第二章(1)以洋、ピーナツバターサンドを作る

 翌朝、以洋イーヤン懷天フアイティエンの手で揺り起こされた。まだぼうっとしている間に頬に軽くキスをされた、ような、気がする。

 懷天フアイティエンがベッドから下り、バスルームへ行ってしまった後で、ようやくはっきりと目が覚めてきた以洋イーヤンは、昨夜眠る前の出来事を思い出して真っ赤になった。ベッドから飛び出し、身支度をざっと整えて台所に飛び込む。

イエ家に戻って夏春秋シア・チュンチウに会うなら送っていくよ? 彼に見てもらえばもしかするとこの状況はなんとかなるんじゃないか?」

 朝食の後、出勤しようとしていた懷天フアイティエンに不意にそう言われ、以洋イーヤンは若干考え込んだ。

「ん~、それもそうかも……」

 昨日の自殺が自分の目の前で起こった、のは、別に自分のせいじゃないはずだ。……ということは、何やってんだと春秋チュンチウに怒られることもないはずだ。

「じゃあ……ちょっと帰ってみるよ」

「送っていくよ。急いで準備して」

 笑顔の懷天フアイティエンにそう言われ、大急ぎで以洋イーヤンは用意を始めた。

 少しだけ懷天フアイティエンに待ってもらった後、一緒に玄関を出る。車に乗り込みシートベルトを締めて何気なくバックミラーに目をやった以洋イーヤンは、危うく心臓が口から飛び出しそうになった。

 無意識のうちに懷天フアイティエンの手に取り縋る。

 大きく息を吸い込んでから後部座席を振り向いた以洋イーヤンの手を懷天フアイティエンが引き寄せ、安心させるようにぎゅっと握ってくれた。

「どうしたの?」 

 振り返った後部座席には何もいない。

 これは以洋イーヤンにとって不可解な事態だった。

 状況だけ見れば、春秋チュンチウに出会う前とほぼ同じだ。あの頃、以洋イーヤンはいつも幽霊に取り巻かれ、ちょっかいを出され続けていたし、それに怯えて昼も夜も不安の中で過ごしていた。

 でも、死者達と交流ができるようになった今は、もうそんなことは起きないし、怯えることもないと思っていたのに。

「君が何をしたいのかわからないけれど、言いたいことがあるなら言いなよ。そんな風にしてないでさ」

 いい加減腹が立ってきて、空っぽの後部座席に向かって以洋イーヤンはそう声を掛けた。

 以洋イーヤンのその行動に懷天フアイティエンは何も言わず、ただ以洋イーヤンの手を力強く握っていてくれる。

 しばらく待ってみたが後部座席には何の反応もなく、ますます以洋イーヤンは腹立たしくなってきた。

 この手のいじめっ子みたいな幽霊に会うのは実に久しぶりだ。更に気にくわないのは、なんで自分がこんな奴に脅かされてあんなに怯えなければならないのかということだ。

「怒らない怒らない。生きた人間にだって悪い奴がいるんだから、幽霊ならもっとそうだろ?」

 懷天フアイティエンがそう笑い飛ばしてくれる。

「うん……」

 なんとか笑みを浮かべて頷き、シートベルトがきちんと装着できていることを手早く以洋イーヤンは確認した。

「よし、急ごう。でないと遅刻しちゃうでしょ?」

「心配ないよ。今日は遅れても問題ないから」

 笑ってそう答えた懷天フアイティエンが、車を道に出す。

 イエ家に向かう途中、あの幽霊がまた現れないかどうか、以洋イーヤンはずっとバックミラーを睨んでいたが、相手が姿を見せることはなかった。以洋イーヤンが怒ったのが効いたのか、それとも単にあの幽霊が今はふざける気分でないのか、どっちだろう?

 以前に葉冬海イエ・ドンハイが言っていたことを以洋イーヤンは覚えている。人をからかう幽霊は、単に楽しんでいるだけであって、別に本気で人を傷つけようとしているわけではないのだと、冬海ドンハイは言った。

 でも……脅かされた相手が死ぬほどショックを受けているのを見るのはそんなに楽しいんだろうか? ……以洋イーヤンはそうは思わなかった。

 例えば楊君遠ヤン・ヂュンユエンの後輩の女の子、彼女の幽霊が出た時だって、以洋イーヤンは別に彼女を怖いと感じたことはない。それはあの後輩がそもそも人を傷つけようとするような人ではないとわかっていたからだ。

 そして、大叔父さん……。大叔父さんの霊が求めていたのは、以洋イーヤンの命だった。以洋イーヤンが恐怖を覚えたのはそのせいだ。

 なら、あの自殺者の幽霊は? あの幽霊が以洋イーヤンを傷つけたいと思っている感じはしない。それでも自分はあの幽霊のせいでこんなに怯えている。

 以洋イーヤンは重要なポイントに気付いたような気がした。

 あの幽霊が怖いのは、あの幽霊が何をしたいのかが、以洋イーヤンにまったく伝わってこないからだ。

 あの幽霊は、以洋イーヤンとコミュニケーションを取ろうと試みてもいない。以洋イーヤンの方も、相手が何をしようとしているのか、全く感じ取れない。春秋チュンチウに出会って以降、こんなパターンは初めてだった。

 しかし、それはいったいなぜなのか? それがまったくわからない。

 考え込んでいる間に、車はもうイエ家のビルの前に停まっていた。

「あ、着いたね、ありがとう」

 笑顔で懷天フアイティエンに礼を言い、車から降りる。そこでふと思い出し、以洋イーヤン懷天フアイティエンを振り返った。

「夜は帰ってきてご飯食べるでしょ? 午後に買い出しに行く予定なんだ」

「うん。何事もなければ七時前後には帰るよ」

 懷天フアイティエンも微笑んでそう答える。

「うん、じゃあ夜にまた」

 笑って手を振った以洋イーヤンは、懷天フアイティエンの車が走り去るのを何歩か後ろに下がって見送りながら、急に気分が前向きになってくるのを感じた。カードキーを取り出し、エレベーターで二十四階に上がる。

 家に入ると、春秋チュンチウは結跏趺坐で瞑想中だった。邪魔をしないよう荷物だけそっと置き、急いで台所に滑り込む。

 ちょうど冬海ドンハイがトーストにピーナツバターを塗ろうとしているところだったので、以洋イーヤンは慌てて叫んだ。

「ストップ!」

 一瞬呆気に取られた顔になった冬海ドンハイが、次の瞬間笑いだす。

「帰ってきたのか」

「ピーナツバターなんて食べないでよ。すぐにに朝ごはん作るから待ってて」

 手を洗い始めた以洋イーヤンを見て、冬海ドンハイも大人しくピーナツバターを置いた。

「ピーナツバター食べたいって春秋チュンチウが言ったんだよ」

 笑ってそう言った冬海ドンハイが、ダイニングチェアを引いて腰を下ろす。

「そうなの? じゃ、それも作るね」

 八面六臂の勢いで以洋イーヤンは朝食を作り始めた。




 春秋チュンチウが瞑想を終えてやってくる頃には、既にテーブル一杯に朝食が並んでいい匂いを漂わせていた。

 スクランブルエッグにベーコン、焼き立てのフレンチトースト、それからジャムとピーナツバターとバターを挟んだ三層のサンドイッチ。

「なんでこんな朝早く来たんだ?」

 以洋イーヤンが差し出したミルクティーのカップを受け取りながらの春秋チュンチウの言葉に、以洋イーヤンは乾いた笑いを漏らす。

「あ、ははは……なんにもないけど顔が見たくなって」

 そう言いながら春秋チュンチウの皿に、スクランブルエッグとベーコンを以洋イーヤンは取り分けた。それにぐさりとフォークを突き立てた春秋チュンチウが、食べながら以洋イーヤンを横目で睨む。

「今度は何をやらかした?」

「やってないって……。あれは僕のせいじゃないし」

 口を尖らせ、考えながらそう答えを補足した以洋イーヤンに、春秋チュンチウの眉が吊りあがった。憂鬱な気分で以洋イーヤンは口を開く。

「昨日自殺した人がいて、その人が落ちてきたのがちょうど僕のすぐ後ろだったんだよ……」

 冬海ドンハイが驚いた顔になった。

「昨日、ニュースでずっとやってたあれか?」

「うん……それで驚いちゃって……。人が死ぬところって今まで見たことがなかったんだよね……」

「大丈夫だよ。忘れちまいな」

 ダイニングチェアの上で膝を抱えた以洋イーヤンの頭を、苦笑した冬海ドンハイが撫でてくれる。しかし春秋チュンチウは眉間に皺を寄せた。

「お前、その自殺者の霊を見たのか? その場で?」

「その場では見てない……。けど……ずっとついてきてるって気がするんだ。ただ、姿が見えなくて」

「お前に見えない幽霊? そんなことあり得るのか?」

 冬海ドンハイも訝しげな顔になる。

「その幽霊、何かしたか?」

「うん……ううん、何もしてない」

 昨夜のことを思い出し、幾分気恥ずかしくなって以洋イーヤンはそう言い直した。それに自分が怯えたことなんて言いたくはない。

「単にそんな気がするだけ」

 ぽつりとそう付け加えた以洋イーヤンをじっと見つめた後、春秋チュンチウ以洋イーヤンの前に手を差し出した。

「手ェ貸してみろ」

 急いで以洋イーヤンも手を差し出し、春秋チュンチウに握らせる。そのまま目を閉じた春秋チュンチウはしばらく沈黙していたが、やがて手を離した。それからまた以洋イーヤンを見つめ、それきり意識を朝食の方に戻してしまう。

「見た感じなんともないな。なんか問題があったら、槐愔フアイインの奴に見てもらいな」

「うん……」

 どこか不機嫌そうに見える春秋チュンチウに、それ以上は以洋イーヤンも訊ねようとせず、椅子から下りた。

「リビングの掃除してくるね。ゆっくり食べてて」

「そんなに忙しくしなくてもいいんだぞ。俺も片付けるし」

「大丈夫だよ。ちょっと掃除するだけ。どうせ事務所にはそんなに急いで行かなくてもいいんだし」




 答えながらもうリビングの方へ行ってしまった以洋イーヤンの背から春秋チュンチウの方に目を移し、冬海ドンハイは小さく笑った。

「何に腹立ててるんだ?」

 春秋チュンチウがかすかに顔を顰める。

「あのチビ、何かに守られてる。俺にも全部は見通せないけど……。たぶん槐愔フアイインがあいつにやったんだろ。あの手のもんには俺は手出しできねえよ」

「あいつのことを守ってくれてるものがあるなら、それでいいじゃないか。あいつが槐愔フアイインについてくって言った時、行ってこいって言ったのはお前じゃなかったか?」

「……だから俺はなんにも言ってねえだろうが……」

 笑いながら冬海ドンハイに突っ込まれた春秋チュンチウは、そう吐き捨てて鬱憤を晴らすようにサンドイッチにかぶりついた。

「俺も掃除を手伝ってくるよ。せっかく帰ってきたのに忙しく働かせてちゃ悪いだろ。お前も食べ終わった後はあいつとしゃべってるといいよ」

 立ち上がった冬海ドンハイ春秋チュンチウの顔に軽くキスを落とし、リビングへ行ってしまう。

 一人になった春秋チュンチウは、以洋イーヤンが身に着けているものが一体何なのかに思いを馳せた。自分ですら、それが何なのかを見抜けないなんて。

 しかし、それは絶対に以洋イーヤンを守るはずだ。それは確かだった。

 だったら少なくともあのチビの命は心配しなくていいってことだよな……。

 むっつりとした顔で、春秋チュンチウは朝食の残りをまた食べ始めた。

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