『希』第二話

「ただいま」

閉め慣れた自分の家の鍵をかける。

一人暮らし男にありきたりなワンルーム。

部屋の電気は付けずに、窓から差し込む外の街頭を頼りに部屋の奥に進む。

リュックも降ろさずに、まずベランダに出る。

一本目の煙草に火を付ける。

結局辞めることにはならなかった劇団で、次の舞台の配役が発表された帰り。

いつも通りまだ降ろしていないリュックの中には、久しぶりに渡された台本。

昨日の今日で渡された台本は、半年ぶりに貰えた役なのに、罪悪感が跡を引いて素直に喜べなかった。

それでもやはり嬉しいと感じてしまう自分が情けないが、我慢できずに台本をリュックから出す。

ちょっと夜風が強かったな。風に飛ばされないよう、煙草の灰が台本に付かないよう、注意して文字に目を通す。

俺の名前の下には、勇気ある好青年な主人公に突っかかり怒鳴り散らす短気な男。

貰えたとはいえ、出番は少ない上にいわば悪役。これは難問だ。

役者であるなら、ヒーローだろうと悪役だろうと、どんな役でも演じられないといけない。それはわかっている。

だが利き手があるように役にも得意不得意はある。

俺は、本来の自分からかけ離れた役ほど好きだし評価して貰えた。

元気で明るい表情。

溌剌とした大きな声。

おどけた言葉。

自由で予測不能な行動。

俺と真逆な人柄であればある程、演じるのは楽になる。

人を見る目に長けているあの座長の配役だ、何か意図があってこの役を俺に与えたんだろうが…

一本目の煙草が終わった時点でふと思い立ち、本棚から昔の公演パンフレットを引っ張りだしてからまたベランダに戻った。


二本目の煙草に火を付ける。

手にしたパンフレットは、今の劇団に所属して初めての公演だった。

取り出したが、見たいのはパンフレットの内容ではない。ただ鮮やかな色遣いの表紙をぼーっと眺めた。

入団してすぐだ、当たり前にこの時も出番は少なかった。けれど、台本を貰った時の気持ちは今と真逆だった。

今となっては自惚れかもしれない、驕りかもしれないが、役者に向かない性格の俺がここまでいるのは、所謂「才能」と「運」に引っ張られたからじゃないか。

そう本当に思っていた…いや、今も思っている。

役者らしい性格といのがどうであるのか、その定義は難しいが。

少なくとも積極的でもない、苦手ではないが人付き合いもそこそこ、毎日同じルーティンで行動するのが好きな俺が向いてるとはあまり思えない。

それでもするりと今の劇団にスカウトされ、一年後には主演も務め、客演も多かった半年前までの自分を導いたのは間違いなく才能と運だった。

あまりにも快調な役者人生のスタートに恐怖すら感じていた。

そして案の定、半年前から急に才能と運に置いてけぼりをくらった。

才能も運も自分のものだとはわかっている。

それでも、あんまりじゃないかと思う。何かのせいにしたくなってしまう。

連れ回すだけ連れ回して置いてけぼりにされる。

才能と運って奴は、無責任な誘拐犯みたいだ。

今更帰り道もわからない。

そもそもどこからこの人生が始まっているかもよくわからない。

強い夜風にパンフレットに挟まれていた紙が飛び出して、瞬時にキャッチする。

危ない。この紙を見るために引っ張り出したんだ。

何度も何度も読んでがさがさになった公演のアンケート用紙だった。

初の大きな舞台が、名指しで書かれた褒め言葉が嬉しくて、稽古が上手くいかない時、ダメ出しをされた時、何度も読んだ。

そもそもはここから始まっている…と、思いたいのになぜか思えない。

読めば元気を貰える魔法のカードだったはずなのに、手にするそれは元気を貰い切ってただの紙切れであるような気がした。

観客を喜ばすことが、俺の役者としてのスタートのはずだった。

もう一度読んだら帰る場所がわかる?

アンケート用紙の文字を読み込もうとしたその瞬間、突風に紙を奪われた。

帰り道の手がかりはあっけなく空を舞って追えなくなった。

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