第1話 ヴァルプルギスの夜

(1)ヴァルプルギスの夜

たちばなさん、いらっしゃいませ」

「どうも」


 両サイドの毛先がくるんとカールし、後ろで編まれた紫か青みがかった腰まである銀髪の髪を見つめてから、青年はテーブルに着いても視線は白いシンプルな服装の彼女を追う。


 白過ぎる肌に、ブルーがかった淡い紫色の瞳。

 明らかに日本人ではないが、彼女が話す日本語は流暢だ。


 たちばな柚樹 ゆずきは、ローズマリーと名乗るその銀髪女性の店の常連だった。


 最近できた、横浜港を一望できる、外国人居留地であった山手の洋館が建ち並ぶ中にあるその店『おかしな家』、その隣の小さな古い平家に、柚樹は住んでいた。


 祖父の持ち物であったが数年前に亡くなり、父母も住まずに放置していたところに、一人暮らしをすることにした。


 彼は、密かに彼女を「天使さん」と心の中で呼んでいた。


 そこから急坂を降りた道沿いにある、伝統あるドイツパンの店での仕事の後で疲れ切っていても彼女の天使の微笑みに癒されてしまう。


 彼女のほかにこの店の従業員らしき人物といえば小学校中学年から高学年くらいの男子と女子だけだ。テーブルが四卓とカウンター程度のこぢんまりとした店だからそれだけでも事足りるのだろう。


 柚樹ゆずきが通っているうちに不思議に思ったのは、どちらかというと子供たちの方がしっかりしていて会計も担当することだった。


 天使さんは客の少ない時などにたまにカウンターに腰掛け、ぼうっと窓の外を眺め、パイを焼いているのを忘れていたのか、どちらかの子が呼びにきて慌てて調理場に戻るのを見たこともある。


 今日のような他に誰も客のいない時などは、案の定カウンターに座っている。


 天然天使。

 そう思い付いて、思わず柚樹はクスッと笑ってしまった。


「かまど焼きハンバーグのラプンツェル添えとポテトサラダ、イースターエッグのおまけ付きになります」


 パステルカラーのラッピングの卵型チョコレートに目を留めてから、ハンバーグを切り分け、口に運ぶ。

 黒胡椒とハーブの絶妙な加減がジューシーな肉の旨味を引き出している。


 うまい……!


 セットで頼んだブレッチェンをちぎる。

 パン屋で働いているせいか、ライスではなくパンを選ぶことが多い。


 かまどで焼いているのだろう。外側はパリッとしていて中はふわふわもちもちとしていて理想的な出来だ。


「すみません、橘さん、今日は早めに閉店になります」

「あ、そうなんですか。ハンバーグもパンも美味しかったです」

「ありがとうございます」


 天使さんは、にっこりと嬉しそうに笑って、柚樹ゆずきにこたえた。


 女の子のいるレジで支払いを済ませ、外に出てからスマートフォンをテーブルに置きっぱなしにしていたのを思い出し、慌てて戻った。


「すみませーん、スマホ忘れちゃって」


 誰もいない。


「あのー……?」


 柚樹のいたテーブルにスマートフォンは置かれたままだ。

 安心してポケットにしまい、「お邪魔しました」と呼びかけてみたが応答はない。


「今夜、……に行ってくるわ」

「……イルゼさん」

「あなたたちはここでお留守番していてね。遅くなったら先に寝てていいから」

「うん、わかった」


 天使さんとあの子たちかな?

 今夜デートにでも行くんだろうか?


 店の壁掛けカレンダーに書かれた文字が目に留まった。


「『ヴァルプルギスの夜♡』って……!」


 ハートマークなんか書いて、やっぱりデートか!?


 なんだかショックだった。


 いや、あんな綺麗で可愛らしさもある女性なんだから、デートくらいするだろ……と、わかってはいても、気になってしょうがない。


 天使さんが奥から出てくると柚樹を見て驚いた顔になった。


「ああ、すみません、忘れ物しちゃって。声かけたんですけど」

「そ、そうでしたか。気付かず、ごめんなさい」


 誤魔化ごまかすような美しい笑顔に、柚樹は後ろ髪を引かれる思いで振り返りながら店を出た。


 早速「ヴァルプルギスの夜」とやらを検索する。

 そこで信じられない文字を見つけた。


「サバト」や「魔女の集会」と。


「え……まさか……あ、そうか! そういう名前の店で待ち合わせとか! ……いや、『——の夜』なんていかがわしい響きの店なんて言ったら……!」


 あ、きっとバーだろう。

 柚樹がこの街に引っ越してきてまだ一年ほどだが、朝早いパン屋の仕込みがあると、夜はバーで飲むことはなかった。


 いや、でもあのローズマリーさんがバーで一人でお酒飲んでるとか想像出来ないし……いやいや、外国人なんだからワインを水代わりに飲んでるかもだろうし。


 バーとか飲み屋じゃなかったら、どこだ?

 夜遊びするところとか? ビリヤードとかカジノ……そんなものはこの辺りにはないけど横浜駅まで出れば……?


 他に、夜って言葉から連想すると……ホテ……


 いやいやいや!

 男とそんなとこ行くのに、あの子供たちに「行ってくるわ」なんて言わんだろ!


 いかがわしい想像が頭の中で膨らむのを止められずに、柚樹がまだうろうろとその場に残っていると、どこからか機械音が聞こえてきた。


 チュイーーン!

 ガガガガガ!


 なんだ? こんな時間から工事とか?


 店の裏手から聞こえてくる音に思わず店の脇から奥へ急ぐと、銀髪の長い三つ編みの清楚な後ろ姿が見え、チェーンソーを手に何を思ったか庭のすみに生えている曲がりくねった樹木の枝を切っているのだった。


 えええーー! 何してるのーー!?


 しかも、チェーンソーの青い本体には、可愛らしく花のペイントがされている。


 は!? めちゃカワ!

 天使さんが自分で描いた……のかな?


 裏口から出てきたのか例の子供二人が「またそんな木なんか切って」とあきれているのも見えた。


「し、仕方ないでしょ? 杖、なくしちゃったんだから」

「ちゃんとニワトコの木の枝とかシマトネリコの木とかで作ったほうがいいんじゃないですか?」

「だっ、大丈夫よ、どれでも代用効くんだから」


 天使さんは焦りながら枝を雑に切り取ると、特に整えもしなかった。

 自分の背丈よりも長く、腕よりも太いいびつな形のフォークのような枝を、惚れ惚れと眺めている。


 その間に子供二人は店の中に入ったのか、姿が見えなくなるとドアの閉まる音がした。


 白いワンピース型のコスチュームに付いた木の粉を払うと、天使さんは、ハーブや色とりどりの花が植えられた奥にある、一見不気味にも思える、枝を絡ませながら左右に広がった黒々とした木に向かって歩く。


 黒い木の前に立つと風が吹き、ざわざわと枝が葉を揺らした。


 天使さんが不可解な何かに飲み込まれてしまうようで、唐突に心配になった柚樹はいきなり駆け出していた。


「待って!」

「橘さん!? なんでここに!?」


 動揺した天使さんは風の中で慌てて柚樹の腕をつかんだ。


「早く後ろに乗ってください!」

「え? 乗るって……?」


 天使さんは歪な太い枝にまたがり、その後ろに柚樹もまたがると二人を乗せた枝が浮かび上がった。


「つかまって!」


 天使さんの甲高い声に、柚樹は両手を彼女の腰に回した。

 次の瞬間、二人の姿は黒い枝の中に吸い込まれるようにして消えた。

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