【1章】社命。中世イタリアで、三年間、生き延びろ。

1章(1)

 荒々しい足音が背後から近づいてきた。

 反射的に立ち上がって振り返ると、目の前に、怒気に満ちた社長の顔があった。


「おい茶山さやま、あいつどこいった、あいつ」


 短髪で、顔の下半分を薄く髭で覆っている。精悍せいかんそのものという面構えだ。

 学生時代にラグビーで鍛えた体は五十四歳のいまも衰えておらず、スリーピースのスーツの上から分かるほど筋肉が厚い。経営者というより、格闘技の選手のようだった。

 社長の目線の先には、僕の上司の席がある。

 月島次郎つきしまじろう、社長の秘書業務を担う『経営戦略局』の責任者だ。


「月島局長は離席中ですが、すぐに――」


 戻ると思います、と言い終える前に僕のデスクに紙の束が投げ込まれた。


「おまえでいいや。これ朝礼までにやっとけ。!」


 社長は鬼軍曹のように両手を叩いて大きな音を出し、歩き去った。

 社長が置いていった紙の束は、ネットで配信されたニュース記事をプリントアウトしたものだった。手書きで修正が入れられて、真っ赤になっている。

 目をらして、地の文を読む。


【狂気の王国 老舗靴メーカーのブラックすぎる実態に迫る!】

 株式会社コローレは、七十年の歴史を持つ老舗の靴メーカーだ。年商四百億円、社員数は千人と中堅の規模ながら、扱う商品は幅広い。婦人靴、スニーカー、ビジネスシューズ、子供靴、誰もが一度はコローレの靴を履いたことがあるのではないだろうか。しかしその正体は、常軌を逸したブラック企業だった。創業者の天道てんどう一族が経営を牛耳ぎゅうじって、就業規則とは別に、『社律』なるものを定めている。遅刻、居眠りは罰として現金を徴収、社内不倫は朝礼で全社員に晒し者にするなど、江戸時代の法かと錯覚に陥る内容だ。


 ……リークしたのは誰だ? 

 社内に裏切り者がいる!

 さらに、社内スローガンの『みんなで守ろう年功序列』、管理局から全社員に宛てたメール『ハラスメントと感じることが会社へのハラスメント』、朝礼での社長の訓示『サービス残業は、熱意のある者に活躍の場を与える、会社から従業員へのサービスです』、匿名社員の証言『去年の夏のボーナスがお米券五千円分だった』。


 

 そして、『過労で自殺者が出ていたが、それを会社ぐるみで隠蔽いんぺい』。

 湧きあがった怒りが霧散むさんして、胃に鈍い痛みを感じた。

 記事は、告発者の悲痛な叫びで締められている。

 『どうすれば、この生き地獄から抜け出せるのでしょうか?』

 僕が教えて欲しい。


 社長は記事の指摘について、『言いがかり』『事実誤認』『解釈の違い』などと赤字で書きこんでいる。感情的になっていたのだろう、筆跡がいつもに増して荒かった。反論の根拠までは記されていない。提出期限の全社朝礼まで、あと三十分。

 しかし――どんな無理難題でも、それが上役の命令なら実行する。

 

 新卒で入社して十三年、そのスタイルを貫いて、ようやく課長になったのだ。

 

 社長が来る前、僕は朝礼の後に開かれる役員会議の資料をまとめていた。

 そこに投げ込まれた、急ぎの案件。

 どちらを優先すべきか考えていると、PCモニターの隅でアイコンが点滅した。

 社長と経営戦略局のメンバー四人で組んでいるグループチャットに、新しい投稿があったようだ。文章をエントリーしたのは社長だった。


『誰か! 今日のゲリライベント何時? カレンダーに入れとけ』


 社長は、若者に人気のゲームアプリを部下たちに手伝わせて遊んでいた。

 くそっ――

 手を借りたいときに限って、部下が二人とも席を外している。

 ひとりは、社長のお気に入りのアイスを買いにコンビニへ。

 もうひとりは、社用車を運転し、熱を出した社長の御息女と付き添いの奥様を病院に送り届けている途中。

 二人とも朝礼までには戻るはずだが、その帰りを待っている時間はない。

 僕はブックマークに入れている攻略サイトに飛び、確認した情報を共有カレンダーに打ち込んだ。


 さあ、次。

 役員会議の資料作成か、フェイク記事への反論か。

 資料の方はほぼ完成していたから、記事に取りかかることにした。

 SNSで検索すると、該当記事に触れている投稿が次々に見つかった。当然、ネガティブなコメントが多い。中には、社員だと思われる書きこみもある。早急に手当てをしないと傷口が広がりそうだ。


 記事を何度も読み返し、ようやく突破口を見つけた。

 罰金徴収についてのくだり

 実際の社律には、『××円の罰金相当』と書かれている。現金での徴収を明言したら法に触れるからだ。相当というのは、その額に等しい罰があるという可能性の提示であり、徴収を規定するものではない。

 世間一般にその理屈が通るかといえば、まあ無理だろう。

 でも、まずは、仕事をしたことを示す必要がある。


 この調子だぞ、茶山祐介。

 コップを手に取り、コーヒーを一口飲んだ。

 口の中で苦味と酸味を転がす。ぐんと集中力が増した気がする。

 最近、胃が弱り気味なので量を減らしているが、仕事にコーヒーは欠かせない。近所の専門店で挽いてもらった豆を自宅で淹れ、魔法瓶に移して持ち歩いている。すっかり、自販機のコーヒーでは満足できない体になってしまった。


 そこに、一通のメールが届いた。

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