第五章(3)以洋、先輩の家にお邪魔する

 懷天フアイティエンと楽しくランチを取った後、易仲瑋イー・ヂョンウェイに電話を掛ける以洋イーヤン懷天フアイティエンがじっと見ている。

 この後の懷天フアイティエンの講習は夜間研修になるので、家に帰って来られるのは明日の朝だ。だから今夜は仲瑋ヂョンウェイのところで過ごすつもりだった。

 しかし、あいにく電話の向こうの仲瑋ヂョンウェイは、院の一年生を引率して、昨日からフィールドワーク中だ。それでも事情を聞いた仲瑋ヂョンウェイが、楊君遠ヤン・ヂュンユエンに電話してくれることになる。

 自分の留守中、君遠ヂュンユエンの臨時のルームメイトになればいいという仲瑋ヂョンウェイの提案に、とにかく一人になりたくない以洋イーヤンも乗ることにした。

『けど頼むから幽霊を連れていって君のヤン先輩を脅かしたりしないでくれよな』

「あ、あははは……連れていかないですよ、どんな幽霊も……」

 笑ってそう答えながら、幾分やましい気持ちになる。説明したのは懷天フアイティエンの不在の件だけで、なぜ一人になりたくないかは言っていないのだ。

『よし、じゃあいつには俺から電話しておくから、小陸シアオ・ルーは少ししたら直接家に向かうといいよ』

「はい、ありがとうございます、先輩」

 礼を言って以洋イーヤンは電話を切った。

 仲瑋ヂョンウェイの家までは、懷天フアイティエンがそのまま車で送ってくれる。留守の間の以洋イーヤンの行き先に満足したらしい懷天フアイティエンは、仲瑋ヂョンウェイの家があるマンションの下に以洋イーヤンを降ろすと、そのまま講習へ戻っていった。

 家のあるフロアへと上がり、呼び鈴を押す。君遠ヂュンユエンと会うのは随分久しぶりだ。ドアを開けてくれた君遠ヂュンユエンが、以洋イーヤンの顔を見るなりぎょっとした表情になった。

「どうしたんだい、その顔!」

「まあその、なんというか……」

 どう説明したらいいかわからず、以洋イーヤンは頭を掻いて乾いた笑い声を漏らす。

「とにかく入りなよ。話はその後で」

 苦笑しながら君遠ヂュンユエン以洋イーヤンの腕を引っ張ったので、以洋イーヤンも笑い返して仲瑋ヂョンウェイの家へと足を踏み入れた。

「お邪魔します」

 君遠ヂュンユエンがお茶を淹れてくれる。それと一緒に華やかな赤い箱に入ったお菓子も出してきて、ローテーブルに置いた。どう見ても結婚式の引き出物だ。

「これ、ゼミの後輩の喜餅シーベイなんだよ。けど、俺一人じゃ食べきれなくて。だから手伝ってくれる?」

「ありがとうございます、先輩~」

 ここ数日なかったほどのんびりした気分で以洋イーヤン君遠ヂュンユエンと二人、ローテーブルの前に座ってお茶を飲みながらクッキーを摘まんだ。

 そう言えば……明日って初七日になるんだ……。

 頭の中で日数を数えてみた以洋イーヤンは、それと同時にふと思い出す。

「あ、思い出した。先輩達がよく行っている書店、あそこが割引セール中なんですよ。明日まで」

 慌ててそう口にした以洋イーヤンに、君遠ヂュンユエンが笑顔になった。

「あ、そうなんだ。けど明日になれば小易シアオ・イーが帰ってくるし、その後で一緒に行くよ」

「わあ……先輩達ってやっぱり仲がいいんだ……」

 思わず以洋イーヤンが漏らしたそんな感嘆の声に、君遠ヂュンユエンが一瞬固まってしまう。

 うわ、なんか失礼なこと言っちゃったよ。

 真っ赤になりながら以洋イーヤンは焦って釈明した。

「す、すみません、別に他意はなくて」

「いや、俺も別に気にしちゃいないんだけどね」

 笑いながらそう言ってくれる君遠ヂュンユエンは、どうやら本当に気にしていないようだった。

「ところで、今回はいったい何があったんだ? 助けが必要なんだよね? ってことはつまり、小易シアオ・イーが君に手を貸せなかった場合は、また一人で暴走するつもりだったってことだと俺は思うんだけど」

「ええと、ははは……、先輩はよくわかってらっしゃいますね、僕のことを……」

 しかしいったいどこから説明するべきだろうか? 乾いた笑い声を上げながら必死に頭を巡らせる。

「あっ、でももし怖すぎる事情があるなら教えてくれなくていいから……、君の先輩は肝が小さいんだよ」

 幾分きまり悪げな顔で君遠ヂュンユエンがそう付け加えた。春先の後輩の事件以来、怪談の類が相当苦手になってしまったらしい。

「はい……と言っても実際のところ何も……、あ、そうだ、先輩は賀昱霖ホー・ユイリン教授って知ってます?」

 不意に思いついてそう訊ねてみる。君遠ヂュンユエンが学んでいるのは気象科学だが、同じ理工科のゼミの一つだ。賀昱霖ホー・ユイリンについても何か知っているかもしれない。

「聞いたことはあるよ。先週自殺したあの助手の指導教授じゃなかったか?」

 口の中のクッキーを噛み砕いてから君遠ヂュンユエンが言葉を続けた。

「なんと言うか、派手な教授だよ。全身いつもブランド品で固めてて。横領って言うなら、あの助手よりも教授がやったって言う方がよっぽど可能性高そうだけど、残念ながら証拠がないんだよなあ。あの助手は飛び降り自殺しちゃったし」

 ……やっぱりそういう感じなんだ……。

「あの教授、エロ教授だって噂もすごく多いんだよな。特に、童顔の男の子に目がないとか。大学の一年生であの教授にセクハラされたって被害者が相当いるみたいだよ」

 思い出したようにそう口にした君遠ヂュンユエンが、一瞬の沈黙の後、すさまじい勢いで以洋イーヤンを振り返った。

「君、あの教授にセクハラされてないよね!?」

 恐る恐るそう訊ねられ、以洋イーヤンは首を横に振る。

「ないです……、あれ? ……ないと言えるはずです」

 一緒にホテルに行ってしまった件について少し考えたが、……あれは結局何も起こっていないのでノーカウントでいいはずだ、と思う。

「ないと言えるはずって、なにそれ?」

 眉を顰めながら以洋イーヤンを見た君遠ヂュンユエンはそこでようやく、以洋イーヤンの『得意技』を思い出したらしかった。

「それとも……会ったの? あの、自殺しちゃった助手に」




「ええと……はい、と言うか……その人が自殺した時、落ちてきたのがちょうど僕のすぐ目の前で」

 若干しょげたような表情になった以洋イーヤンを前に、君遠ヂュンユエンはどんな顔をすればいいかわからなくなる。

 金田一少年や名探偵コナンの、その他大勢の名もないクラスメイトというのは、たぶんこんな気分なんじゃないだろうか。殺人事件はいつもキャンパスで起こってるんだ……というか、キャンパスで起こってない自殺であっても遭遇してしまうって、もはや事件ホイホイ……。

「まあ、大丈夫だよ、全部終わったことなんだし」

 苦笑しながら君遠ヂュンユエン以洋イーヤンを慰め、お茶のおかわりを注いでやった。しかし、頷いてカップに手を伸ばす以洋イーヤンを見ているうち、またふと気付いてしまう。

「……けど……君、もしかして、その自殺、なさった方を連れてきてたりとか……してない、……よね?」

 その問いに、以洋イーヤンが幾分引き攣ったような不自然な笑い声を上げ、そして真面目な顔になった。

「この件についてはこれ以上話さない方がいいと思います。けど、安心してください、先輩。先輩が怖がるようなものは僕も連れて来ませんから」

 まあそれはそうだろうと君遠ヂュンユエンも思う。あの後輩の事件以降、自分がその手の存在をどれだけ怖がるようになったかは以洋イーヤンだって知っているし、以洋イーヤン自身も根っから善良ないい子なのだ。わざわざ自分を脅かすようないじめっ子のような真似をするはずはない。

「だったらいいよ」

 やれやれと言う気分で君遠ヂュンユエンは溜め息を吐いた。




「ところで先輩、そのセクハラって被害者は誰だとかわかったりします?」

 期待を込めて君遠ヂュンユエンを見つめる以洋イーヤンの前で、しかし苦笑した君遠ヂュンユエンの首は左右に振られる。

「特定の誰ってわかるような情報は聞いたことがないなあ……。けど、たとえ被害者の証言がなくても、君自身もあの教授に何かされたってことなら訴えることはできるんじゃ?」

「ううう……それもそうか……」

 ローテーブルに以洋イーヤンは突っ伏した。

 とりあえず賀昱霖ホー・ユイリンのセックススキャンダル方面だけでも明るみに出して治療対象にできないかと思ったのだが。

「それとも、もし、その自殺した助手をなんとかしてあげたいとか君が思ってるなら」

 考え込みながら君遠ヂュンユエンが言葉を続ける。

「セクハラ方面での告発は無理でも、横領の方ならやれることはあるんじゃないかな」

「先輩が言ってるのって、消えたっていう研究費のことですか?」

 思わず以洋イーヤンは目を輝かせた。

「うん。あそこの研究室の経費は、少ないとは到底言えない額なんだよ。助手はたった二名しかいないのにね。そして、俺が聞いている限りでは、経理を担当してるのはもう一人の方の助手だったらしい。帳簿上のデータは自殺した助手にとって不利なものだったけど、でももしも教授が本当に横領してたんだとしたら、その件については経理担当のもう一人の助手だって確実に知っていたはずだよね」

 言い終えた君遠ヂュンユエンがお茶を一口飲む。

「へ? 帳簿? そうなんですか?」

 目から鱗だった。

 以洋イーヤンのいる研究室では、横領問題などこれまで起こったことがない。というか、それ以前の問題で、いつだって研究費が不足しているので、毎回、教授や以洋イーヤンたち研究生が自分のお金で補填している状態なのだ。

 だから経費もへったくれもない。横領できるお金なんていったいどこにあると言うのか。……箒一本買うのですら自分の財布からお金を出しているのに。

「うん。だからそのもう一人の助手が証言してくれるなら、この件を表沙汰にすることは可能なんだ。けど、その助手に証言を了承させなきゃならないんだよな」

 君遠ヂュンユエンが肩を竦めてみせる。

「聞いた話じゃ、経理担当の助手はまだ研究生の立場なんだそうだ。だからもし彼女の卒業の可否すらあの教授の胸先三寸な状態だとしたら、彼女を説得して証言させるのは相当に難しいよ」

「……僕、その助手と話してみます」

 少し考えてからそう口にした以洋イーヤンに、君遠ヂュンユエンも頷いた。

「うん。けど、話をしに行くならその前に、あの教授の横領を証明できる決定的な証拠を掴んでおいた方がいいと思うよ。その後の方が賛同も得やすいはずだ」

 続けて君遠ヂュンユエンがそう口にしたのは、今回も以洋イーヤンが後先考えずに暴走するのではと心配しているからだろう。それがわかっているので以洋イーヤンも笑顔になる。

「はい、わかってます。先輩、ありがとう」




 君遠ヂュンユエンがレポートを書き始めたので、以洋イーヤンは少し出掛けることにした。玄関の外へ出た後、今が懷天フアイティエンの空き時間なことを確認してから、電話を取り出し掛けてみる。

 懷天フアイティエンととりとめのないおしゃべりをしている時に胸に湧き上がってくる気分を、まるで喉に大きなマシュマロが詰まっているみたいだと以洋イーヤンは思った。甘くて柔らかくて、でも大き過ぎて一口では飲み込めない。かと言って吐き出してしまいたくもなく、じわじわとそれが溶けていくのを待つことしかできないような感覚。

 二十分ほど話してから電話を切った時、またあの頭痛が襲ってきた。

「ううっ……痛たた……」

 両手で頭を包み込むようにして痛みに耐える。東晴ドンチンがもたらすこの頭痛は、今日の午前中に感じたものよりも更に軽くなっていた。ただし、やはり痛いことに変わりはない。

『なんでだよ……、なんで俺は幸せになれなかったんだよ…………』

 そんなの、僕が知るわけないだろ……。

『俺が幸福になれない以上、お前だってなれると思うな!』

 溜め息を漏らして以洋イーヤンは言い返した。

「なんでそんなに思い詰めちゃってるかな……。幸福ってのは自分で手に入れるものでしょ。君は自分でそれを諦めちゃったのに、なんで他の人が幸せになるのが許せないって話になるのさ?」

『そんなのどうでもいいんだよ! 俺はお前が大嫌いだ! 俺をこんな目に合わせた奴等がどいつもこいつも憎いんだ!』

 ぶっちゃけ八つ当たりだよね、それ……。

 幾分呆気に取られて絶句した以洋イーヤンは、それでもしばらくしてもう一度口を開いた。

「君が嫌ってるのって、僕じゃないよね。君を陥れた相手でもない。君が嫌いなのは、君自身だよ」

 以洋イーヤンの中で暴れていた東晴ドンチンが不意に沈黙する。

「君が嫌ってるのは、君のお母さんを置き去りにし、君の弟を君と同じようなピンチに陥れる羽目になってしまった君自身だ」

 以洋イーヤンは口を噤まなかった。容赦なく言葉を発し続ける。

「もしかしたら賀昱霖ホー・ユイリンのことも憎んでるのかも知れないけど、それでも君が一番憎んでるのは君自身なんだよ」

 東晴ドンチンの沈黙は長く続き、以洋イーヤンは少し気の毒になってきた。

「もし、君が本当に賀昱霖ホー・ユイリンを許せないんであれば、君は賀昱霖ホー・ユイリンに取り憑くべきだと思うよ。ずっと僕のところにいることはできないんだし、それに君が嫌いなのが自分自身なら、君はまだ賀昱霖ホー・ユイリンを愛してるんだよ、悲しいことだけど」

 まだ東晴ドンチンは沈黙したままだ。それでも、東晴ドンチンの悲しみと怒りが自分の胸の中で渦巻いているのを以洋イーヤンは感じた。それはぐるぐると回り続けるだけで、発散されることもなければ、どこかで眠りにつくこともない。

 重い溜め息を以洋イーヤンは吐いた。胸の中のもので今吐き出せるのはそれだけだった。


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