(3)異界の魔獣

 モヤの奥からは獣の足が見え始め、唸り声と黄色く光る目とともに姿を現すと、それは、小柄なほうに目を留めたように狙って飛び出した。


 すでに少年の顔つきではなくなっているヘンゼルの瞳が鋭く、湧き出す黒いモヤの先を見据えている。


「ヘンゼル!」


 敏捷に、大きくよけたヘンゼルだが、わずかに足に引っかき傷が出来ていた。


「大丈夫!?」


「ちょっと引っかかれただけだ。獣の胴体にグリフォンの翼、ライオン、ヤギ、ヘビの合成獣キメラか。ということは、の誰かはだいぶ絞れる。問い詰めるとして、ここは場所が悪い」


 膝をついたヘンゼルが、小さく舌打ちをする。


「この近くには教会が多い。悪魔が本来の能力を発揮しにくく、無理にでも大きな魔力を発動すれば勘付かれてしまう。そしたら、天使どもがやってきてもっと面倒なことに……! ああ、だから、ここには住みたくなかったんだ! なのに、こんなところにゲートなんかができたから!」


「大丈夫よ、ヘンゼル。あなたは何もしなくていいわ。心配しないで。わたしがなんとかするわ」


 安心させようとにっこり笑ったであろうローズマリーに反して、ヘンゼルがとんでもない、という顔になる。


「それが一番心配なんじゃないですか!」


「でも、白魔女と教会は敵対してないし、天使もね」


 ローズマリーの周りだけが、くるくると風が渦巻き始めた。

 すりガラスを通して見るように、銀色とブラウスの白、スカートの黒の色だけが唯一わかる程度で、下の方から色が変化していく。


 風がおさまると、彼女の衣服が黒いロングスカートから白と淡いミントグリーンのコスチュームに変わっていた。

 白いケープにはクリアな青いラインと葉をデフォルメした模様がところどころに縫い取られていて、右手には数本の枝を草のツルで巻いたものが握られている。


 ヴァルプルギスの夜のときと、同じ装いとアイテムだった。


   ***


「ローズマリーさーん! ヘンゼルくーん! 大丈夫ですかー!」


 グレーテルに引っ張られて店の外に出た柚樹が、奥の中庭の様子を見ようと、店の横からのぞいた。


「なんか黒いヤツがさっきより増えてるよ!」

「橘さん、いいから下がって! 危ないですよ!」

「でも、二人はもっと危ないよ! それに、あの向こうには俺の……!」


 グレーテルが柚樹の腕を引っ張り、離れさせようとするが、柚樹が首を伸ばし、奥をのぞきかけた。


「風向きでモヤがこっちに来るわ! 仕方がない、橘さん、ごめんなさい!」


 えいっと、グレーテルの手刀が、柚樹の首筋に入った。わずかにグレーテルの手は光を帯びている。


「うっ……!」


 意識を失い、柚樹はどさっと倒れた。


「少しの間、眠っててください。すべて片付くまで。そうしたら、あなたは元の生活に……」


 柚樹の身体を店のドアに座らせると、人差し指を彼の額に向け、触れずに何かを描いた。

 柚樹の額には、輪にまった星形の五芒星が赤く光り、浮き上がった。


「今度こそ、忘れるはず」


 キリッとした顔つきになったグレーテルは、建物の横に回り、中庭へと駆けていった。


「ヘンゼル! 状況は!」

「グレーテル!」

「ケガしてるじゃない!」


 ヘンゼルの膝から下の傷には、紫色の体液がにじんでいる。


「毒……!」

「イルゼさんから軟膏をもらったから大丈夫だ。じきに効いてくるはずだ」


 グレーテルが目にしたのは、ライオン、山羊、蛇などの羽を生やした合成獣キメラが牙をむき出し、よだれを垂らしながら、黄色い目を油断なく光らせ、体勢を低くした姿だ。


「キメラ! ってことは……」


「誰の仕業しわざか見当がつくだろ。いずれにしろ、教会の多いこの場所では、僕たちは何もできない」


「うん。イルゼさんに任せるしかないね」


 ヘンゼルたちから離れ、注意を自分に向けたローズマリーが、つるを巻いて作った自作の杖を向け、ゆっくりと空中に星形を描いていた。


「いい子だから、もうおうちに帰りましょう」


 キメラがライオンの咆哮ほうこうを上げ、飛びかかった。


 ローズマリーの描いた五芒星ごぼうせいが金色に光り、その瞬間、彼女の身体より巨大化した。キメラの身体がそこにまる。

 クモの巣に捉えられた虫のように、いや、それ以上に、固まってしまったように身動きすらできない。


「強制送還します」


 にっこり微笑むと、巨大五芒星はキメラをとらえたまま、スーッと黒いモヤの吹き出すほうへ進んでいく。


「……あれは!」


 グレーテルが目を見開いた。


 『異界のゲート』とヘンゼルたちの呼ぶ、不気味に枝の絡まった奥から、赤くゆらめく炎がのぞいた。


「伏せて!」


 グレーテルの声に、二人は従った。


 その頭上を、ゴオオオ! と、炎にくるまったものが飛んでいく。

 折りたたんだコウモリのような翼にくるまり、炎をまとってぐるぐると竜巻のように回転しながらやってくると、翼を広げて上空に舞い上がった。


「ファイアドレイク!?」

「あんなものを召喚してどうするんですか、イルゼさん!」


 ヘンゼルもグレーテルもローズマリーをサッと見るが、目を見開いていたローズマリーが慌てて手を振る。


「ち、違うわ! わたしじゃないの! から勝手に来たの!」

「ええっ!?」

「だったら、……最悪、敵だ」


 ファイアドレイクのワニのように突き出した口には尖った歯がびっしりと生えそろい、ライオンよりも一回り大きいキメラの首をくわえている。


 キメラがもがき、翼を必死に羽ばたかせるが、炎竜が旋回し、そのまま急降下した。


 ズシン!


 地を伝わる振動が起こった数秒後、ドラゴンの降り立ったところから炎が立ち上った。


「なん……なんだ、あれは!?」


 ローズマリーたちが振り返ると、眠っていたはずの柚樹が中庭まで入り、ペタンと膝をついて愕然がくぜんとしていた。


 柚樹のすぐうしろには、リゼ、アールグレイ、ダージリンの三人が、ぼう然と立ちつくしていた。


 三人が予約していたハーブ料理店に着いてみると、彼らの紅茶館にも時々客としてやってくる柚樹が入口のドアに寄りかかり、座りこんで寝ているのを見つけた。


 少年ダージリンが「おい、タチバナさん! こんなとこで寝るなよ」と呼びかけながら柚樹を揺さぶり起こすと、勢いのあまりドアに柚樹の後頭部がぶつかり、目を覚ました。


「いたたた……」

「わ、わりぃ!」


「橘さん、大丈夫ですか!?」

ダージリンこいつ、雑だからごめんねー」


 ダージリンがあたふたして謝ると、リゼが心配そうに柚樹の顔をのぞき込み、アールグレイが苦笑いになった。


 その時、四人とも異変に気が付き、店の横から中庭に見に来ていた。


「……ドラゴン、ですね……」

「ああ、そうだね……」

「横浜……ですよね、ここ……」

「ああ、そうだね……」


 リゼとアールグレイは、ファイアドレイクが炎をまといながら鋭いカギ爪でキメラを押さえつけ、食いちぎっているのを見ていた。


「うっわ! スゲェ! 赤いドラゴンだー! でも、ジャバウォックじゃないみたいだぜ。絵本と違う」


 目をまん丸にしたダージリンがドラゴンを指さし、興奮して二人を見上げた。


「そ、そんな……! ドラゴンなんてホントにいるわけ……、えええ、燃えてんの俺の家ーーっ!」


 ドラゴンのいる奥で轟々ごうごうパチパチと、音を上げて燃えている炎を見た柚樹が叫んだ。


「見られた! この世界の住人に!」


 ヘンゼルがサッと辺りを見回すが、幸いほかに人はいない。


「でも、あの外国人たち、じゃないよ、アタシの『目』で見ると。それよりも今は橘さんよ。なんで起きられたの?」


 放心している柚樹の額を見るのに、グレーテルが目をらす。


「おかしい、おでこの五芒星が消えて……術が解けてる! アタシはイルゼさんと違って詰めは甘くないわ。しっかりかけたのよ。なのに、なんで!?」


 ローズマリーがおろおろしながら柚樹の前に座った。


「た、橘さんの家なんですか、あそこ」


 こくん、と柚樹が放心してうなずいた。


「俺の亡くなったおじいちゃんのものなんです……。ボロ過ぎて親も親戚もいらないって言ってたけど、とりあえず誰か住んでたほうがいいからって……。倒壊したら近所に迷惑かけるからって、古いとこ補修しながら……」


「ほかに住んでいる人は?」

「いません。俺だけです」


「……ごめんなさい」


 顔を伏せる彼女を、柚樹が少し我にかえった様子で見つめた。


「なんでローズマリーさんが謝るんです?」


「今は説明している時間はありません。とにかく、鎮火します!」


 手に握られた彼女独自の杖(枝の束)を、キメラとドラゴンの現れた庭の木の間に向けた。

 瞬きをし、すっと厳かな表情になると、引き締まった瞳で、先ほどから信じがたいものばかりが飛び出してくる庭の木々の奥に向かって呼びかけた。


「リンちゃーん! お願いー!」


 はい? リンちゃん……?


 柚樹が二度見すると、白い光の球体が飛び出した。

 それは宙に浮かぶと、巨大な白蛇であるサーペントに変わった。


「リントヴルム!? あなた、いったい何考えてるんですかー!」


 ヘンゼルが叫んだ。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る