第11話

 劇場のロビー。

 突発的に起こった舞台のサプライズに、芝居が終わっても誰もそこには居ない。

 居るのは一人の涙に濡れた女と、女を追いかけてきた一人の男。女は壁に向かってうなだれて、男はそんな女をチラリと横目で見守っていた。二人だけの空間にかすかに聞こえるのはパラパラと、劇場からわずかに漏れ出す、まるで降り始めの雨のような拍手。

 暫くうなだれていた女は、自分の持ってきた荷物すら客席に忘れたままカツンカツンとゆっくり足音を立ててロビーを歩く。女が歩けば、その後ろを同じ歩幅でコツンコツンと男が歩いた。二つの靴音がロビーに響き、突然ピタリと女が立ち止まって、男はビクリと足を止める。女がそっと振り返った。

「何か?」

「いえ……」

「いえ? そんなはずは無いでしょう? 誰も私に気づかないのに貴方は私の後ろにいるんですもの。何も無いはずはないわ」

「えっと、あの……。大丈夫ですか?」

「何が?」

「泣いているから。そんなに目を真っ赤にして泣いているから。だから、あの、大丈夫ですか?」

「あぁ、そうね、泣いていたわ。でも、貴方には関係ないことじゃなくって?」

「えぇ……。そう、そうですね」

 女の言葉に男はしどろもどろに答える。

 あんなに自分の気持ちを伝えるんだと意気込んでいたのに言葉が出ず、終始どうしたらいいのかと落ち着かない。

 見てみたいと思っていた女の瞳が、唇が目の前に現れて、心臓がドクドクと、血液をありえないほど早く全身に送っているのを感じ、男は荒くなる息を必死で堪えていた。

 涙に濡れ、真っ赤に充血した女の瞳はしっとりと、男の足元から腰を通り過ぎ、胸を見て顔へとたどり着く。

 そして男もまた、女の足先から徐々に顔を上げ、艶めかしい己の天使の全て、その曲線に舐めるような視線を送った。

 二人の視線がぶつかり合い、興奮を隠そうとしている男の瞳に、ギラギラと何かを欲し輝く女の瞳が映る。女はしっかりと男の瞳を見つめ返して口を開いた。

「ドキドキしているのね」

「えっ?」

「憎らしいわ。見つめるだけでドキドキしてくれるなんて……」

「に、憎らしい?」

「私は……、貴方を知っているわよ」

「し、知っている? 僕のことを知っていると?」

「驚いた? 知らないと思っていたんでしょ。残念ね、知っていたわ。だから、貴方が私を追いかけてきても驚かなかったでしょう?」

 女の突然の告白に男は唖然と女を見つめる。女の瞳に服従してしまいそうな、そんな気持ちが男を支配して、ジリッと一歩後退った。男の顔は上気した紅色から、血の気が冷める蒼色へと変化。女が歩み寄り、男との間合いをつめる。涙が流れる瞳とは対照的に、口元には微笑みさえ見えた。

「どうして……。どうして知っているんだ」

「どうしてですって? それを貴方が私に問うの?」

「うっ、いいえ……」

「そうよね。それは貴方から私への質問としてはおかしいわ」

「……はい」

「毎日、毎日、貴方は私を追いかけてきたんだもの。気付かないほうがおかしいでしょう? ……でも、黙っていたの。気づかないふりをしていた」

「な、何故……」

「そうね、何故? それは正しい質問だと思うわ」

 そっと、女の視線は男から劇場の分厚いドアへと注がれる。

 男はただ、固まって黙り込んだ女の横顔を眺めていた。ほんのわずかな時間、整った女の横顔を眺めていた男だったが、ジッと見つめていた女の唇がかすかに動いて、男はその言葉を理解しゴクリと生唾を飲み込んだ。

 それ以降、二人が会話を交わすことは無く、女が見つめる劇場の分厚いドアがゆっくりと開く。

 中から大勢の人々が排出され、口々に会話を楽しみ、たたずむ二人の横を通り過ぎた。ざわつきの中、女の唇がもう一度かすかに動く。男は何かに導かれるようにふらりと女の横顔をかすめ、人の波に逆らって劇場の中へと消えていった。

 分厚いドアから満足そうな笑みを浮かべて出て行く観客は少なくなり、客席には誰も居なくなる。そして、役者たちも。

 残って居るのは舞台上の男と女。男は熱っぽい瞳で女を見つめ、女はその視線を睨み付けた。

「何をしてくれたのよ……」

「何って何のことだ?」

「舞台であんなことをして、ただで済むとは思ってないでしょうね」

「何を言っている。お前が求めて居たのは俺だろう? お前のご希望に応えただけだ」

「フッ、貴方を求めていた? 自惚れはいい加減になさい」

「自惚れだと? 」

「わからないの? そう、なら言ってあげるわ。私が求めたのは貴方じゃない」

「俺じゃない?」

 蔑むような瞳を男に向けて言い放つ女。しかし、男はそっと、美しい瞳で自分を睨みつけて来る女の頬を優しく撫でてニヤリと笑う。

「照れる必要は無い」

「照れる? まだ自惚れているの? 貴方って本当に馬鹿なのね」

「俺が馬鹿だって?」

「あらあら、気づいてなかったの。流石ね、お馬鹿さん」

 劇場に女の高らかな笑いがこだまする。

 女の高飛車な笑い声に己の立場を理解した男は腹立ちで体を小さく揺らした。女は男を見下ろしフンと鼻息を鳴らす。

「私を手に入れたと思ったの? それこそ馬鹿だわ。私は女優よ。貴方の様な大根役者と一緒にしないでちょうだい」

「……大根役者」

「己の実力でこの舞台に上ったなんて思っていないでしょうね? ううん、そんな事、思ってること自体が間違いだわ」

「間違い……」

「自分自身が良くご存知でしょ? それともそれすら分らない本当の大馬鹿者なのかしら? ……フン、貴方に構っている時間なんて無いのよ」

 女は苛立ちを男にぶつけるように蔑んで罵り、舞台に設けられている階段から誰も居ない客席へと降りていく。感情のままに罵った相手が小さく振るえて、立ち上がる気配を感じながらも、背を向けて歩みを進めた。

「分っているさ。俺は馬鹿じゃない」

「何なの? まだ自惚れようっていうの?」

「お前の言う通りだよ。この舞台に立ったのは俺の実力じゃないさ。でも、俺はそんな中でも必死だった。俺は俺の中で、俺の信念を持って俺を磨いていたんだ!」

「……俺、俺、俺! 何時だって貴方は自分が中心で俺って言う。鬱陶しいわ! 五月蝿いのよ!」

 女が振り返って大きく叫んだ時、観客席の奥からかすかな光が洩れた。

 音も無く開いたその扉から一つの影が入り込み、その後、閉じかけた扉がもう一度大きく開き、更に一つの影が劇場の中に入る。そして、重い音を劇場に響かせて扉は閉じられ、それら以外他の何も無いこの場所に四つの影が揺らめいた。

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