006:暁雨、早朝に川原を散歩する(2)

水溜みずたまりィ、びちゃびちゃや、おとうさん」


 小さい長靴をいた足で、弓彦ゆみひこはいかにも楽しげに、川原にたまった泥水どろみず泥濘ぬかるみに踏み込んでいきました。


 一瞬で着物まで泥まみれです。


「ユミちゃん……おかあさんがまた怒るで」


 思わずボヤく声になって、一人ではしゃぐ弓彦ゆみひこしかったものの、うちの幼子おさなごには全く聞いている気配けはいもありません。


 キャッキャッと喜ぶ声を上げて、元気に泥水どろみずの中をねております。


 まるでかえるさんやないか、ユミちゃん。やれやれ。


 どうも、皆さま、またお会いしましたね。秋津暁彦あきつあきひこです。


 いいや、今は暁雨ぎょううさんやった。どうもまだ新しい名前が馴染みませんが、暁雨ぎょううとお呼びください。


「はよ帰って、風呂ふろ入らなあかんなぁ」


 もう帰るでという意味で、弓彦ゆみひこに声をかけました。


 朝湯あさゆも悪うないもんや。ユミちゃんも風呂は好きです。


 散歩さんぽから戻ったら、ゆっくり湯でも使おうかと算段さんだんしておりました。


 曇天どんてん薄日うすびがさす空模様そらもようで、実にどんよりとした晩秋ばんしゅうの京の朝です。


 雨はもう上がっておりました。


 夜通し降って、空も満足したのやろう。


 辺りには、一晩たっぷり降った水気みずけが満ち満ちておりました。


 実のところ、我が秋津あきつの家は、月読つくよみ海神わだつみ加護かごを受け、さらには蹈鞴たたら製鉄せいてつの火の神の覚えもめでたい家柄いえがらで、私もその血筋のもんで間違いあらへんはずなのですが、どこで何がまぎれ込んだのやら、水神すいじんがあるのです。


 水気の多い日は、良い天気。そういうことのようで、雨など降ると気持ちのええもんです。


 弓彦ゆみひこもそうなんか、昨夜ゆうべから機嫌きげんがええ。


 ろくに寝付かず、妙に興奮して見えます。


「お水に入ってもええ? おとうさん」


 水量の増した大河たいが桂川かつらがわを見やり、弓彦ゆみひこがどことのう乱れた息で言いました。


 あかん、あかん。子供が泳ぐような日和ひよりやあれへんやろ。


 それに今どき、桂川かつらがわでは誰も泳がへんようです。


 何でも昔はこの川も、河童かっぱるとか言い伝えられていたそうや。


 それだけ危ない川やということでしょう。


 ほんまにったんが気のええ河童かっぱかどうかは、何も申せませんけどね。


「ユミちゃん、今の子は川で泳いだりしいひんのや。帰って風呂ふろつかろ」


 泥んこの息子を見下ろして、たしなめるつもりで言いました。


 すると、急に息子がキーッと、尻尾しっぽまれた猫のように怒ったのです。


「イヤや! ユミちゃん泳ぐのォォォ!」


 そう叫ぶと、弓彦ゆみひこは川に向かって突っ走って行きました。


 四つ足で。


 ユミちゃん。お前ほんまに人の子か?


 一瞬、唖然あぜんとしましたが、しょうがありません。追いましょう!


 旋風つむじかぜのようにける我が子を追いました。


 私は二本足でですよ?


 四つ足やなんて、そないなけだもんじみた行儀ぎょうぎの悪いことは、秋津あきつの家では代々ようしいひんのです。しきたりです。


 人らしゅうせな、バレてしまうやないですか。いろいろね。


 そやけど困ったな。ユミちゃんに追いつけません。


 しょうがないさかい今だけ変身や。


 実は私、子供の頃からからすに化られるのです。


 何でやて子供の頃に母に聞いたところ、シッと怖い声でたしなめられ、そなたは天狗てんぐさんの子なのやと言われました。


 なんやて⁉︎


 しかしまあ、そないなことは些事さじです。


 飛びましょう今は。


 ユミちゃん。追いついたぞ。


 四つ足で川原の草原くさはらくだ弓彦ゆみひこ襟首えりくびを、からす鉤爪かぎづめつかまえようとしましたが、ったつもりが、られたんはこっちや。


 何て強力ごうりきな子やろうか。


 つかんだ着物の襟首えりくびに足をられ、そのまま桂川かつらがわにザブーンです。


 親子もろともねずみ


 ま、泥が洗えて、良かったやろか。


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