第二章(4)以洋、(主に食材に)怒りをぶつける

 悩みながら帰宅した以洋イーヤンは、玄関を潜って明かりを点けた瞬間、またあの幽霊が背後にいる気配を感じた。連続三日、いい加減以洋イーヤンもキレそうになっている。

「僕につきまとうなって言ってるだろ! 話があるなら言えってば。これ以上コソコソすんな!」

 室内は静まり返っている。幽霊の姿も現れない。怒りのあまり、以洋イーヤンは鍋をぶん投げたくなった。しかし、鍋に八つ当たりしたところでなんの意味もない。怒りをこらえて夕飯を作り始めるしかなかった。




 以洋イーヤンが怒りを少しはこらえられるようになったのは、どうやら懷天フアイティエンが帰宅して、一緒に食卓についてところでようやくだったらしい。

「今日のおかずは随分……材料が細かく刻んであるんだね」

 懷天フアイティエンは苦笑した。食べやすいサイズというより、ほぼどれもみじん切りだ。どれだけ怒りを込めて料理していたのか一目瞭然だった。

「……細かいところによく気付くね」

 以洋イーヤンはぼそっと答えただけで、黙々と食事を続けている。懷天フアイティエンもそれ以上は何も言わず、無言で夕飯を平らげた。

 食後の皿洗いの時も、以洋イーヤン懷天フアイティエンによる手助けを拒んで、一人で台所に籠もってしまう。

 ガチャガチャと食器のぶつかり合う音が聞こえてくるのに、ビニール手袋を買ってきて以洋イーヤンに渡すべきだろうかと懷天フアイティエンは悩んだ。でないと以洋イーヤンが割れた皿で手を切りそうな気がする。

 皿洗いを終えて台所から出てきた以洋イーヤンはまだ怒った顔をしていた。

「昨日のDVD、まだある?」

「うん、あるけど……まだ見たいの?」

 幾分呆気に取られて懷天フアイティエンは訊ねた。

「見たい。見るよ」

 子供のようなふくれっ面で、どすんとソファに腰を下ろした以洋イーヤンが、懷天フアイティエンがディスクをセットするのを待っている……――――。




 ――――……ざっと二十分後、以洋イーヤンはまたもや睡魔にノックアウトされていた。

 実際には映画が始まって五分も経たずに以洋イーヤンの瞼は重く垂れ下がり始めている。それでもどんな意地を張っているのか必死に起きていようとしている以洋イーヤンを、懷天フアイティエンは微笑ましく見守っていたが、次第にかわいそうになってきた。

 ソファの上、わざと寝そべるような姿勢を取ることで、以洋イーヤンの方も徐々に深くソファに凭れかかるような態勢になるよう仕向けてやる。この作戦はうまく行き、じきに以洋イーヤン懷天フアイティエンの肩に寄り掛かって眠り込んだ。

 今夜は懷天フアイティエン以洋イーヤンを揺り起こそうとはせず、そっと身体をずらして膝枕をしてやる。たぶん以洋イーヤンはこの二日間ほとんど眠れていなかったんだなと、細く柔らかい髪を撫でてやりながら懷天フアイティエンは思った。

 そろそろと手を伸ばして、さっきソファに引っ掛けていたジャケットを掴み取り、以洋イーヤンの身体に掛けてやった後、画面に目を戻す。

 流れているのは懷天フアイティエンにとっては丸っきり興味の対象外なアクション映画だ。いかにもアメリカ的な、ヒーローが大活躍する物語を、別な意味で注意深く懷天フアイティエンは見つめた。

 主人公は、どこか落ちぶれた風情を漂わせている刑事。それでも一人で大勢の市民の命を救い、最後には離婚した妻も不仲だった娘もみんなこの主人公の元に戻ってくる……。

 こんな話と主人公で第四作目まで撮れるというのが懷天フアイティエンにはそもそも不可解だった。しかし、どうやら以洋イーヤンはこの主人公が大好きらしい。

 懷天フアイティエンはDVDのジャケットを摘まみ上げ、しげしげと眺めた。以洋イーヤンの好みはこの主人公のような、ちょっと落ちぶれた感じの刑事なんだろうか? それとも単純にヒーロータイプの男性が好きなのか?

 派手なアクションシーンが多い割に、うまくまとまっているいい脚本の映画ではあった。しかしこういったやたらと大げさに主人公を活躍させるタイプの作品は、懷天フアイティエンの趣味ではない。

 とはいえ、所詮は映画だ。以洋イーヤンが好きな作品だというなら別にそれで良かった。

 エンドマークに辿り着いたディスクを取り出してケースにしまい、イジェクトボタンを押してトレイを引っ込めたところで、以洋イーヤンが小さく身じろぐ。どうやら目が覚めたらしい。懷天フアイティエンはそっと以洋イーヤンの頭を撫でた。

「起きたの?」

「うん……あれ? 僕、また寝てた……?

 慌てて以洋イーヤン懷天フアイティエンの膝の上から身を起こす。目を擦りながら時計を見た以洋イーヤンはそこでようやく、自分がまたもや開始十分で寝落ちしたことに気付いたようだった……。

「彼は結局、娘を助け出せたのかな……」

 溜め息を吐いた以洋イーヤンが漏らした言葉に、懷天フアイティエンは笑いだした。

「君はそもそも、その女の子が誘拐されるシーンにも辿り着いてないよ」

 何かの呪いでも掛かっているかのように三日間連続でこの映画をラストまで見られなかった以洋イーヤンは、なんとも不思議そうな顔で頭を掻いている。

「……いいや……寝よ……」

小陸シァオ・ルー

 やがてぼうっとした顔のまま立ち上がって部屋へ戻ろうとした以洋イーヤンを、懷天フアイティエンは呼び止めた。目を擦りながら振り返った以洋イーヤンに、優しく声を掛ける。

「怖いなら今夜も寝においで。今夜は何もしないから」

 きょとんとしていた以洋イーヤンの顔が、次の瞬間真っ赤に染まる。昨日の晩に何があったかをどうやら思い出したらしい。

 もごもごと答えるや否やすたこらと部屋に逃げていってしまった以洋イーヤンを、苦笑して懷天フアイティエンは見送った。その気はなかったがどうもまた以洋イーヤンを脅かしてしまったらしい。

 DVDケースを片付け、リビングの電気を消してシャワーを浴びにいく。部屋に戻った後、三十分間待ってみたが以洋イーヤンがやってくる気配はなかった。

 三日目になるともうそんなに怖くなくなったのかも知れない。そう思って懷天フアイティエンも寝ることにする。眼を閉じた懷天フアイティエンがうとうとし始めた時、かすかな音が聞こえた。

 何かがぶつかったような音だ。

 瞬時に目を開け、懷天フアイティエンは耳を凝らした。

 しばらく経ってみてもそれ以上は何も聞こえてこない。それでも安心できず、立ち上がって以洋イーヤンの部屋へ向かい、軽くノックしてみる。

 なんの反応もない。

 何か聞こえてこないか更に待ってみた後、少し考えて懷天フアイティエンはそっとドアを開けてみた。

 以洋イーヤンの姿がベッドにない。呆気に取られたが、よく見ると以洋イーヤンは部屋の隅に縮こまっていた。頭のてっぺんから足の先まで、上掛けにすっぽりとくるまった状態で。

 苦笑しながら懷天フアイティエン以洋イーヤンの前まで足を進め、しゃがみ込んだ。怖がらせてしまわないよう、そっと声を掛ける。

小陸シァオ・ルー?」

 ぶるぶると以洋イーヤンが震えているのが、上掛けの上から見てもわかる。懷天フアイティエンの声が耳に入るまでにもしばらく掛かったようで、だいぶ経ってからようやく以洋イーヤンが上掛けの中から顔を覗かせた。

 懷天フアイティエンの顔を目にした以洋イーヤンが、そのまま縋りついてきそうな表情を見せる。それでも、泣きだしそうなのを明らかにこらえているくせに、以洋イーヤンはまた上掛けで顔を隠してしまう。

 この子は、本当に俺に迷惑を掛けたくないんだ……。本当に……。

 溜め息を吐いた懷天フアイティエンは、上掛けごと以洋イーヤンを抱き上げた。そのまま自分の部屋へ連れていく。

 ベッドの上に以洋イーヤンを下ろし、そのまま抱き締めた。上掛けにくるまっているせいで以洋イーヤンはいつもより一回り大きくなっているが、それでも簡単に懷天フアイティエンの腕の中に収まってしまう。

「言っただろ? もう何もしないから、怖かったら寝においでって」

「うん……」

 上掛けから半分だけ顔を出した以洋イーヤンが、聞こえるか聞こえないかの声で答え、少しだけ懷天フアイティエンは語気を強めた。

「そんなに怯えてるのに、なんで俺のところに来ないかな? 俺の方が幽霊より怖い?」

 以洋イーヤンが更に顔を引っ込めながら、それでも首だけは力いっぱい横に振っている。

「ならつまり、俺に迷惑を掛けるんじゃないかと心配だったってことだよね」

 以洋イーヤンに気付かれないよう懷天フアイティエンは溜め息を漏らした。

 上掛けからほんの少しだけ覗いた以洋イーヤンの頭が頷いているのが見える。

「君に迷惑を掛けられるのが嫌なら、そもそも一緒に住もうなんて言わないさ」

 僅かに口調を和らげてそう言いながら、そっと以洋イーヤンの背中を撫でてやる。上掛けの上からだったが、それは以洋イーヤンに伝わったようだった。

 すっぽりと以洋イーヤンを包んでいる上掛けが少しだけ開かれ、以洋イーヤンの手がそこから伸びてくる。抱きついてきた以洋イーヤンを、懷天フアイティエンもただ抱き締め返した。

 体温の高い以洋イーヤンの身体は、まだかすかに震えている。

「なんでそんなに怖がってるの? どんな幽霊相手だって怯えることなんてこれまでなかっただろ? その幽霊、君に危害を加えてきたの?」

 頬にキスを落としてからそう訊ねると、以洋イーヤンの首がまた左右に振られた。具体的になんらかの害があったわけではないらしい。

「なら、なんで怖いの?」

 懷天フアイティエンには本当にわからなかった。この子は全く幽霊が怖くないのだとばかり、懷天フアイティエンは思っていたのだ。

 長い沈黙の後、以洋イーヤンがようやく口を開く。

「前は……ずっと怖かったんだよ。春秋チュンチウと会って、幽霊とコミュニケーションが取れるんだってわかって、それからだんだん怖くなくなったけど……。でも、今回の幽霊は、何がしたいんだか全然わかんないんだ。……話もしようとしないし、暗がりに隠れてるだけで。だから……、僕もどうするべきなのかが全然わからないし……」




 それに……死んだ時の彼の顔が、頭の中から離れない……。

 そこまでは以洋イーヤンは口にしようとしなかった。自分はただ勝手に、実際にはまだ何もしていない幽霊を相手に、怯えているだけだ。これ以上、懷天フアイティエンに心配を掛けたくはない。そこまでの役立たずになりたくはなかった。

「君と話そうとしない幽霊か。なら、君の方から話し掛けてはみたの?」

 懷天フアイティエンの問いに、以洋イーヤンは呆然となる。話し掛けたことがない、とは完全には言えない。怒鳴りつけたことなら二度ある……。なんの反応も得られなかっただけで。

 曉甜シァオティエンが以前言っていた。以洋イーヤンが好きにしゃべっているだけでも、どんな幽霊も以洋イーヤンの言うことに耳を傾けずにはいられなくなるのだと……。なのに、どうしてこっちからあの幽霊に事情を訊いてみようとしなかったのだろう?

 少し考えてみただけでも、その方が事態は好転しそうな気がする。以洋イーヤン懷天フアイティエンに頷き返した。

「うん……。明日、僕の方から話し掛けてみる……」

 懷天フアイティエンが小さく笑みを浮かべる。

「俺は単に疑問に思っただけだよ。……俺は君たちの関わってる世界のことはよくわからないし、何のアドバイスもできない。でも、君が本当にそんなに怖いなら、別にそんなことしなくても」

 その言葉には以洋イーヤンはきっぱりと顔を上げた。

「試してみる。あの人たちを助けたいっていうのは、僕がもう決めたことなんだ。僕のすぐ傍に……落ちてきたんだから、何かそういう縁があったのかも知れないし……」

 ただし、どう考えてみてもそれがいい縁だとは思えないが。

「とにかく……まずはもう一度話し掛けてみるのが一番だよ……」

 顔を顰めながらもそう口にし、以洋イーヤン懷天フアイティエンの胸に頬を押し付ける。もうこれ以上、面倒なことを考えたくなかった。今はただ、懷天フアイティエンの鼓動を聞きながら眠りたい……――――。




 ――――……苦笑しながら懷天フアイティエン以洋イーヤンを胸に抱き寄せた。

 どうやら今夜も自分は眠れそうにないらしい。




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