五日目

「ねぇ、なんだか胸がざわざわして、眠れないの」

 きっかけは、竜胆お嬢様のそんな発言だった。

 午後十一時、竜胆は独りでリビングに降りていって、ポテトチップスを開けた──明日のためのお菓子だった。まだ起きていた秋桜が、こんな時間に食べたら、お肌に支障が、と言ったらしい。秋桜と僕は外見を強く気にするから、夜食なんてしないし、夜更しなんてしない。常に美しくありたい──それは、秋桜と僕を繋ぐ一つの信条だった。

 秋桜の発言を無視して、竜胆はポテトチップスの封を開けた。たちまち立ちこめる、チーズと油の香り。竜胆はスマートフォンを置いて、動画を眺めながら、一枚、二枚と食べ進めていく。秋桜の声など、気にも留めない。

 あっという間に食べきってしまうと、彼女は譫言のように、たりない、と呟いた。

「足りない、って……貴女、さっきポテトチップス食べてたじゃない」

「足りない……足りない……足りないよぅ……お腹空いた、なんか無いの……?」

「何も、って、あ……」

 竜胆は黒い炊飯器を開けた。保温の切られた窯の中に、白米が半分残っている。夕食分が残っていたのだろう。本当ならば、蜜柑が冷凍してしまっておくべきだったのだが……

 無造作にしゃもじを手にとって、ご飯茶碗に一杯盛る。冷蔵庫を開けて、明太子を乗せる。それから、無我夢中で食べはじめた。

 そこに居合わせたのが、僕と秋桜。僕はそろそろ寝ようかとゲームの電源を切ったところだった。僕は立ち上がって、竜胆に声をかける。

「よく食べられますねぇ。一時間前でしょう、食べたの」

「……だって、お腹が空くから……」

「それは本当の空腹ではないって、【解読不能】が言っていたじゃない。そこで食べてしまえば、明日も具合を悪くするわよ」

「分かってる、そんなの、分かってるもん……」

 平らげたご飯茶碗を流しに置いて、水を注ぐ。竜胆の声が落ちこんで、彼女の瞳のセルリアンブルー。フォークが置きっぱなしの食器に仲間入り。彼女は椅子に着くと、眠れない、と繰り返した。

 秋桜は息を吐いてタブレット端末の電源を切ると、寝ましょう、と言って竜胆と僕を部屋に連れていく。服が散乱した部屋の、物だらけの机の中から、無数の薬が入った救急箱を取り出して、プラスチックのコップを差し出す。

 そして僕たち三人は、いつもの倍以上の安定剤を呑みこんだのだった。

 ときに、今日は本当に何もしなかった。全く何も、だ。僕はゲームをしなかった。雛芥子センパイは読書をしなかった。蜜柑は家事なんてしなかったし、薊は小説を書きもしなかった。竜胆にいたっては、部屋から出てくることも無かった。竜胆だけが、自室にこもって作業を続けていた。

 自己収容生活が始まって、そろそろ一ヶ月。緊急事態宣言が発令される前から、仕事以外では外に出なかったから、そう数えても良いだろう。そんな中で、初めて「何もしない」をした。僕らは皆、晴れない曇天をぼんやりと眺めて、フォロワーを無くしたアカウントに引きこもって、各々好きなものを眺めていた。

 昼食も散々なものだった──そもそも、朝食を摂れる時間に僕らは起きていない。リビングに向かうと、味のしないねちゃねちゃな白米を食べたものだった。それからは、さきほど書いたとおり。何もしていないから、お腹なんて空くはずが無い。

「夜ご飯、一応あるけど。どうする、皆」

「僕はもういっそ、栄養バーと野菜ジュースとかで良いんですけどねぇ……」

「出たよ、ヒナゲシの不健康食生活。それを避けるためにミカンがいろいろやってんだろォ? 何でも良いから食べるぞ」

 蜜柑が声をかけても、五人の反応は芳しくない。曇った空に別れを告げ、閉まったシャッターに囲まれた四畳半、白い電気の下で、僕らは滞った空気に活力を吸い取られていた。

 蜜柑に引っ張られるようにして食事を始めたけれど、冷凍餃子に、納豆ご飯に、味噌汁。最後に水を添える。黄色い光を浴びた机をキャンバスとした、無彩色の食事たち。嗚呼、食べたくない──雛芥子センパイはそう呟いた。

 お腹が鳴ったから。お腹が痛んだから。午後九時は夕飯の時間。そこに空腹感は無いし、食べきっても満腹感は無い。

「……何もしなかったね、ボクら」

「いやいや、シャワーに入ったし、歯磨きもしたし、ご飯も食べたし。コスモスはイラストを進めた。インターネット自己収容生活のための蓄えもした。日記も書いたし、ソシャゲもした。こう考えると、アタシたちはずいぶんといろいろしたみたいよ」

「あと八日後には、学校が始まるのに。ボクらはどうしたら良いんだろう」

 大学の授業がオンラインになったからといって、遅刻も欠席も許されていないのは当然だ。ミーティングには各々の顔が映るし──メイクをしないといけないところが大変だ──授業までにはまるで外出するかのような準備が必要だ。

 過眠型鬱病。僕らにのしかかった、最悪のハンディキャップ。日によっては十三時間近く寝ている。九時間寝て、二度寝で二時間寝て、昼寝で一時間寝て、昼寝で二時間寝る。そのくせ夜は眠れない。【解読不能】は僕らを馬鹿にしたけれど、僕らにとっては毎日毎日朝起きて活動できるのが素晴らしいことなのだ。

 ずっとストレスがかかっていなくて、ちゃんと眠れていたから、そんなことも忘れていた。部屋が汚くなることも無かったし、小説が滞ることも無かったし、夜食に逃げることも無かった。全て、全て上手くいっていたんだ。

「……誰のせいなんですかね、コレ」

「誰のせいでもないですよ、ダリア。リンドウが気がついてくれなかったら、きっと僕らは誰も気がつけなかった」

「じゃあ、全員のせいね……」

「コスモスまで、自分を責めないでください。外に出られないのも、ネットに触らないのも、【解読不能】が家にいるのも、精神的に追いつめられるのも、僕たちのせいではありません」

 雛芥子センパイはそんなことを言いながら、ベッドメイキングに励んでいる。数日前は太陽の香りがしていたのに、今日ずっと布団にこもっていたから、すっかりその匂いもどこかへ消えてしまった。とっちらかったぬいぐるみの数々を並べて、こちらを向くようにしてあげている。

 センパイは強いな、と思う。センパイは些細なことでも褒めて、誉めて、褒めちぎってくれる。僕や秋桜よりずっと前から、希死念慮と、世界への満足感と戦っているから、こういうときに負けないでいられるのだ。

 ほら、と言って、センパイが手を広げる。おいで。まったく、自分を何歳だと思ってるんだろう、この人は。僕は彼の胸に飛びこんだ。ふかふかな髪の毛と、厚い胸板と、かすかに香る花の香り。優しく撫でる手のひら。

「今日も死ななくて、偉いですよ。明日も頑張って生きていきましょう。こうやって生き繋いで、いつか、六人で笑って外に出るんです。お金を稼いで、散財して、ゲームセンターに何時間もいて、ゴシックロリィタを買い漁って……」

「あは、センパイもけっこう買い漁るタイプなんですね。そういうのはリンドウと僕がやると思ってたんですけど」

「僕もプリザーブドフラワーを買いますよ。まだ誕生日だって祝ってもらってないんですから。ですから、乗り越えましょう」

 狡い、ボクも、と後ろで薊がふてくされている。蜜柑は落ちこんだ竜胆の頭を撫でながら、安定剤と睡眠薬を用意していた。

 感染症でも外傷でもなくて、心に刻みこまれた深い深い傷など、誰も助けてはくれない。この家には、【解読不能】を【解読不能】して僕ら六人しかいないのだから。六人だけで支え合おうと約束して、僕らはこの家に引きこもっているのだから。

 人肌を求めて外に出る馬鹿者にはならない。感染してしまったら、周囲の人間にも迷惑をかけるし、たいそう苦しんで死ぬことになる。基礎疾患は無いけれど、いざかかってしまえば、息を吸うのも嫌になるほどの痛みに襲われて、無理やり口を開けさせられて、それでも生かされて、その上で死ぬ。自我なんてあるか無いか怪しい、本当にゾンビみたいだ。なんて惨たらしい最期だろう。僕らはまだ生きていたいのだ。

 ……本当に?

 いけない考えが頭を過る。きっと、五人の脳裏にも同じことが浮かんでいるはずだ。誰かがそれを実行したら、皆、道連れ。だから、まだその選択はしない。誰かがパニックになって、追いかけて外に出たら全滅なんて、ゾンビゲーの鉄板でしょう?

 精神安定剤を限界まで詰めこもう。睡眠薬も限界まで詰めこもう。誰もこんな危なっかしいことを考えないように。頭を馬鹿にして、働かせないで、眠気がくるのを六人で待っていよう。

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