第9話 私と彼女の中だけで

『中学の同級生は何やら見た目も中身も変わったし、おひとりさま仲間には良い友人がいるようだし、どうにも居心地が悪い。

好いた人間のために健気に自分を変えようとすることも、己のこだわりを押し通すことも、ルールを飲みながらも曲げぬ芯があることも、何かを生み出して心の支えとすることも、なんと眩しく美しいことか。

だが自分は何もないまま、何も変わらない。』


パタンと音を立てて手帳を閉じる。

「おひとりさま仲間、ねえ」

桜子は隣で膝を抱えて眠る瑠依の顔を眺めた。奥まった薄暗がりの踊り場。屋上の手前にあるここは、桜子のお気に入りだった。嫌な授業をサボってみたり、タバコを吸ってみたり。人がほとんど来ないので快適だった。ざらついた床が却って居心地良い気さえした。


唯一桜子がここで顔を合わせるのが、この夢の中にいる瑠依だ。地べたに座り込んで、瞑想するうちに眠ってしまうことしばしば。今日も桜子が来た時には膝頭に額をつけて船を漕いでいた。だらりと下がった右手には、黒い表紙の手帳。


それをひょいと取り上げて、手慰みに読む。桜子は会話を交わすこともなく、瑠依のことを知る。互いに名乗ったこともないし、連絡先も知らない。ここでタイミングが合えば相席し、それぞれに好きに過ごすだけだ。


この手帳を桜子が開いたのは、初めて瑠依と鉢合わせた日だ。その時も瑠依は眠っていて、琥珀色の夕陽を浴びた青白い肌が綺麗だった。起きた途端桜子の存在に驚き、手帳を置き去りに階段を降りて行った。

残された手帳は当然のように桜子の手に取られ、中身を検められることになる。


『これでなんでも卒なくこなす天才なら絵にもなろうが、何もないから何にもならない』


目に入った瑠依の文字は、桜子の目には馴染んだ。何の変哲もない、しかしあえて人前では口に出さない彼女の内心が、滔々と綴られているだけ。冷えた紙に乗った文章が、桜子にぴったりくる気がした。

他人の手帳を盗み見て、本来覚えるべきであろう罪悪感は特になかった。そんな筈はないのに、これは自分に読まれるべきものであるように感じた。ただ、これは書いた人間にきちんと返したいとも思った。


中身を見たことは言わずに翌日瑠依に返した。それ以降も瑠依は度々桜子の隣でこうして眠りこけ、手帳を抜き取られている。

桜子が何気なく名前を呼んだ時も、個人的な話題を挙げた時も、瑠依は溜息をついただけで怒らなかった。


『恥ずかしい、とは違う。不快でもない。腹は立つ。別に悪くはない。私が取らせ、盗らせなければいいだけだし』


などという記述を見つけ、桜子はその後も堂々と手帳を拝借していた。




肌寒くなってきて、瑠依が身動ぎした。薄目を開けると、右手を握り、開く。自分の手に本来あるべきものがないことに気付いたらしい。顔を桜子に向けると、寝室に蜘蛛でも出たように、顔を歪めた。

「げっ」

手を差し出す。返せとの無言の要求だ。ちょっと猫のようだと桜子は思う。

「そっちが無防備すぎるんだよ」

軽く笑って素直に手渡す。

「……久しぶりね」

「まあ」

桜子は誤魔化すように、自分の銀色の髪を撫でつけた。




確かに近頃桜子はここに来ていなかった。休み時間は江や綾美と過ごすし、放課後は久仁子に勉強を見てもらっている。授業をサボって階段でタバコを吸っていたような人間が、勉強するからお気に入りの場所が遠のくというのも我ながら滑稽だと思う。


友人達の痴話喧嘩に巻き込まれた結果というかなんというか。桜子からすればなぜ喧嘩をした結果勉強をすると言う話になるのか理解ができない。どうも江は久仁子に弱い。


が、どうやら実際この勉強会を通して、江の能力は上がっているように思われた。そして机を並べている桜子もまた、多少授業がわかるようになってきたのだ。そうなると自然、授業の前に屋上へ足が向くことも少なくなった。




その間に瑠依はというと、詳しいことはわからないものの、手記の断片を照らし合わせるに、中学の同級生と気まずくなっているようだった。


『たまに素直に他人を称賛したところで、そんな気紛れは相手の日常にヒビを入れただけらしい。なんであんなことを言ったんだ。まあたぶん、羨ましかったんだ。』


瑠依は他人と話すと疲れる性質タチらしいが、その癖他人をよく見ている。誰が誰をどう見ているか。自分の発した言葉がどう届いたか。自分と彼らは何が違うのか。そんなことを思いながらじっとクラスメイトを眺める目線が、この手帳からは窺えた。


それでいて他人を否定することもない。懐が深い訳でもなく、変わりもしないことを否定することがただ虚しいのだろう。

そんな瑠依が今日頭を抱えてここにいるのは、珍しく深く後悔しているかららしい。


同中おなちゅーの子、好いてくれてるなら良くない?」

タバコ代わりのロリポップをの包みを剥ぎ、口に加えた。甘ったるいイチゴシロップの味が舌に纏わり付く。もう1本のグレープ味を瑠依に差し出した。

受け取った瑠依も、ガサガサと包みを開き、口内で舐めた。唇から突き出た細い棒がゆっくりと上下する。

「別に今後仲良くするつもりないし、あの子にはちゃんと友達がいるし。なのに割って入る形になったのが嫌」

「ふーん」


向けられる好意が時に厄介なのは、桜子もわかるつもりだ。

また別の話だが、過去現在の桜子の非行を知ってか知らずか仲間に入れてくれる友人達といると、はじめは息苦しいこともあった。

だが今となっては、その場その場を楽しむことが出来ている。それはたぶん、趣味の繋がりと、勉強と、過去の自分がある程度切り分けられるようになったからだ。何より彼女達が真っ直ぐで、今を失くしたくないと思えている。

最近はタバコの本数も少しずつ減っている。ゼロになる気配はないのだが。


瑠依は元同級生と今後近づくつもりはないらしい。だが自分の与えた影響が気になってもいる。消化するには時間がある程度必要だろう。逆に、近づかないなら時間があれば勝手に解決するだろうとも思えた。なら、瑠依の問題は本人の気持ちだけだ。彼女が虚しさを抱えながらも、勝手に浮き上がって平気で学校生活を過ごす人間だと、桜子はなんとなく知っている。




「まあ詰まるところ」

桜子は飴を溶かし切った残りの棒を口から引っ張り出して続けた。

「1人の時間、大事だよね」

「2人だけどね」

「1人と1人じゃん」

「まあね」


友達と呼ぶには遠く、他人と言うには知りすぎた。瑠依の言葉を借りるなら『おひとりさま仲間』。それもまた、悪くない。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る