第五章(1)以洋、幽霊の葬儀に行く

 翌朝、以洋イーヤンはほとんど宙を舞うような足取りで槐愔フアイインの事務所に向かった。

 昨日は結局眠りに落ちるまでずっと懷天フアイティエンと一緒だった。キス以外は何もしていないと言えばしていないのだが、それでもキスできる場所という場所全てに口吻けられたような気がする。

 頬から始まって耳、喉、それから、鎖骨……。考えているだけでまた頬に血が昇ってきた。中でも一番恥ずかしいのは、我慢できずに自分が漏らしてしまった声だ。

 穴があったら埋まりたい。いや、なくてもいっそ自分で穴を掘りたい。

 おまけに『暴発』という言葉の意味まで自分の身体でわかってしまった。もちろん本当にそこまで行ってしまったわけではないが、それでももう充分過ぎて、考えただけで顔が熱くなって足取りが怪しくなってくる。

「これじゃ仕事にならないよ……」

 溜め息を吐きながら事務所に入ると、予想外なことに槐愔フアイインが既に来て坐っていた。

 無意識に時計に目をやった後、以洋イーヤンはなんとか笑顔を顔に貼りつけ、声を掛けてみる。

「おはよう、随分早いね。朝ごはん食べた? 僕作るけど」

「別に腹は減ってねえよ。お前の方は今日はどうなんだ?」

 どうやら槐愔フアイインはそれほど怒ってはいないらしかった。

「悪くない状態だよ。昨日の午後は頭痛に悩まされたけど、今日はなんともないみたい」

 以洋イーヤン槐愔フアイインの向かいの椅子に腰を下ろす。

「ならいい」

 そう言ったきり、槐愔フアイインが言葉を続ける様子はなく、以洋イーヤンは自分から訊ねてみることにした。

槐愔フアイイン……、聚魂盒じゅこんばこに入った死者は、そのままずっとあそこにいると最後はどうなるの?」

 槐愔フアイインは答えを知っているはずだと以洋イーヤンは思っている。単に、その答えを口にしたくないだけで。

 槐愔フアイインがじろりと以洋イーヤンを睨んだ。しばらくしてようやくその口が開く。

「出ていこうとそいつが自分から思わない限りは、じきに盒によって消化される」

「しょ、消化……? それって、……存在が消えるって意味?」

 ぎょっとして以洋イーヤンは確認した。

「ああ。消え去るんだ」

 槐愔フアイインが真っ向から以洋イーヤンを見つめる。

「消えてしまえば、二度と人の世に生まれ変わってくることもない」

 呆然となりながら以洋イーヤンは更に訊ねた。

「じゃあ、じゃあ彼はいったいどうやって聚魂盒じゅこんばこの中に入ったの?」

「人には三魂七魄ってもんがある。お前はそいつが死ぬ最後の一瞬にそいつの目を見ただろう。だからそいつの魂魄は、お前の目を通ってお前の身体に入ったんだ。けど、お前は聚魂盒じゅこんばこを身に着けてる。それで盒がその魂魄を吸い込んだ。これは別に盒の中の奴等が好き勝手に食ったわけじゃないぜ、そういうシステムなんだよ。ただ後は、そいつが盒から出ていこうとしない限り、遅かれ早かれ盒の中の魂のどれかに食われちまって終わる」

「そんな……、じゃ、どうしたら……」

 胸元の聚魂盒じゅこんばこを困惑しながら撫でている以洋イーヤンを、槐愔フアイインがまた睨む。

「そいつ、いつもお前の身体を使ってお前の彼氏を引っ掛けようとしてるじゃんか。親切心を発揮して、お前が彼氏と一発ヤってやったらどうだ?」

「けど……、って、え? なんで知ってるの?」

 恐れ戦いて槐愔フアイインに目を向けた以洋イーヤンの前で、槐愔フアイインが知らん顔で新聞に手を伸ばした。

「んなことくらい、頭で考えるまでもなくわかるんだよ」

 そのまま槐愔フアイインは新聞を読み始めてしまいう。

 以洋イーヤンはテーブルに肘をつき、手で下顎を支えた。俯きながら考え込む。

 これは若干悩ましい問題だった。李東晴リー・ドンチンは話の通じない相手だし……、おまけに懷天フアイティエンにちょっかいを出そうとしている相手でもある。

 しかしだからと言って、そんな風にして聚魂盒じゅこんばこの中の魂に食べられてしまっていいとも思えない。……人間にはいつだってやり直す機会があっていいはずだ。

「ぐだぐだ考えんなよ。今のお前がやるべきことは、ここにいるか、春秋チュンチウのところに戻るかの、二つに一つだろ。どっちも嫌だってんなら、さっさと解決しな」

 新聞がバサッと以洋イーヤンの前に投げ出される。

 立ち上がった槐愔フアイインが出掛ける仕度をしている横で、以洋イーヤンは新聞を眺め、そして気付いた。そこに書いてある記事は李東晴リー・ドンチンのことだ。掲載されている写真の、老けた印象の女性が李東晴リー・ドンチンの母親だった。

 六日に亘って母親が李東晴リー・ドンチンの魂を呼んでいるのに戻ってこない、記事にはそう書かれている。

 ……そりゃ、魂は僕のところにいるんだから、呼んでも来ないよな……。

 どうするべきか槐愔フアイインに訊いてみようと以洋イーヤンは顔を上げたが、ちょうどそのタイミングで玄関のドアが閉まる。

 ありゃ、行っちゃったよ。……解決しようと思うなら、李東晴リー・ドンチンの家に行ってみろって解釈でいいのかな?

 以洋イーヤンはノートパソコンを開き、大学の構内掲示板から学生名簿にアクセスした。李東晴リー・ドンチンの実家の住所をコピーした後、荷物をまとめてリュックを背負い、以洋イーヤンも事務所を後にする。

 今日になって以来、李東晴リー・ドンチンは黙ったままだし、以洋イーヤンの方も体調と精神状態共に万全だ。ここ数日はやけに疲れやすくて、何かしてもしなくても座った途端に眠くなるような状態だったが、今日はそんなこともない。

 まさかこれって、もう李東晴リー・ドンチンが消化され始めてるからってことはないよね? だからこんなに静かになっちゃってるんだとか。

 幾分心配になりながら以洋イーヤンはタクシーを降りた。

 李東晴リー・ドンチンの家に近付くと、そこはまさに自宅葬の会場になっている。招魂の儀式もまだ行われている最中で、僧侶と助手以外にも大勢の親戚が動き回っていた。

 そっちへ向かって足を踏み出そうとした時、見覚えのある顔が目に飛び込んでくる。

 あ……、あいつだ、賀昱霖ホー・ユイリン……。

 その顔を目にした瞬間、自分の中の李東晴リー・ドンチンが目を覚ましたのを以洋イーヤンは感じた。

 そろりそろりと歩き出した以洋イーヤンが一人の女生徒の傍を通り過ぎようとした時、以洋イーヤンに気付かなかったその女生徒がぶつかってくる。

「ご、ごめん」

 慌てて謝った以洋イーヤンにその女生徒も急いで詫びてきた。見ていると、以洋イーヤンの傍を離れたその女生徒は家の中へは入ろうとせずに、李東晴リー・ドンチンの祭壇を遠くからじっと眺めているだけだ。

 やがて深々と祭壇に向かって頭を下げると、そのまま去っていてしまった女生徒に、以洋イーヤンは内心で首を傾げた。

 李東晴リー・ドンチンの学部仲間とか……、それとも研究室の同僚かな……?

 それでもそれ以上は追究しないことにして、用心深く以洋イーヤンは家に近付く。賀昱霖ホー・ユイリンに姿を見られるわけにはいかないが、彼と李東晴リー・ドンチンの母親との会話は聞きたかった。

ホー教授、お手伝いありがとうございます。こんなにしていただいて」

 李東晴リー・ドンチンの母親が涙を拭っている。

「そんなことおっしゃらないでください。これは私がやるべきことなんです。生前、東晴ドンチンくんにどれだけ私が助けられたか」

 賀昱霖ホー・ユイリンの顔に浮かべられた残念そうな表情は、真に迫っている。どう見ても本心からそう言っているかのようだ。

「どうかあの子を信じてやってください。あの子は、絶対に研究室のお金を取ったりなんてしません。そこだけは、疑う余地もないんです」

 真っ赤に泣き腫らした眼から、こらえきれないように李東晴リー・ドンチンの母親がまた涙を零す。それでも母親は賀昱霖ホー・ユイリンから目を逸らさず、そう訴えていた。

「私だってずっと彼を信じていたんです。ただ、証拠が。それが出てくる前は私もまったく彼を疑ったことなどなかったんですが」

 深々と賀昱霖ホー・ユイリンが溜め息を吐く。

「彼がこんなことをするなんて、私だって信じたくない。父親と同じ轍を踏むだなんて……」

 嗚咽が李東晴リー・ドンチンの母親の喉から迸るのを見て、以洋イーヤンは凄まじい怒りを覚えた。しかし、その怒りよりももっと深い憎しみと暗い感情が自分の胸の中に拡がっていくのがわかる。それが今にも身体を突き破って噴き出しそうで、以洋イーヤンは胸元をきつく押さえ、李東晴リー・ドンチンを抑えこもうとした。

「彼は幼い頃から私の傍にいたのに、私は彼を導いてやれなかった。でも、安心してください。あのお金は私が賠償します。どうかご心配なさらず」

 賀昱霖ホー・ユイリンが慰めるように李東晴リー・ドンチンの母親の背を叩いているが、母親はもう声も出せないらしく、ただ首を横に振るだけだ。最後には今にも崩れ落ちそうな表情になって、足早に家の中へと入っていってしまった。

 一人残された賀昱霖ホー・ユイリンが、ほっとしたように辺りを見回している。その後、幾つかの椅子が並べてある方に賀昱霖ホー・ユイリンが足を進めた。そこには、十四、五歳くらいの少年が座っている。

 以洋イーヤンはひっきりなしに深呼吸を繰り返しながら、自分のシャツの胸元を掴んだ。その少年から目が離せない。

 李東晴リー・ドンチンの記憶を見た時のことを思い出す。李東晴リー・ドンチンの父親の葬儀が執り行われた時、母親はちょうど妊娠中だった……。ということは、この子は李東晴リー・ドンチンの弟なのか?

希予シーユイ、そんなに悲しまないで」

 賀昱霖ホー・ユイリンが、少年の頭を撫でている。

「兄さんがそんなことするはずない……」

 希予シーユイと呼ばれた少年が、押し殺したような声を出した。

「小さい時から僕に言ってたのに。自分のものじゃないお金に手を出しちゃいけないって。だから兄さんだって人のお金に手を出したりなんか」

「わかるよ。私だってそう信じていたんだ」

 賀昱霖ホー・ユイリン希予シーユイの肩を抱き、そして微笑みかける。

「安心しなさい。お兄さんに代わって、君の面倒は私が見るから」

 希予シーユイの頬を涙が滑り落ちた。

「兄さんはいつもあなたのことを言っていたんだ」

 顔を上げて賀昱霖ホー・ユイリンを見ている希予シーユイの頬を、賀昱霖ホー・ユイリンが微笑みながら撫でている。

「君はお兄さんの幼い頃にそっくりだね」

 胸元に巣食っている李東晴リー・ドンチンの感情は、もはや爆発寸前だった。

 息を止めて鳩尾を拳でえぐるように押さえながら、以洋イーヤンは地面にしゃがみ込む。

 駄目だ……、絶対に今、君を出すわけにはいかない……。そんなにあいつが憎いなら、まず僕の身体から離れろ! 母親と弟を残して自殺するってのは、君が自分で選んだことなんだぞ! あの悪党から離れることを選ばなかったのも君だ! 二人を守りたいなら、まず僕の身体から出ていけよ!

 心の中で絶叫する。

 もう二度と僕の身体を君には操らせない!

「あなた、大丈夫? 気分が悪いの?」

 胸元にわだかまっていた李東晴リー・ドンチンの感情が瞬時に消え失せる。ようやく息を吐いた以洋イーヤンは額を汗に塗れさせたまま、自分に声を掛けてきた相手の顔を見上げた。

 李東晴リー・ドンチンの母親だ。

 不意に、堰を切ったように悲しみが込み上げてくる。大粒の涙を目から溢れさせた以洋イーヤンに、李東晴リー・ドンチンの母親が呆気に取られたような顔になった。

「あなた……、東晴ドンチンのお友達?」

 目を真っ赤にしている母親に優しくそう問い掛けられ、どう答えていいかわからずに以洋イーヤンはただ頷き返す。李東晴リー・ドンチンの母親も以洋イーヤンの傍にしゃがみ込み、以洋イーヤンの頭を撫でてくれた。

東晴ドンチンに会いに来てくれてありがとう。あの子……来てくれるようなお友達がほとんどいなかったみたいで……」

 微笑みながらそう言われ、以洋イーヤンはただ首を横に振ることしかできない。こらえようもなく涙が零れ落ち続ける。全ての感情が悲しみ一色で塗り潰されたような感覚だった。

 しばらくしてようやく声を絞り出す。

東晴ドンチンは……こんなことしません……」

 涙を拭い、以洋イーヤンは顔を上げて李東晴リー・ドンチンの母親を正面から見つめた。

賀昱霖ホー・ユイリンに気をつけてください。あなたに残されたもう一人の子に、絶対にあいつを近付けさせないで」

 不意を衝かれたような顔になった李東晴リー・ドンチンの母親が何か訊ねてくる前に以洋イーヤンは立ち上がって、逃げるように彼女の前から走り去った……――――。




 ――――……無意識に彼女は自分の子供を振り返った。

 ちょうど賀昱霖ホー・ユイリン希予シーユイの肩を抱いて、何か言っているのが見える。何か言ったり笑ったりして、希予シーユイを笑わせようとしているようだ。その光景に、ふとぞっとするものを彼女は感じた。

 足早に彼女は二人に近付く。

希予シーユイ、いらっしゃい。お兄ちゃんに紙銭を焼いてあげるのを手伝って」

「うん」

 立ち上がってこちらに走ってくる希予シーユイを、賀昱霖ホー・ユイリンが見ている。どこか、残念そうに。

 賀昱霖ホー・ユイリンが立ち上がり、彼女のほうに歩いてきた。

「もし何かお手伝いできることがあったら、なんでも言ってください」

 その提案に、礼儀正しい微笑みだけを彼女は返す。

「もう充分手伝っていただいていますから。学校の方もお忙しいでしょうし、こんなに毎日おいでいただいていては何か噂になるかも。東晴ドンチンの面倒を見てくださってありがとうございました。お金は、私が必ずお返しします」

「そんなに他人行儀になさることはありませんよ。私達はこんなに長年、まるで家族みたいに過ごしてきたんですから。希予シーユイくんの面倒も見させていただくつもりです」

 賀昱霖ホー・ユイリンがそう言って笑っている。だが、なぜかはわからないが、彼女はその笑顔にただひたすら寒気だけが込み上げてくるのを感じた。

「ご厚意に感謝します。私はあちらを手伝ってきますので、賀教授はどうぞお好きに」

 会釈して賀昱霖ホー・ユイリンに背を向け、家の中へ入る。

 賀昱霖ホー・ユイリンに気をつけてください。

 もしさっきあの男の子が唐突にそんなことを口にしなかったら、死ぬまで自分は賀昱霖ホー・ユイリンに対してこんな感覚を持たなかっただろうと、彼女は思う。

 息子がそんなお金に手を出したりすることはないと彼女は信じていた。そして学校側の説明では、息子のいた研修室で金銭関係にタッチできるのは三人しかいない。

 最後の一人は経理担当の若い女性。だが彼女の家はとても裕福だという。

 自分の息子はそもそも経理には関わっていなかったのに、どうして疑いが掛かったのは東晴ドンチンだったのか。その理由がどうしても彼女にはわからなかった。

 自分がシングルマザーで二人の子供を育てていて生活が困窮しているから。それが原因で東晴ドンチンに嫌疑が掛かったのだろうか?

 だが、今、ふと思わずにいられない。……賀昱霖ホー・ユイリンはいつも、全身をブランド品で固めている。大学教授の給料は、本当にそんなに高いのだろうか……?

 これまで一度として彼女が賀昱霖ホー・ユイリンを疑ったことはない。それは彼がずっと東晴ドンチンに対して好意的に接してくれていたからだ。

 だが、さっきのあの子、息子のためにあんなに泣いてくれていた男の子――あんなに大きな歳の男の子があんなにも泣いているのを見るのは初めてだった――がでたらめを口にしているようにも見えなかった……。

 賀昱霖ホー・ユイリン東晴ドンチンの面倒を見たいと提案してきた時、それを断らなかったのは間違いだったのだろうか……。そう疑わずにいられなくなる。

 父親を失った時、東晴ドンチンは父に対する怒りと憎しみでいっぱいになっていた。賀昱霖ホー・ユイリンが父親代わりになってくれなかったら、そんな息子が道を踏み外すのではないかと自分は恐れていた。

 そして賀昱霖ホー・ユイリン東晴ドンチンをよく見守ってくれていたのだ。東晴ドンチンが勉強に励み、院を卒業するまで……。

 愕然としながら彼女は祭壇の前に腰を下ろした。花に囲まれて飾られている息子の写真を見上げる。

東晴ドンチン……、どうして帰ってきてくれないの……。帰って来て、お母さんに教えて。いったい何があったの……」

 泣きながら訴える彼女の悲しい声は、李東晴リー・ドンチンの耳に届くことなく風に吹き散らされて虚空へ消えていった。





※招魂についての解説を近況ノートに載せております。

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