を強く握らせる。逆に言えば、才能を手に入れさえすれば良いのだ。

 放課後のチャイムを合図に外へ出て、人目の無いところで黒の石を噛み砕いた。この燃え上がる感情は味覚をも鈍らせる。まるで砂利を噛み砕くような歯への違和感に、大して味わいもせずに胃に飲み落とした。

 輝きもしない原石を見て小さく舌打ちをぶつける。



 机の上には無駄な本が山となって積まれている。どれ一つとして求めている情報は書かれていなかった。血液や怪我と努力との結びつきは分かりそうにない。それどころか、先程からわざとぶつかられて本が落ちてばかりだ。

 前髪で目を隠して本を読む私に、舌打ちをかまして通っていく生徒達は誰一人として笑っていない。

 ふと顔を上げると、其処には端正な顔の女性が立っていた。ユウカは今日もカナタをまるで下僕のように携えている。むっとした顔で、落ちた本を拾い上げていた。


「……もしかして物を拾う才能も無いんじゃないの?」

「何それ、面白いー」


 私から少し離れたところで、わざとらしくカナタとユウカは談笑していた。苛立って振り上げた足が机を揺らし、本を落とす。二人が同時に振り返ったのを見たときに、私は絶句していた。

 二人の目は、明らかに私を蔑んでいた。口元に僅かな笑みを浮かべている。目が上向きの半月に変わって、青と桃のピアスがふわりと揺れた。その目に真っ黒な化け物を湛えているようにも見える。

 きっとこれは、私を魔女と呼ぶ全ての人が私に向ける表情なのであろう。ギラギラと青と白を混ぜたピアスは私を見下ろす。才能なんて無い癖に──そう聞こえた気がした。

 私は何故か分からないが、直ぐに目を逸らしてまた本を読み出すことができてしまった──いっそ殴ってしまえたら。一気に喉の辺りまでせり上がった熱い何かを強く飲み込んで、そのまま黙り込んだ。

 積まれた本を見つめて小さく溜め息を吐いた。がらんと空いた教室には強く風が吹き込む。大きく泳いだカーテンを眺めているだけで、胃に溜まった熱く煮え滾るものが涙腺を刺激してくる。泣き出したい気持ちを意地で抑え込んで、張り裂けそうな吐き気を封じ込めるように歩き出した。

 コンクリートは反発が強い。足が震えてしまいそうだ。本など当てにならないことに気がつくのにはほんの少し遅かったように思える。赤く濁った腹に溜まった物を掻き消すように、舌の上には汗と血の味が広がった。

 努力という名の味は誰も感じたことが無いであろう。この味を追い求めるだけに片手にカッターを持っているのだと、命をも危険に晒そうとしているのだと思うと、虚しさで勝手に涙が流れてくる。


――血を流す程に頑張り……


 家に着く頃には、頬は其処から出血でもしたかのように水で覆われていた。家には誰も居ない。才能を会得する儀式を行うにはぴったりだ。そして、あまりにも残酷だ。

 ひたり、ひたりとまるで幽霊の足音でもするかのような自分の足音だけを聞いて、使い古した自分の部屋へと辿り着いた。

 ぺたりと座り込んで、カッターを手首に当てる。

 頭には私に「ツボミ」と名づけた親の顔が思い浮かぶ。才能が開花しない名前を付けた自分を恨んだことは有るのだろうか。開花しない蕾など、この世界では必要無いということに、早く気がつくべきだったのだ。毒を持っている方が高貴だなんて、馬鹿げた世界に生まれたことに気がつけない私は未熟であった。

 音も無く赤く引かれた腕の線はじゅくじゅくと痛み始めて、肉を切る感触を手に伝える。

 巾着の中の石は輝きもしない。青ざめているのは自覚できるが、それでも今度は太ももにカッターを振り下ろした。掠れた叫び声が部屋にこだまする。これでも駄目だと言うように、石はころんと転がっている。

 意識が遠のき始めるのも無視して、今度は腹にカッターを刺した。全ての人への赤黒い嫉妬と恨みのこもった叫びが口の中で暴れ出す。

 今度は脳裏に白く清く、誇り高きユウカの姿が映る。同じく誇り高い才能を持つカナタに惚れ込む姿は、決して私と違わない筈だった。しかし、私は出会った時から彼女を憎んでいた。

 これで赤い才能を開花させたならば──そのイメージも痛みで擦り切れ、黒白に変わっていく。ただひたすらに、ユウカのピアスをも凌駕する美しさを持った石を望み、痛みに耐えられずこぼす嗚咽と涙、そして血液をぼんやりと見つめつつ、視力を失っていった。

 血液は首から流れ出した時にはもう止まらなかった。暗転した世界には私の輝くアビリティストーンが有る。誇り一つ無い石は、遂に赤紫の輝きを放ち始めた。

 嗚呼、これが私の才能なのだ。なんと美しいのだろう。

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