第六章(2)以洋、幽霊と約束をする

 キャンパス内に街灯が灯り始めた頃、ようやく学生らしい年頃の女性が一人、研究室から出てくる。見覚えのある顔の持ち主だった。

 あ、今朝、李東晴リー・ドンチンの家の前でぶつかった人だ……。

 どこで会ったのかを思い出す。リー家の外から東晴ドンチンの祭壇に向かって深々と頭を下げていた女性が彼女だ。恐らくはこの女生徒が例の経理担当の助手なのだろうと以洋イーヤンは思った。

 どうやらもう帰るらしい彼女の後をこっそりとつける。まだ営業中だったキャンパス内の野外学食に入った彼女が、注文した料理をカウンターで受け取り、席に着いた。そこまで待ってから、以洋イーヤンは彼女に近付いた。

「すみません、ちょっといいですか?」

 声に反応して女生徒が顔を上げ、笑顔で立っている以洋イーヤンを目にして、微妙に驚いたような表情になる。どうやら彼女の方も、今朝、東晴ドンチンの家の前で自分がぶつかった相手の顔を覚えていたらしい。

「……何か用?」

「僕は李東晴リー・ドンチンの友人なんです」

 躊躇いがちに問い掛けてきた女生徒にそう返し、以洋イーヤンは彼女の向かいの席に腰を下ろした。東晴ドンチンの名を出された瞬間に、彼女の表情は不安げなものになっている。

「僕がなんであなたに会いに来たか、その理由はわかりますよね?」

 穏やかな口調を以洋イーヤンは心掛けたが、彼女はいても立ってもいられないと言いたげな落ち着かない様相になった。

「わからないわ……あれは私とは関係のないことだもの。彼がお金を盗ったって言ったのは教授よ。私じゃない」

 ようやく彼女が口にした言葉に、思わず以洋イーヤンは顔を顰める。

「でもあなたは知ってますよね? 実際には、誰がお金を持ち出したのかを。もし知らないなら、帳簿なんてどうやってつけてるわけ?」

 以洋イーヤンの厳しい眼差しを避けるように顔を伏せていた彼女は、しばらくして顔を上げた時には相当に険しい表情になっていた。

「あなたが私に何をさせたいのか知らないけど、現実には私は何もしてないわ。私はまだ卒業してないし、卒業できるかどうかは教授次第よ。私の家が金持ちだとかいう噂があるけど、実際には私の父は私が院に進むことにただ頷いただけ。卒業までの学費は私が自分で払ってるの。卒業が延びればその分私の出費も増えて、海外留学する機会も消える。あなたに手は貸せないわ。悪いわね」

 口早に言い終え、夕食の載ったトレイを手にしてその場を離れようとする彼女に、以洋イーヤンは溜め息を吐く。

「留学の機会が、とか口にしないでくれます? 東晴ドンチンは生きる機会すら失ったんだから」

 その場で凍りついた彼女に続いて、以洋イーヤンも立ち上がった。

「何かをするようにあなたに強制することは僕にはできないけれど、もしあなたが何もせずにやり過ごす気なら、この件はずっとあなたにつきまといますよ。あなたは一生罪悪感から逃れられない。さっき、東晴ドンチンのお母さんに会ってきたけど、ちょうど個人融資の申し込みを書いているところでした。東晴ドンチンの代わりに、そもそも東晴ドンチンが盗ったわけでもないお金を、賀昱霖ホー・ユイリンに返すために」

 呆然とした顔で女生徒が以洋イーヤンを振り返る。

東晴ドンチンの家は決して裕福じゃない。東晴ドンチンの父親だって公金を横領して自殺してる。東晴ドンチンの家族はずっと借金を背負い、後ろ指を指されて生きてきたんです。そう簡単に人生はいい方向へは進まなかったでしょう。でも東晴ドンチンはどうあっても父親の轍を踏むわけにはいかなかったんです。なのに、間違った道を歩んだ人間が、東晴ドンチンにこんな罪を背負わせて、お母さんにまでこんな借金を押し付けようとしてる。これでも自分は無関係だって言って放り出せるんなら、僕だってもうこれ以上は何も言えませんけど」

 蒼白な顔で立ち竦んでいる彼女を、やりきれない思いで以洋イーヤンは見つめた。

「こんな言い方をするのはひどいって僕もわかってますし、罪悪感をネタにしてあなたを動かしたいわけでもないです。でも罪悪感っていうのは、あなた自身が自分の行動を間違いだと思った時に初めて生まれるものですよね。自分の行動が間違っていたって、もしもあなたがそう思っているなら、どうかそれを正してください。後に残されてしまった東晴ドンチンのお母さんを助けてあげてください」

 言いたいことを全て言い終え、その場を後にする。

 歩きながらまた溜め息が零れた。彼女と話したことが無駄だったか無駄でなかったかはわからない。自分の言葉がどこまで彼女に届いたかもわからない。

 それでも、これは良心の問題だ。もし、誰にも影響がなかったなら、教授が研究費を横領するのをただ見過ごして済ませることもできただろう。

 しかし何の罪もない人がそのせいで死んでしまった今となっては、どうあってもこの件に目をつぶるわけにはいかない。この間違いをそのままに捨て置くことはできなかった。

『お前さ、なんでこんな余計な真似すんだよ?』

 あ、起きたみたいだ。

「君のお母さんのためだよ。君のためじゃなく」

 並木道を歩きながら、どこかやるせない気持ちでそう答える。緩やかな風が正面から以洋イーヤンの顔に吹き付けた。

「けっ! 親切ぶりやがって。てめえに礼なんか言わねえからな」

「感謝なんてされたらそれこそ不気味だよ。……僕は単に君に置いていかれたお母さんが気の毒なだけ。まさか銀行からお金借りて、君が使い込んだわけでもない研究費を返そうとしてるだなんて。君、知ってた?」

『……』

 むっつりと訊ねた以洋イーヤンに、東晴ドンチンは沈黙している。どうやら本当に知らなかったようだ。

 聚魂盒じゅこんばこの中の東晴ドンチンが眠りについている時間は、徐々に長くなっている気がした。早くそこから出てこないと、本当に消化されてどこへも行けなくなってしまうだろう。

「僕にどうしてほしいのか、言ってみてよ。僕にできることなら手伝うからさ」

 真剣な顔でそう提案した以洋イーヤンに、東晴ドンチンが嗤った。

『てめえのおせっかいなんざいらねえよ。ビルから飛び下りろって俺が言ったらお前も飛び下りるのか? できもしないこと言ってんじゃねえや』

 ……そもそも一番最初に、君と一緒に飛び下りてるんだけどね……。

「僕がビルから飛び下りたって、それは君にとってなんにもならないだろ? なんでそういう無意味な条件出すのさ?」

 東晴ドンチンのこういう八つ当たりじみた態度に接していると、それだけで以洋イーヤンも辛くなる。それでも東晴ドンチンとの会話をやめようとしないのは、どうすれば東晴ドンチンが自発的に以洋イーヤンから離れることを了承する気になるのかわからないからだ。

「なんで無意味なんだよ、やな野郎だな! お前が俺みたいにビルから飛び下りる勇気を持ってるってんなら、俺だってお前から離れてやるよって言ってるんだ。俺ほど高いところからじゃなくていいぜ。お前が今晩泊まるのって、あれ六階だろ。あれで充分だ。やれるか?』

 そんなのは勇気があるって言わない。馬鹿って言うんだよ……。

「わかった。僕が飛び下りたら君も出ていくって言うんなら、それでいいよ。けど、嘘吐きとか言われないように先に言っておくけど、六階から飛び下りても僕はたぶん死なないからね」

 そう言って以洋イーヤンは肩を竦めた。

「ふん、度胸もないくせにごちゃごちゃ言ってんじゃねえよ。お前がマジに飛び下りたなら、虫の息になってようが骨折しただけで済んでようが、無条件に離れてやる」

「OK、約束成立だ。もし、君が約束を破ったら……僕は賀昱霖ホー・ユイリンのところに行って、君は死んでもまだあいつを愛してたって言ってやるからね。あいつ、有頂天になるだろうな」

 以洋イーヤンも負けずに言い返してやる。

『誰があいつのことをまだ愛してるだと!』

 痛たた……痛、痛いって……。

 またもや東晴ドンチンが頭の中で暴れ出し、以洋イーヤンは顔を顰めた。しかし、実際のところはもうそれほどの痛みではない。

 キャンパスを出た以洋イーヤンは、どうやったら君遠ヂュンユエンに気付かれることなくベランダから飛び下りられるか、その方法を考え始めた……。

 しかし少し考えただけでも落ち着かない気分になってくる。これはやっぱり間違ったやり方なのではないだろうか。たとえ……何事も起きないはずだとしても。

 胸元の聚魂盒じゅこんばこにそっと指で触れる。

 君達は……あの日みたいに僕を守ってくれるはずだよね……。

 大きく以洋イーヤンは息を吸い込んだ。これは、危険な賭けだし、馬鹿の極みのような行為だとも思う。それでも以洋イーヤンはやる気だったし、やらなければならないと感じていた。

 そもそも、東晴ドンチンの意識と共に一度は飛び下りたことがあるのだ。二度目の飛び下りくらいどうと言うことはない。

 それで東晴ドンチンを助けられるんなら……。

 小さく溜め息を吐いた後、少し切ない気分で以洋イーヤンは携帯電話を取り出し、懷天フアイティエンに掛けることにした。

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