4話

 朝の巡回をいつも通り終え、帆信は静かな喫煙所で煙を吸っていた。


 身体がだるい。喫煙所の固いパイプ椅子がウォーターベッドのように自分を飲み込んでいるようだった。


 受付には今日もアイドル好きのガードマンがおり、彼は帆信の顔を見るなり表情を曇らせてこう言った。

――どうかしたのか? 顔洗ってきた方がいいぜ。まるで死人だ


 喫煙所に来る前、帆信は言われた通り顔を洗った。その時、鏡に写った自分の顔は、確かにえらくやつれていた。目の下には濃いクマがあり、無精髭が伸びていた。


 1本目の煙草を捨て、機械的にもう1本取り出す。今週の水曜日も快晴だ。気温は20度を超えるらしく、夏日のように蒸し暑かった。まだ4月。もうすぐGWに入るのに、学生会館のあちこちには新歓のポスターが貼ってある。その1枚1枚が、ゴミを集める自分を見つめて、陰で笑っているような気がしていたのだ。


 もう、めよう――

 心の奥底から聞こえたその言葉は、至極当たり前のものだった。


 むしろよく耐えたものだ。2度の受験に落ちた志望校にこんな形で通うなんて。毎週の水曜日、見たくもないキャンパスライフを見ることは、計り知れないストレスだった。


 喫煙所の周囲には誰も居ないはずなのに、どこからか学生たちの声が聞こえてきた。その声は笑っていた。きっと部室でバカ騒ぎをしているだけに違いない。しかし、なぜか帆信には、自分を笑っているように思えてしまった。


 自分は裏方の汚れ役だ。そんな自分を主役たちは笑っている、と。


 煙草を咥えながら、帆信はいつの日かコーヒーを溢した陸上部の女学生を思い浮かべていた。

 彼女の悲鳴がリフレインする。

 そして、「バイトを辞めろ」と帆信にささやく悪魔は、今度はこう語り始めた。


――役が無いなら、みずから作れば良い。ただの歯車になるな。キャンパスライフという舞台をもっと面白くしてやれ



 最初は、例の陸上部女学生のから始めた。


 守衛室の窓から覗ける場所――学生専用の駐車場に、売店で買ったコーヒーを溢してやったのだ。

 するとどうだろ? 自転車を停めに来た学生たちは、皆がその水溜まりを避けて通るではないか。中には、自転車に乗ったまま気付かずにコーヒーの上を走り、タイヤで跳ねた飛沫がホイールや脚に掛かって舌打ちをする者もいた。


 帆信は、それらを守衛室の窓から密かに眺めていた。まるで神事を見守るよう厳かに、だが徐々に心は踊っていた。が効いてきたのだ。


 コーヒーを避ける学生たちの顔――そのどれもが、彼の目を静かに輝かせる。

 しかし、コーヒーの水溜まりはやがては渇く。それの同時に通学してくる学生たちの数も減ってきた。


 そこで、帆信は違う標的ターゲットを閃いた。いつも自分を笑っているやつら。時刻は昼休みを終えて、3限目が始まってすぐ。やがて、3限目が終わりそうな時間になると、数人の学生たちが受付の窓をノックしてきた。


「新歓のポスターが荒らされてるんです」

「は?」


 彼らに対応したのは、例のアイドル好きのガードマンだった。帆信も「待ってました」と言わんばかりに守衛室の扉を空けて顔を覗かせた。


「どうしたんスか?」

「えっと、この子たちが、ポスターが荒らされたって……」


 受付越しに見た学生たちの顔は、どれも綺麗に雲っていた。帆信は思わず込み上げてきた笑いを必死に抑えつつ、「俺が見てきます」と靴を履いた。


 学生たちに案内されたのは、2階から4階までのエレベーター前の掲示板だった。もうすぐGWだと言うのに、必死に貼り散らかした新歓ポスターたち。それらの掲示板には、誰の目から見ても明らかに故意だと分かるほど、見事なまでにコーヒーのシミが掛かっていたのだ。


「きっと誰かのイタズラだろう」

「でも、いったい誰が?」


 後ろでヒソヒソと呟く学生たちの声を聞いて、帆信は再び込み上げてきた笑いを必死に悟られぬよう抑えた。


 どうだ、見たか!? いつも俺をバカにして笑いやがって――


「とりあえず、これらは外して捨てたほうが良いッスね」

「はい……」

「とりあえずゴミ袋を持ってくるので、ちょっと待っててください」


 エレベーターに乗り込んむ間際、学生たちの怒りの声が聞こえてきた。


――バカな奴の仕業だよ。こんなことして何になるんだ


 エレベーターのドアが閉まると同時に、帆信はついに我慢の糸が切れて高々に笑った。


「バカはお前たちだ! 犯人は目の前にいたのにさ」


 1階を避けたのは、昼休みが終わってすぐで人通りが多かったからだ。帆信は心は妙な満足感に充たされていた。あの困惑し、怒れる学生たちの顔――そんなもの、自分と比べると些細なものじゃないか。


 自分にしか出来ないイタズラ。裏方である自分だけの特権。それが帆信の心をさらに大きくした。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る