十五日目

 たとえば、コントローラーが一つ無いとき。たとえば、友人の集会の投稿を見たとき。たとえば、プリントが一枚足りないとき。たとえば、窯の中身が空っぽだったとき。たとえば、事後報告を聞いたとき。

 それは、白い壁に罅が入って、情報が雨漏りをしているから起こるのだ。

 スタンドアローンの六人は、外界との連絡を断っている。今日もテレビ越しに人のいなくなった街を眺めている。ネットの漣は遠く、車の通り過ぎる音にかき消される。ただ、まるで砂浜に打ち上げられたボトルメッセージのようにして、知らせがやってくることはあった。

 嗚呼、あたしのいないところで、こんなに楽しいことが。

 羊皮紙に書かれた「楽しかったこと」の残滓を目にしては、疎外感に打ちひしがれ、海へと飛び込みたくなる。海の中はきっとほのかに温かくて、されど少しずつあたしたちの体温を奪っていくのだ。暗くて静かな世界は、その海の中には無いのだ、驚くことに。

 海の中では、常に誰かに見られている。温もりを求めて身を投げた人々の声で飽和している。騒がしくて恐ろしくて、それでも温かいから抜けられない。誰かはあたしを傷つける。誰かはあたしを抱きしめる。もっと温かくなりたいからだ。あたしから流れ出す血で、あたしを抱きしめた体温で、徐々に冷たくなっていく体を慰めたいのだ。

 皆はそうしているし、それがあたしの目につくこともある。幸せそうにぷかぷかと浮かんでいる奴らを見て、あたしは独り密かに落ちこんでいる。

「意地、張ってんのかなぁ、あたし……」

 あたしの独り言に、スマートフォンでゲームをしていた雛芥子が顔を起こした。彼は何度か瞬くと、どうかしましたか、と物腰柔らかに話しかけてきた。口元にかすかな笑みをたたえて、目をふわりと細めて。彼を見ていると、人間じゃないみたいだな、と思う。

「いや、なんか、寂しいな、って……」

「寂しい? 僕と話しましょうか?」

「そういうことじゃなくてさ……友達が欲しい、って」

 雛芥子が首を傾げる。確かに目の前に話し相手はいる。彼は聞き上手だから、あたしが一方的に話したって聞いていてくれるけれど、そうじゃない。あたしが恋しく思っているのは、あたしが元々浸かっていたあのネット世界だ。

 流れてきたウニに傷つけられることもあった。サメに食われそうになることもあった。それでも、あたしが誰かと繋がっていられたのは事実だ。其奴が気を使わないといけない相手だとしても。其奴がいかに面倒臭い人であっても。

「こうやってあんまり携帯触らないで自分の部屋で引きこもるようにしてから、友達減ったし、誰かと話す機会も減ったじゃん? それが寂しいなって」

「おやおや……好転反応、ってものですよ、これは」

「なんていうか……なんで生きてんだろ、あたし。誰のために生きてるんだろ、って」

「リンドウ。誰かのために生きて良いものではありませんよ」

 雛芥子はそう言って人差し指を立てた。まるで神父みたいな素振りに、あたしは思わず吹き出す。雛芥子の隣に座って、続きを求めて彼の顔を見上げた。彼は穏やかな笑みを潜めて、真面目な顔であたしを見下ろす。

「誰かが喜んでくれるから。誰かに愛されるから。そんなことで生きていることを実感するような生き方は、良くないと思いますよ」

「なんか、ヒナゲシが言うと変だね」

「そうですか?」

 きょとんとしているけれど、かつて最も他人のために生きていたのは雛芥子だ。誰かの苦しみに寄り添い、優しい言葉をかけて──そうやって、虚構世界でも、現実世界でも友人関係を構築していた。彼がいなかったら、あたしたちは誰かと仲良くすることすらできなかった。皆不器用で、正直で、真面目で、甘えん坊さんだから。

 雛芥子はいつも、他人から見てどうか、そんなことばかりを考えて生きていた。自分がどう動けば、人が楽になるだろうか。自分が何を言えば、相手は喜んでくれるだろうか。間違った日には、顔を真っ青にして所構わず謝ったものだ。ごめんなさい、僕が悪かったんです、どうか許してください。そう言うとだいたい人間は喜んで彼を非難するから、それで全てが済んでいた。

 それも昔の話、今の雛芥子はこの調子だ。あたしを見下ろす瞳には、相変わらず慈愛がこもっている。

「とにかく。誰かと繋がっている気がしている一方で、非常に閉鎖的で、下手したらその糸で首を絞めてしまいます。誰かがそばにいてくれているような感覚がしても、それはしょせん妄想ですよ」

「でも、友達が減ったのは悲しいよ。誰もあたしのことを見てないし、誰もあたしの声を聞いてくれない……」

「僕らがいるじゃないですか。それに、誰かが見ている状況で、素直な本音なんか言えますか?」

 首を振る。言えるわけ無い。少しでも棘のあることを言えば、それが釣り針となって誰かを釣り上げてしまう。まるで自分が有名人であるかのような振る舞いをしないと、誰も愛してくれない。それができない人間は、そもそも人と繋がる価値が無い。

 世界が感染症で病んでいるから、当然そこに住まう人間の心も病んでいる。どんどん悪い方へと引っ張っていく。海の底へと、仲間が、仲間の仲間が、仲間の仲間の仲間が、あたしたちを引きずり込んでいく。もっと見て、もっと来て、もっともっと繋がって、もっともっともっと聞いて、もっともっともっともっと理解して。承認欲求が口を開けて、深海の底、海溝となってあたしたちを見つめている。

 狂いそうになって、あたしたちは浮上した。否、タイムラインから「離脱」した。人間関係からドロップアウトした。綺羅びやかで強かでかつ協調性が高そうに見せなければ生きていけない関係が怖くなって、あたしたちは逃げ出した。それゆえの寂しさだ。

 ぽん、と頭に手が置かれた。雛芥子の大きな手が温かい。女神みたいに美しいのに、彼の手は節があってがっしりとしている。子供扱いされるのは嫌いだけれど、こうやって撫でられるのは嫌いじゃない。

「きっとまた戻れば、『独りじゃないんだ』と感じることでしょう。来る者拒まず、去る者は追わず。いつだって人々はあんたを歓迎することでしょう。

しかしながら、何でも知れて、何でも共有して、何でも分かち合って……そんな理想郷は、ディストピアと紙一重だとは思いませんか?」

「支え合って生きてるのは楽しそうだよ?」

「僕らだって支え合っていますよ」

「誰かに必要とされていないのに?」

「誰かに必要とされる方が苦しいときだってあるでしょう?」

 黙り込む。ぐうの音も出ない。必要とされたって、あたしの話なんて誰も聞いてない。「あたし」という形だけを求めている。ねぇ、相談したいことがあるの、のあとは、あたしなんて要らない結論が待っている。それなのに、夜に呑まされてまで、睡眠時間を奪われてまで束縛される苦しみを、あたしはちゃんと覚えている。

 やっぱり、浜辺には寄らないようにしないといけない。きっと大波が来て攫われてしまう。孤独に身を投げてしまう。死んでしまう。水底で渦巻いている、世界が滅ぶような不安に巻き込まれて、あたしたちはまた抱き枕のように扱われる。

 だって今の状況では、誰も外に出られなくて、誰もパンデミックが収束する見込みなんて無くて、無理やり働かされる人、家に拘束される人、そんな中でも働きたがりな人がいるじゃないか。皆、誰かに褒めてほしくて自己顕示欲を示して、醜くて怖い顔をしているじゃないか。

 今日も何時間働くぞ。こんな状況でも必要とされてる俺かっこいいでしょう⁉ 

 働いている奴なんて馬鹿じゃねぇの?

 嗚呼、無理に働かされてるんだ。お前らは良いよな。こっちの気も知らないで。

 皆で協力しましょう。外出を控えましょう。

 それに触れることを考えると、さきほどまでの孤独感が嘘のように消えていく。ボトルメッセージが、まるであたしたちを引き込む餌のようにも思えてくる。

 だから、あたしはそれを見なかったことにして海に流す。忘れることは難しいけれど、それでも流さなきゃならない。海に住まう化け物たちと決別するために。耳を塞いで、絡まらないように。自分の足で歩くために。たとえ、意地を張ることになっても。

「……ヒナゲシ、もうちょっと撫でて。あたしの話聞いてよ」

「良いですよ? リンドウはいい子ですね、偉い偉い……」

 雛芥子がにこりと微笑んで、睫毛が瞬いて、まるで蝶々が羽ばたくよう。あたしは彼に寄りかかって、くだらない愚痴を吐き始めた。彼が聞いてくれるなら、そうさせてもらおう。

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