第7話 ままならないほど愛おしいのよ

金木犀色の空を窓越しに仰いで、久仁子はため息をついた。彼女は身をもって悟った。そしてうんざりした。自分が今までいかに狭い世界に生きていたかを。

もう一度ため息をついて教室を振り返る。夕暮れの空のような髪で覆われた江の頭が、相変わらず机に伏せていた。その手には力なくシャープペンシルが握られている。



話は夏休みまで遡る。高温多湿の屋外と対照的に、冷房で心地よいドーナツショップでは、休暇を謳歌しているであろう賑々しい学生たち、子どもを満足させに連れ出した家族が所狭しとテーブルを囲んでいる。江のグラスの中で氷がカランと音を立てた。騒がしいはずの店内で、久仁子にはその音が妙に大きく聞こえた。

「だから、開き直るか改めるかどちらかにしたらどうなの?」

久仁子は苛立ちを、脚を組みふてくされる江にそのままぶつけた。つんと横を向いた拍子に、久仁子の耳の大きなピアスが揺れる。

4月に職員室から連れ出して以来、久仁子は江と度々校外で遊ぶようになっていた。品行方正な久仁子だが、制服以外の時にはビビットカラーのウィッグを被り、メイクをして、思い切ったファッションで出歩いている。ちなみにこの日はオレンジ色の髪をしていた。その趣味は江と意気投合するのに一役買った。久仁子がそれを校外でしか纏わないのと対照的に、学校でも金髪とミニスカートを貫く程度に、江はファッションが好きだった。

「学校でだけ大人しくしてればいいじゃない」

確かに趣味は合うし見た目も好きだが、久仁子と江には、相容れない部分がまだあった。

「くーはそれでいいのかもしれないけど、アタシはそうじゃない。大体、なんで格好までガッコにゴチャゴチャ言われなきゃなのさ」

ダンッと江はテーブルに掌を叩きつけた。

「シエがそう思うならもうそれでいいじゃないの」

半ば投げやりに相槌を打つ。文句を言うくらいなら従えばいいのに、と久仁子は思う。勿論あまり理不尽な指導には久仁子も納得はいかないが、江が教師に悪し様に言われるのも気に食わない。譲るところは譲った方が楽なのに、と考えてしまう。彼女たちと殆ど同時に入店した隣の客はもう席を立っていた。

「アタシだって、バイト先で食べ物に髪を入れないように結んでバンダナの中に入れろって言われたらやってる。だって理由がわかるもん。けど金髪が勉強だの高校生だのに合わないとか派手で目障りとかそんなのは、生まれつきでも染めたのでもカンケーないじゃん。なんで染める方だけダメなわけ」

江は自らが働いているラーメン屋を引き合いに出し、声を荒げた。それだってバイトが決まるまでにはその髪やメイクで難航したのを久仁子も知っている。

「ルールがえらいのかよ」

そう吐き捨てたきり、江は無言だ。飲み干したオレンジジュースに刺さっていたストローを忌々しげに噛んでいる。

久仁子からすれば、場所によって自分を切り分けることは普通だった。それこそ飲食店で従業員が髪を纏めることと、学校で生徒が制服を決められた通り着ることに違いはないように思われた。

しかし目の前の女は違うらしい。必死で手入れしている金髪も、くっきりしたアイラインも、太腿が見える短いスカートも、江にとっては譲れないものだ。そしてそもそも久仁子が彼女に声をかけたのも、それを綺麗だと思ったからだったりもする。凛として、自分があると、すれ違う瞬間にわかった。それを捨てることは久仁子の心にも膿を残すだろう。

溶けかかったカフェオレ色の氷をストローで突きながら、ぽつりと言った。

「これはルールとは別の話だけど」

久仁子の言葉に、江も視線を向けた。

「せめて勉強か部活か……なんでもいいけど、何か先生方が注意し辛くなる程度の実績でも残せば、まだ…………」

もごもごと口を動かしたが、最後は殆ど消えてしまった。自分でも落とし所としてあまり賢いとは思わなかった。

「なんか久仁子ってマジ優等生だよな」

ため息まじりにそう言いながらも、久仁子が逡巡して自分のために譲歩したことは嬉しかったのか、江の声に幾分か明るさが戻った。




ということで、ひとまずは江が家で勉強を頑張ってみることになった。2学期が始まってすぐの試験に向けてだ。久仁子はコツを教えてみたり進み具合を聞いたりしていたが、芳しくない。今まで課題を提出できれば御の字だったのだ。それ以上など、勉強の方法がわかっていないのだから捗らないのも無理はない。江の集中が続かないまま夏休みが終わった。


それで2学期からは、放課後に久仁子、江、桜子の3人で勉強をすることになった。もう1人の友人である綾美は、手芸部に参加する日が多い。ちょうどそれを待って一緒に帰るのにも都合が良かった。一緒に勉強することで互いに意識が高まるかもしれない。それに桜子も、江と同じく見なりで教師からは注目されがちだ。彼女たちの評価を平均くらいには引き上げる、良いパフォーマンスになれば、とも久仁子は思っていた。

桜子は計算や読解は苦手ではないようだが、とにかく暗記が嫌いだった。だが久仁子に問題を出してもらいながら、案外真面目に取り組んでいる。

一方の江は、文字を追うことが既に苦になるらしかった。とにかく慣れていないのだ。そんな訳で、今もすっかり机に突っ伏してしまっている。

久仁子は江と付き合うようになって、初めて学習の苦手な人間に目を向けた。取り組むことが当たり前になっていた自分の認識では、歯が立たないのだ。




「ま、それはしゃーないよ」

バイトに行った江を除いて、桜子と2人教室に残っていた時のこと。久仁子がついこぼした江への呆れと己の不甲斐なさに、桜子はさらりと返した。

「江も雑誌は熱心に読んでるし、興味とかやる気の問題もあるかもなー。なにせはなから分からないと思ってる授業は右から左だし」

「やる気ねぇ……」

それは本人に依存する部分が多い。元々久仁子は人に教えるのは向いていないと思っている。相手がどこでつまづいているのかわからないのだ。最近は自分が具体的にどう学習しているのかを改めて見つめ直してみてはいるが、江はもっと根本のところで自分とは違った。わからないことを、調べたり聞いたりしなくとも気にならないらしいし、文章を追っても目が滑ると言うし……

この作戦は見当違いだったのだろうか。久仁子はペンをノートから話してくうを見つめる。

「私はくーが見てくれて助かってるけど」

と歯を見せた桜子に、少し救われた気がした。

そういえば、江がどうすればやる気になるかなんてあまり考えたことがなかった。




久仁子は月曜と木曜の夜は塾に行く。それでも残れる限りは学校で江たちと勉強していた。

「もう無理」

この日も江は限界を迎え、ペンを放り投げた。桜子はトイレに行くと言って、教室にいなかった。その後も恐らく暫く戻らないだろう。

「じゃ、課題をこなすごとにご褒美をあげる」

これは先日から久仁子が考えて出した策であった。

「ご褒美?」

江はそんなものに釣られる訳がないとばかりに眉を歪める。への字に曲げた紅い唇が憎たらしい。

そもそも教師に何を言われても無視を決め込む江がなぜ無理だ嫌だとこぼしながらもこうして放課後まで机に向かっているかといえば、ひとえにそれが久仁子の提案だからだ。と、自惚れかもしれないが久仁子は考えている。

「目、閉じて」

そう言えば素直に従う。褒美を想定してか、ついでに掌を上に向けて。キャンキャンと課題に文句を言う姿は厭わしいくらいなのに、こういうところは憎めない。愛おしいとさえ思う。

久仁子は腰を上げて、江の隣に屈んだ。江のホワイトブロンドを束ねる大振りのシュシュをするりと抜く。江が怪訝さとくすぐったさどちらからかわからないが顔をさらに歪めた。

「開けていいよ」

久仁子は耳元で、努めて囁くように告げる。目蓋を開けた江が久仁子との距離にさらに目を見開く間もなく、久仁子は石蕗のようなブロンドヘアに口付けた。

「はい、ご褒美」

それだけ言うと、久仁子は元の席へ戻った。江が口をぱくぱくさせているのを、少し愉快な気持ちで眺める。


「たっだいまー……って江、なんで顔真っ赤?」

戻った桜子が首を傾げる。

「な、なんでもない!!」

桜子の買ってきた菓子を摘みながら、その後は変わらず勉強が続く。黒板の上に掛かった時計を見れば、そろそろ塾に行かねばならない。

「そうそう。キスって、する場所によって意味があるんだってね」

それだけ言うと、屈託なく手を振る桜子と、硬い笑顔の江に手を振り、お先に、と久仁子は教室の扉を静かに閉めた。

これで江が、調べることと知ることを覚えてくれれば楽しいのだが。知らなければそれはそれで、久仁子だけがわかっているのも悪くない。




久仁子の思惑はさておき、江はその頃、久仁子が存外ロマンチストであることを知り、それを踏まえて次の『ご褒美』を思う自分に煩悶したりして、スマホを握りしめているのだった。

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