第33話 彼の追憶⑤

「――君が噂の小説家くん?」

 

 ある日、珍しく学食で昼食を摂っていたら突然見知らぬ男子生徒に話しかけられた。

 ネクタイの色が夏癸と同じ青色なので同学年ではあるのだろうが、癖のある茶髪にも軽薄そうな顔にもまったく見覚えがない。誰にも話していないはずだが夏癸が作家デビューしたという話は生徒たちの間で有名になっているようだった。

 

「なにか用ですか」

「君に興味があるんだ」

「……は?」

 

 思わず胡乱げに聞き返してしまう。寝不足で頭が働いていないせいで聞き間違えたのかと思った。

 昨夜は二作目のプロットを書き始めたら止まらず、日付が変わってもしばらく起きていた。そのせいで今朝は寝坊し弁当を作る余裕がなく学食に来る羽目になったのだが、まさかこんな面倒そうなものに絡まれることになるとは思ってもみなかった。

 

「俺は三組の藤村豊。日向夏癸くん、俺と友達になってくれない?」

 

 聞こえてきた言葉は予想外のもので、夏癸は怪訝そうな視線を目の前の彼に向けた。対する彼はにこりと浮かべた笑みでそれを受け止める。――それが、豊との出会いだった。


 それからことあるごとに豊は声をかけてくるようになった。

 夏癸の在籍する五組は特進科で、豊のいる三組は普通科だったので面識がないのも不思議ではなかった。学年で集まることがあったとしても二百人以上いる同級生の顔をいちいち見てなどいない。

 面と向かって友達になりたいなどと言われたのは小学校以来の経験だった。最初こそ戸惑いはしたし付き纏ってくる彼を迷惑に感じることもあったが、いつの間にか疎ましく感じることはなくなった。

 いままでの『友人』は日向の家目的で近付いてきた者ばかりだったが、豊は高校生で商業作家になった『夏癸自身』に興味を持っていた。それは新鮮で、不思議な感覚だった。

 

 ――のちに豊が美術部に入っていると知り、もしや出版社と繋がりのある夏癸と親しくなって絵の仕事でも欲しいのかと疑問を持った。その質問をそのままぶつけてみると、豊は誤魔化すことなく、そうだと即答した。その潔い態度が気に入ったので彼の絵を見せてもらうと、それまで絵画に対して興味関心を持たなかった夏癸にも心惹かれるものがあった。

 彼の絵を表紙にした本を見てみたい、と思った。できることなら自分の本にと。

 隆文に相談してみるととりあえず作品を見せてほしいと言われたので、豊にポートフォリオを作らせ二人を引き合わせた。隆文も彼の絵を気に入ってくれ、色々なところに掛け合って二作目の表紙に豊の絵を採用してくれた。

 

 『蒼い星空』というタイトルに合わせて美しい満天の星空を描いた水彩画を、夏癸は実はとても気に入っている。描いた本人に対しては、「いいですね」の一言しか言っていないのだけれど。その後も豊はたびたび夏癸の作品の装画を担当するようになった。

 最初は目的があって近付いてきた豊との関係も、気が付けば心地良く気の置けない存在となっていた。もちろん、こんなこと本人には言ってやらないが。

 高校に通いながら小説を書き、少しずつ作品が評価されるようになり、売り上げも伸びていった。雑誌の短編やインタビューなどの仕事も依頼された。椎名家との温かな交流も変わらず続いていた。

 

 作家としてデビューしたての頃は、つい他人の感想が気になって自分の名前や作品名をネットで検索していた。個人のブログや書評サイト、通販サイトのレビューに果ては匿名掲示板まで。自分が書いた物語は誰かにちゃんと届いたのだろうかと。あまり検索しすぎないほうがいいと理解しながらも、筆が止まるとつい感想を探しにいってしまった。

 好意的な感想やおすすめ本としての紹介はいくつもあったしもちろん嬉しかった。次回作を楽しみにしているという声もモチベーションになった。

 けれど、それ以上に目についたのは辛辣な批判や謂れのない誹謗中傷だった。とくに初めて目にした匿名掲示板は酷かった。

 人並み以上に繊細な心を持っていた高校生の夏癸は、どこの誰が書き込んだともわからない言葉で自分でも驚くほど傷つき落ち込んだ。一時は筆を折りそうになったほどだ。

 けれど、落ち込んでいる時間は長くは続かなかった。原稿の進捗が思わしくなく、気落ちしている夏癸の様子に気付いた隆文が親身に相談に乗ってくれたからだ。

 場所は椎名家の居間で、夕飯をご馳走になったあとだった。打ち合わせの場だと堅苦しくなってしまうだろうからと。

 

「なにも失わない人間が好き勝手に書いた言葉で、君が律儀に傷ついてやる必要なんてないんだよ」

 

 そう言ってくれた隆文の言葉には納得できた。それでも、いくら好意的な言葉をたくさんもらっても、ただひとつの悪意ある言葉のほうが深く刺さってしまう。迂闊に余計なことを検索して見てしまった自分が悪いのに、こんなことで書けなくなっている自分が情けない。

 そう吐き出す夏癸に、隆文は真剣な表情で告げた。

 

「夏癸のその繊細さは大切なものだよ。そんな君にしか書けない物語がある。日向夏癸の物語を必要として、待っている人はきっと大勢いる。だからどうか、ここで立ち止まらずに書いてほしい」

 

 もちろん俺もその一人だけどね、と付け加えて隆文は小さく笑った。

 

「私もその一人よ!!」

 

 急に隣室に続く襖が開き、茜を寝かしつけていたはずの葵が顔を出した。どうやらこっそりと話を聞いていたらしい。

 なんだか悩んでいたことが急にどうでもよくなってしまった。自分の物語を一番に読んでほしいのは、ここにいる二人だけなのだから。他人の意見など気にする必要などないと気付かされた。

 仕事と関係なく、葵も、隆文も、夏癸のことを気にかけてくれた。どうかこの二人にできる限りに恩返しをしたい。そのために夏癸ができることは、やはり小説を書くことだった。この作品が好きだと、真っ直ぐに伝えてくれる読者がすぐ身近にいる。それだけで自分の書くものを信じることができた。

 

 それ以降はインターネットで自分のことを検索してはいない。作品の評価は新作を出すたびに増える初版の部数と重版の回数、そして書店で見かける平台に積まれた単行本が教えてくれた。少しずつファンレターも届くようになり、わざわざ手間をかけた手紙で伝えられる感想は素直に嬉しかった。

 空っぽだった心が満たされていた。幸せ、だった。こんな日々がいつまでも続くのだと思っていた。――そのときが来るまでは。


 ***


 高校三年の夏、隆文が突然入院することになった。膵臓癌だと知らされ、治療の甲斐なく数か月で亡くなった。あまりにあっという間だった。

 夏癸の担当は若い女性の編集者――篠原杏奈に変わった。入社して数年と経験年数は浅かったが、有能な人だったので仕事はやりやすかった。喪失感は大きかったが、それでも、小説を書けなくなるということはなかった。書かなければいけなかった。書くことしか、できなかった。

 物語を紡ぐことで、夏癸は大きすぎる悲しみから目を逸らしていたのかもしれない。

 

 大学には進学した。このまま作家として食べていけそうなほどの仕事量はあったが、それでも大学くらいは出ておいたほうがいいだろうという考えと、律儀に守り続けていた父親からの制約を果たすためだった。

 進学先は父親に文句を言わせないために最高難易度の大学を選び、必死に受験勉強をする必要もなくあっさりと合格した。

 

 夫を亡くし、幼い娘を一人で抱えることになった葵のことが心配ではあったが、彼女は気丈に振る舞っていた。忌引休暇が終わるとすぐに仕事に復帰し、受験生の担任という負担の大きい仕事も卒業式までやりきった。

 

「だって私が働かなきゃ、誰が茜を養うの?」

 

 そう言って、葵は力強く微笑んでいたが、やはり無理をしているように思えてならなかった。

 大学生になった夏癸はサークルにも入らなければアルバイトもしなかったので比較的時間の自由が効いた。

 小学生になった茜の放課後の面倒を見たり、頻繁に食事を作りに行ったりするようになった。料理が苦手という域を超えて苦手な葵は、放っておくと冷凍食品やコンビニ弁当の食生活になっていたからだ。茜のためにもよくない。隆文の入院中から時々おかずの差し入れはしていたが、葵は恐縮しつつも夏癸の行動を迷惑がらずに受け入れてくれた。

 やはり一人では手が回らないことも多いのだろう。――彼女の力になるためなら、どんなことでもやりたかった。

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