第一章(2)以洋、千樺に遭遇する

 大安分局署のロビーの椅子に腰を下ろした以洋イーヤンは、ようやく落ち着きを取り戻しかけていた。熱いお茶の入ったカップを持っている手はまだ少し震えているが、身体の怪我の方はほんのかすり傷だけだ。

 大体の事情を以洋イーヤンが途切れ途切れに説明するのを聞いていたおじさん警官も、同情の目を以洋イーヤンに向けている。

「家の人に迎えに来てもらうかい?」

 そう言われて以洋イーヤンは左右に首を振った。

「実家は新竹シンヂューなんです……」

 それに、お母さんにショックを与えるのも嫌だ。

「じゃあ学校関係とか友達とかで、君を迎えに来れる人は? なんなら誰かに車で送らせるけど」

 穏やかな目でこちらを見ているこのおじさんは、たぶん自分のことを大学生くらいだと誤解しているんだろうなと以洋イーヤンは思った。でなかったら、自分がよほどショックを受けているように見えるかのどちらかだろう……。

 少し考えた以洋イーヤンは、どうせ警察署にいるんだしと思い付いて、その名前を口にした。

「あの……、だったら高懷天ガオ・フアイティエンさんを呼んでいただけますか? 刑事課のガオ課長さんです」

「あれ? 君ってガオ課長の親戚だったの? なんだ、さっき言ってくれればよかったのに」

 びっくりした顔で以洋イーヤンを見たおじさんが受話器を取り上げ、内線電話を掛け始める。

「ええと、親戚ってわけじゃなくて、ガオ課長の……友人なんです」

 ぎごちない笑みを以洋イーヤンは浮かべた。自分達の関係をどう説明すべきなのかわからない。

「ありゃ、そうですか、席を外している」

 電話の向こうにそう確認して受話器を置いたおじさんが、以洋イーヤンに何か言おうと口を開きかけたタイミングで、ふとその視線を以洋イーヤンの後ろへと逸らした。以洋イーヤンの背後にいるらしい誰かに向かっておじさんが手を振る。

ウェイ室長、ガオ課長がどこに行ったかご存知ないですか? この子、課長の友人なんですが」

 以洋イーヤンが振り返るのと同時に、背の高い男性も以洋イーヤンの方を振り向いた。

 実に綺麗な顔立ちをした人だ。身体にぴったりと合ったサイズのスーツを着用したその姿は、まるで男性向けファッション雑誌から抜け出してきたように見えた。

 以洋イーヤンの姿を目にしたその人が笑顔になる。自分に向かって歩み寄ってきたその人の顔を、ぽかんとして以洋イーヤンは見上げた。

「わかった、君、陸以洋ルー・イーヤン君だろ?」

 にこやかに手が差し出される。

「初めまして。魏千樺ウェイ・チエンホアと言います」

「あの、初めまして。陸以洋ルー・イーヤンです」

 慌てて椅子から立ち上がり、以洋イーヤンは握手に応えた。

「話は聞いてるよ。……ほんとに、あいつが言ってた通りだね」

 そう言いながらも魏千樺ウェイ・チエンホアの表情には、どこか意外なものを目にしたような色があった。上から下まで以洋イーヤンを眺めた魏千樺ウェイ・チエンホアが口を開く。

「引ったくりにでも遭ったの?」

「違いますよ。飛び降り自殺があったんですが、墜落地点がちょうどこの子のすぐ傍で。押し潰されなかったのは幸運でしたよ」

 ぼろぼろになっている以洋イーヤンの状態からそう当たりをつけたらしい魏千樺ウェイ・チエンホアに、おじさん警官がそう説明してくれ、以洋イーヤンはどうにか笑みを浮かべた。

 思い出したのだ、この「ウェイさん」が誰なのか。懷天フアイティエンが以前に言っていた「恋人関係だったことは一度もない」その人だ……。警察大学の、同期生……?

「何事もなくてよかったよ」

 慰めるように千樺チエンホア以洋イーヤンの肩を叩いてくる。

高懷天ガオ・フアイティエンは今日の午後は警察学校に行ってるんだ、後輩たちへの講習でね。署へは戻ってこないはずなんで、俺が送っていくんでいいかな?」

 大慌てで以洋イーヤンは首を横に振った。

「いいですいいです。自分で帰れますから。身体の方はなんともないんで」

 この人に世話を掛けたくはない。立ち上がった以洋イーヤン千樺チエンホアとおじさん警官の二人に向かって、もう一度深く頭を下げた。

「お手数お掛けしました」

 千樺チエンホアもそれ以上は言わず、以洋イーヤンを玄関まで送らせるだけにしてくれる……――――。


 ――――……遠ざかっていく以洋イーヤンの後ろ姿を見送った後、手にファイルを持ったまま千樺チエンホアはつぶやいた。

「子供みたいだって言ってたのは、なるほど見た目が子供っぽいってことか……。てっきり性格の方かと思ってたよ……」

ウェイ室長? 何か?」

 意味ありげなその言葉に、以洋イーヤンの相手をしていた初老の警官が怪訝そうな顔を千樺チエンホアに向けてくる。

「なんでもないよ。先に上へ戻る」

 軽く笑ってみせ、千樺チエンホアはその場を離れた。




 以洋イーヤンの方も、千樺チエンホアのことを考えていた。

 想像してたより、もっと綺麗な人だった。……男の人だけど、綺麗、でいいよね……?

 しかし、なぜ懷天フアイティエンがあんな綺麗な人を選ばずに自分の方を好きになったのか、さっぱりわからないというのが以洋イーヤンの本音だ。

 あの若さで室長になってるんだから、超エリートだよね? それに背も高くて身体つきもすらっとしてかっこいいし。なんであの二人、恋人同士にならなかったわけ……?

 分局署の玄関を出る前、ドア脇の鏡で自分の姿を見てみる。

 う~ん、ほんとにずたぼろだ。思いっきり道に倒れ込んだし、その後はあれだし。服もズボンも真っ黒だよ。おまけに顔も手も汚れてる。大怪我はしてないけど、擦り傷なら二、三箇所はあるもんなあ。

 しょんぼりと以洋イーヤンは溜め息を吐いた。

 せめて、ウェイさんとの初対面は、清潔な状態の時に会いたかったよ。懷天フアイティエンが僕のことをウェイさんに言ってたなら、なおさら懷天フアイティエンに恥掻かせたくはなかったのに……。

 とぼとぼと分局署を出た後、タクシーを拾って帰宅する。今日する予定だった買い物をしていないことに気付いたのは、疲れた身体を引きずって熱いシャワーを浴び、着替えて擦り傷の手当ても終えてからだった。

 ぼんやりとリビングに座り込み、あの時の状況を思い返してみる。目の前に横たわっている死体の双眸を見た途端、まるでそこに吸い込まれたようになり、屋上にいると思ったらそこから飛び下りていた。

 あれはたぶん、自殺したあの人物の記憶だ。死の瞬間を追体験したんだ。

 けど……、どうしてそんなことに? そりゃ、前にだって小宛シアオ・ワンが殺された時の状況を体験したことはあるけど、あの時は意識してやったんだし、今回みたいに無理矢理引きずり込まれるような感覚はなかった。

 他人の過去の経験に無理に引きずり込まれるっていうなら……、イエン助教授の時のあれがあるけど、でもイエン助教授はまだ生きてる人だし。

 ソファの上で小さくなって膝を抱え込む。重要なポイントはどうして自分がこんなにも怖いと思っているのかがわからないということだった。

 小宛シアオ・ワンが死んでしまうあの一瞬を追体験した時だって、同じくらいに怖かった気がする。けどあの時は槐愔フアイインが助けてくれた。だから、あの時どれくらい怖かったかの記憶は残ってない……。

 ぼうっとしている間にかなりの時間が経っていた。家の中が暗くなってきたことで我に返り、以洋イーヤンは急いで立ち上がって明かりを点けた。そして振り返った時だ。ふと目をやったベランダに面した掃き出し窓の中を何かが――人影のようなものが、過ぎった気がした。

 心拍数が一気に跳ね上がる。息を殺しながら背中を壁に張り付けた上で、以洋イーヤンは家の中にそろりそろりと目を走らせた。

 室内には何もいない、そう確認してからようやく息を吐く。ふと横を見ると、關帝かんてい様の像がいつも通りにそこに祀ってあった。なんとなく可笑しい気持ちになりながら、以洋イーヤンは關帝様に近付いて線香を供えた。

「僕って役立たずだなあ……」

 時計の針はそろそろ懷天フアイティエンが帰ってきそうな時刻を指している。冷蔵庫に何が残っているかを見ようと台所に向かった以洋イーヤンは、冷蔵庫に貼ってある在庫のメモを眺めながら、また今日のことを考え始めた。

 どうして今日、あの人の霊が見えなかったんだろう……? あの人は死んでしまったのにどうして……。

 冷蔵庫を開けようとして、ふと、背後に何かがいるような感覚に駆られる。ごくりと以洋イーヤンは唾を飲み込んだ。

 冷蔵庫の取っ手を握っている手に、うっすらと冷や汗が滲み始める。呼吸が浅く早くなるのを感じながら、以洋イーヤンが思い出したのは春秋チュンチウに出会う前の自分だ。あの頃は毎日いつだって、こんな恐怖の中で過ごしていた。

 もう怖がったりしなくなった、そう思っていた。なのに、なぜ……、どうして自分はまだ恐怖を感じているんだろう?

 視線をかすかにずらし、横を見る。さっき焼香したばかりの關帝様の姿を視界に入れ、以洋イーヤンは深々と息を吸って勇気を奮い起こした。

 さっと後ろを振り返る。

 そこには何もいない。きちんと片付けられた食器戸棚が一つある以外、何もない空間だった。

 ほっと息を緩めた後、床に座り込む。膝を抱えると、なんとも言えない憂鬱とやりきれなさが襲ってきた。

 今生きている人間が目の前で死んでしまう、そんな光景を目にしたのは以洋イーヤンにとってこれが初めてだ。

 あの時、あの人の口は、まだかすかに開いていた。いったい何が言いたかったんだろう……?

 どんな風な絶望があの人を、あんなに少しの躊躇いも未練もなく、あそこから飛び下りさせたんだろう?

 警察署であのおじさん警官に、飛び下りた人の名前を聞いておけばよかった。もしかしたら……、もしかしたらあの人の霊を助けてあげられたかもしれないのに……。

 そう考えると、なんだかそんなに怖くもなくなってくる。そもそも一日中幽霊を目にしている状態なのに、いったい何がそんなに怖いのか、以洋イーヤンは自分でもわからなくなってきた。

 大きく息を吸い込んで立ち上がり、冷蔵庫の在庫メモを改めて確認する。今夜は手の掛からない料理を複数作ることに決めた。どうせ何を作ったって以洋イーヤンの料理したものなら、懷天フアイティエンはいつだって美味しいと言ってくれる。

「チャーハンと……それから、……白菜炒めと……」

 メニューをつぶやきながら、以洋イーヤンはメモに書かれた在庫の上に線を引いていった。

「んー……やっぱり、ポークハンバーグの残りの種で肉団子作って、獅子頭シーヅトウ入りの白菜のとろみあんかけにするのがいいや」

 時計を見るとまだ時間がある。冷蔵庫を開けて、使う材料を取り出した後、少し考えてから以洋イーヤンはリビングに行ってテレビのスイッチを入れた。

 流れているニュースはちょうど、午後のあの自殺に関するものだ。モザイクは掛かっていたが、布の下からはみ出した手がちらっと映っていた。

 だが、それを目にした瞬間、フルスピードで地面に向かって落下していくあの感覚がまた甦る。慌ててソファの肘掛に摑まった以洋イーヤンは、床に腰を下ろしてからリモコンでチャンネルを次々に変えていった。

 ニュースチャンネルをどの局も片っ端から一瞬でやり過ごし、いつもなら見ないバラエティチャンネルに変わったところでようやく止める。

 荒い息を吐きながら以洋イーヤンは画面を見つめた。芸人たちの笑い声と、大げさな効果音。番組を盛り上げるための音声が、逆に以洋イーヤンを落ち着かせてくれる。

 リモコンを放り出し、以洋イーヤンは台所に駆け込んだ。料理に専念することで午後の出来事を忘れようと、決意を固めて。




イエン助教授と小宛シアオ・ワンについてのこのエピソードは第二巻本編に出てきます。

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