第三章(3)以洋、某所を訪れる

 その頃、以洋イーヤンは道を歩いていた。

 ちょうど出勤時間帯なので、街には人が溢れている。特にバス停とMRT駅の出口周辺は混雑がひどい。

 人ごみの中、まるで散歩でもしているかのように一人だけのんびりと足を進めていた以洋イーヤンは、まだ開いていない商店のショーウィンドウ前を通り過ぎる時、ふとガラスを覗き込んだ。

 明かりの灯っていない店内のせいで、ガラスが鏡になって以洋イーヤンの姿をはっきりと映し出している。

 振り返って正面から自分の姿を映した後、髪を軽く整え、頬を撫でてみた『以洋イーヤン』が笑みを浮かべた。

「この子、ほんとに可愛いよな。……絶対あいつの好みだ」

 そのまま、また自分の目的地へ向かって歩き出した『以洋イーヤン』が、やがて足を停める。通りの向かい側で営業している朝食店に目を向けた『以洋イーヤン』は、しばらくその店を見つめていたが、やがてうっすらと笑った。 『以洋イーヤン』の待ち人が店から出てくる。相手が通りを渡ってくるのを、『以洋イーヤン』は道端のベンチに腰掛けて待った。

 椅子に両手をつき、軽く足を投げ出すような姿勢を取る。そして首を傾げ、道を渡ってくる相手に上目遣いに微笑みかけた。

 『以洋イーヤン』の待ち人は、四十を幾つか越していそうな男性だ。スーツの上にはトレンチコートを羽織っている。健康状態も悪くはなさそうで、端正に整った顔立ちの持ち主だった。

 これだけ距離があってもその男は、ベンチに座っている可愛い男の子に気付いていたらしい。そして微笑みかけられた瞬間、それがどういう意味かにも気付いたようだった。

 男がちらりと時計に目を落とす。出勤までにささやかな『お楽しみ』をする時間があるかどうか確かめているのだろう。

 そして、男は『以洋イーヤン』の傍に歩み寄ってきた。

「一人?」

「うん」

 にこっと笑い、『以洋イーヤン』は男の耳元に口を近づけた。

「ボク、お小遣い欲しいんだよね」

 ここまでストレートに話が進むとは思っていなかったのだろう。男が笑顔になる。

「幾ら?」

「幾らくらいに見える?」

 思わせぶりに微笑みながら『以洋イーヤン』は男の方ににじり寄って男の太腿に手を添えた。

 さあ見ろ。『ボク』は可愛いだろう? 童顔で、首から肩にかけてのラインもまだ男っぽくゴツゴツはしていない。

 男の手が『以洋イーヤン』の腰に伸びてきて、ヒップラインを撫でている。小振りな尻はむしゃぶりつきたくなるくらいなはずだ。

「五千でどう?」

 『以洋イーヤン』はつんとそっぽを向いてみせた。

「他の人探そうっと」

「待って」

 大方、自分からウリをやろうという少年相手だと高をくくっていたのだろう男が、焦ったように『以洋イーヤン』の手を掴んでその場に引き留める。

「わかった。八千なら?」

「一万五千」

 にっこりと笑って『以洋イーヤン』は付け足す。

「最低価格でもそのラインなんだけど?」

 さすがに男が顔を顰めた。男の子相手にそこまでの金額を出すのは初めてなのだろう。

 『以洋イーヤン』は男のトレンチコートの中に手を入れ、腰のラインに沿って撫で下ろしてやりながらささやいた。

「損はさせないよ」

 肩を竦めた男がにやっとする。

「取引成立だな」

 『以洋イーヤン』も笑みを浮かべ、男の耳元に声を吹き込む。

「いいホテル知ってるんだけど」

「なら行こうか」

 微笑み返してきた男が『以洋イーヤン』の肩を抱き、一緒に歩き出す。

 大仰な造りのモーテルの前で、『以洋イーヤン』はちらりと腕時計に目をやった。男の腕に自分の腕を絡め、振り返って通りに目を走らせた後、満面の笑みを浮かべて男と一緒にホテルに入っていく。




 懷天フアイティエンは勢いよくブレーキを踏み込んだ。

 事故になりかねない急ブレーキに、後ろの車が一斉にクラクションを鳴らすが、車から降りた懷天フアイティエンは警察IDを示してみせてその抗議をやり過ごす。

 今さっき通り過ぎた建物は、あれはモーテルだったような。そして、そこに入っていくのが見えた姿、あれは以洋イーヤンだったはず……。

 いや、違う。以洋イーヤンが浮かべていたあの笑顔。あの蠱惑的な笑顔は以洋イーヤンのではなく、以洋イーヤンに憑いている存在の笑みだ。

 後続車を全て通過させた後、急いで懷天フアイティエンは車に戻った。後ろに一台の車もいないのを確認しつつ、バックでモーテルの前まで戻る。路肩に車を停め、降りるとそのまま建物に駆け込んだ。

 ノックして受付スタッフを呼び出し、警察IDを見せる。

「さっき男の子を連れた男が来ただろう。どの部屋だ?」

 受付カウンターのスタッフがぽかんとなった。

「ええと……でもその子、十八歳以上でしたよ? 身分証は確認したんで」

「どの部屋だ?」

 険しい顔で懷天フアイティエンは更に訊ねる。

「お巡りさん……、あの……」

「おたくのオーナーは毎日誰かが臨検に来たり、消防検査で営業停止になるような事態は御免だと思うが?」

 無表情に懷天フアイティエンはスタッフを見つめた。

「部屋番号は?」

「少々お待ちください」

 愛想笑いを浮かべたスタッフがパソコンを操作する。

「八○六号室です。八階に上がって、左手の三番目の部屋になります」

 即座に懷天フアイティエンはエレベーターに飛び込んだ。しかし、のろくて苛々する。思わず誰かを殴り飛ばしたいような気分になるくらいだ。こんなに腹が立つのは懷天フアイティエンにとっても久しぶりだった。

 エレベーターがようやく八階に着く。ケージから飛び出した懷天フアイティエンは、八○六号室に向かって突進し、力いっぱいそのドアを叩いた。

「ドアを開けろ! 警察だ!」

 中からばたばたと焦った気配が伝わってくる。誰かの慌てた声が聞こえた。

「ちょっ、ちょっと待って……」

「早くしろ! すぐにドアを開けるんだ!」

 もう一度力強くドアを叩いた懷天フアイティエンに、周囲の他の部屋からも慌てたような物音が起こり、幾つかのドアが開いて中の人がこちらを見ている。厳しい顔で懷天フアイティエンは告げた。

「他の部屋の方は無関係です。室内で待機してください」

 ようやく八○六号室のドアが細く開く。

「あの……」

「どきなさい」

 焦った顔を覗かせた男にそう言い、懷天フアイティエンはドアを押し開けた。

 室内に入った途端、以洋イーヤンの姿が目に飛び込んでくる。ベッドに腰掛けた以洋イーヤンのシャツは、幾つかボタンが外れていた。

 思い通りに懷天フアイティエンがここに来た。そう言いたげな笑みを『以洋イーヤン』が懷天フアイティエンに向けている。その得意げな笑顔に、懷天フアイティエンはこいつを一発殴りたくなった。こいつがいるのが以洋イーヤンの身体でなかったら絶対にそうしたはずだ。

 『以洋イーヤン』に背を向け、懷天フアイティエンは『以洋イーヤン』をこの部屋に連れ込んだ男の襟を掴んだ。

「この子が未成年だと承知の上か?」

 慌てふためいて男が首を横に振る。

「身分証は見ましたよ。もう二十四歳じゃないですか!」

「この顔で二十四歳だと言われて信じたのか? 偽造の身分証を見たことがないとでも? 身分証を出して」

 冷ややかに睨まれた男が怯え切った様子で皮財布から取り出した身分証を受け取り、記載されたデータに懷天フアイティエンは目を走らせた。

 賀昱霖ホー・ユイリン。四十三歳だ。住所は台北市内。

「仕事は?」

 懷天フアイティエンは男を見据えた。こんな朝っぱらから男の子を引っ掛けてホテルに連れ込むなんて、どんな使えない勤め人だ?

「……その、大学教授、です……」

 僅かに項垂れた男が、次の瞬間必死の形相で主張し始めた。

「今朝道端で私を誘ってきたのは彼の方ですよ! 同性愛は別に犯罪じゃないですよね? 彼の身分証には二十四歳だと書いてあったんです。それが偽造品だなんて私にわかるわけないじゃないですか!」

 怒鳴りつけてやりたい気持ちを懷天フアイティエンはこらえた。

「どの大学の?」

 躊躇うように賀昱霖ホー・ユイリンが口ごもる。

「俺が自分で調べに行くんでもいいが」

 ひらひらと懷天フアイティエンは身分証を振ってみせた

「……台湾大学です……」

 しぶしぶと賀昱霖ホー・ユイリンが口にした学校名に、懷天フアイティエンは更に険しい顔になった。以洋イーヤンの学校の教授だというのは、これはただの偶然なのか?

 『以洋イーヤン』の方を振り向いてみる。ベッドに腰掛けている『以洋イーヤン』の顔には、相変わらず人を苛立たせるような笑みが浮かんでいた。

「帰っていい。ただし、学校に通報されたくなかったら二度とこんな真似はしないように」

「は、はい、わかりました、今後は気をつけ……いえいえ、今後はもうしません」

 若干口調を穏やかにした懷天フアイティエンがどうやら自分を解放してくれるらしいと見て、忙しなく賀昱霖ホー・ユイリンが頷いてみせる。

「行っていい」

 身分証を懷天フアイティエンが渡してやるや否や、賀昱霖ホー・ユイリンはコートと鞄を引っ掴んで部屋を飛び出していった。




 ドアを閉め、懷天フアイティエンは厳しい顔のまま『以洋イーヤン』を振り返った。

「知り合いか?」

 『以洋イーヤン』がごろりとベッドに寝そべり、笑いだす。

「知~らない。今朝適当に引っ掛けただけだし?」

「お前はいったい何がしたいんだ?」

「べっつにぃ? せっかくこんな素敵な身体が手に入ったしさあ。それにこのガキ、けっこう俺のこと傷つけてくれちゃったし? この身体で俺が楽しんでもバチ当たんなくね?」

 険しい眼差しの懷天フアイティエンにそう答え、笑いながら立ち上がった『以洋イーヤン』が懷天フアイティエンの方に近付いてきた。

「あんたもそんなに我慢しなくていいんだぜ? あんたが俺のこと満足させてくれるって言うんなら、俺だって誰かを引っ掛けたりしなくてよくなるしぃ?」

 返事もせず『以洋イーヤン』を睨んでいる懷天フアイティエンの腰に、『以洋イーヤン』が腕を絡めてくる。『以洋イーヤン』が顔を上げ、以洋イーヤンのあのいつも澄んでいる綺麗な目が懷天フアイティエンを見つめた。

「あんたまだこいつをヤったことないんだろ? 俺ならあんたをすっきりさせてやれるぜ? 別にこいつが痛い思いしたりすることもないんだしさあ」

 怒りをこらえきれなくなり懷天フアイティエンは『以洋イーヤン』を突き退けた。

「身体だけが欲しいんなら、俺だってとっくに手を出してる。お前の出番なんかない。引っ込んでろ」

「じゃ、ずーっとずーっと待ちぼうけになるんじゃね? 俺の出番になるのを楽しみに待っててやるよ」

 笑いだした『以洋イーヤン』が、懷天フアイティエンの怒りの形相を見て、面白がるようにまた歩み寄ってくる。

「何? 怒った? 俺のこと殴ってみる? やりたきゃやってみ……」

 『以洋イーヤン』が言い終える前に懷天フアイティエンは拳を振り抜いた。

 うっと声を上げて『以洋イーヤン』が床に倒れ込む。しばらくして首を左右に振りながら半身を起こした。


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