2.

 

 

 


 空から降りてくる光を頭に感じた。しばらく立ち尽くしていると、暖かさが肌の奥まで伝わってきた。三月。長袖シャツ一枚をひどく頼りなく思い、灰色のカーディガンを羽織っていたけれど、電車の中は熱と湿気がこもっていて息苦しかった。

 休日の昼間、地元からの上り電車は予想よりも混んでいた。まだ東にある太陽は窓辺から差し込み、自由の利かない人たちを執拗に照らす。座席でまぶしそうに本を読んでいた人が窓のブラインドを下げて、僕の頬から温もりが消えた。本は再び読み始められる。書店名の描かれたブックカバーは真新しい。窓の外ではごうごう音を立てながらビルが次々と通り過ぎていった。目的の駅に到着し、ホームに降りて、久しぶりに空気を肺の奥まで入れた。都会の空気と地元の空気。良し悪しはあるのだろうか。実感としてはそんなに違わない。違うのは人の密度。到着と発車を告げるアナウンスの連なり。識別できない景色。ここは兄の暮らしていた街だ。

 二月にフィリピンを襲った津波は多数の被害者を出した。日本人の被害者が五人いて、彼らのプライバシーが暴かれていったところがピーク。その五人の中に兄はいなかった。冬が過ぎて春が来る。ニュースはもう切り替わる。卒業式のときにはもう誰も津波の話をしなかった。お祝いムードを自分から壊すほどの度胸もなかった僕は、誰にも兄のことを言わなかった。兄が死んだという確証はない。しかしまだ、兄からの便りは一度も来ていない。

 兄の暮らしていたアパートは、父と一緒に探したものだったらしい。兄は父と同じ大学に通うことになり、父が昔を懐かしみながら親身に相談に乗っていた、という話を赤く目を腫らした父から聞かされた。家主が返ってこないまま、一か月が経ったアパートの部屋は、僕が引き継ぐ。いつ兄が帰ってきてもいいようにする。聞きようによっては束縛されているようだけれど、僕は反発はしなかった。僕の通う大学からは電車で二十分。近くはないけれど、地元から通うよりはマシだ。何より僕だって兄の帰りを信じたかった。

 死体も見つかっていないし、葬式だって挙げられていない人の喪失を実感するのは難しい。生きていると言い張れば生きているような気がする。そのように言い張ることが、まだ許されている。少なくとも今のところは誰も否定してくれない。

 アパートへと向かう道は、蛇行した上り坂だった。坂の名前が刻まれた細長い御影石の前で、ジャージを着た青年たちとすれ違った。適度なタイミングで酸素を取り込む手続き的な息遣い。ジャージの背中に兄の通っていた大学名がローマ字で印字されていた。陸上部のようなものだろうか。大学にはサークルがあるらしい。それが高校における部活動と同質のものなのか、僕は詳しくは知らなかった。兄とそのような話をする機会もなかった。あの走っている人たちの中に兄の失踪を知っている人はどれくらいいるのだろう。兄と同じ大学の人が僕の家を訪ねてくるということは今まで一度もなかった。

 ジャージのランナーが折り返してくる前に脇道に逸れ、複雑な起伏を歩いていく。誰も乗っていない高級車のそばで回収され損ねたらしいゴミ袋が山になっていた。坂道が終わり、次の坂道が始まる窪地に、兄のアパートはあった。水色の壁に濃い赤の屋根をしている二階建ての建物だ。螺旋を一回だけ描く看板は、白い塗装がはがれて黒い鉄の下地が見えていた。父から預かった合鍵は苦も無く兄の部屋の錠を捻った。

 玄関の真正面に六畳間がある。熱を持った藺草の匂いに面食らう。南側に窓があり、年季の入ったエアコンが無言で構えていた。西側の壁際に折り畳み式の机とパイプ椅子がある。机の右脇に本を詰め込んだカラーボックスが二つ並び、その右壁には細い扉があって、開けてみてクローゼットだとわかった。畳みの真ん中には楕円のローテーブルがある。コップが何度も置かれたらしい跡がついていた。実家にある兄のテーブルにも同じ跡があったことを思い出した。

 思ったよりも片づいている。それが最初の印象だった。使う当てのないものがあったらどうしようかという想像は杞憂だった。小さなキッチンもあり、背の低い冷蔵庫の中身は何も入っていなかった。怖いくらい真新しい。何も捨てなくてよいようだ。クローゼットにある衣服は取り出して圧縮袋に詰めよう。計画が具体的な像を結ぶ前に畳に腰を下ろした。歩き疲れた足の裏がじんわりと熱を持っていた。

 今日は下見だった。実際に暮らし始めるまでは時間がある。高校を卒業して、大学生になる前。今の僕の身分ははっきりしていない。僕はやがて兄と同じ大学生になる。そしてもしかしたら兄が帰ってこないまま、僕は社会人になるかもしれない。行方不明の大学生の兄を持つ社会人。それはとても嫌な想像だった。

 窓からは青空が見えている。駅前では工事をしていたけれど、重機や電動工具の音も遮断されている。静かだった。人の気配もない。

 中学生の頃、兄はよく友達を家に誘ってきた。そのようなときの兄は、いつも声が変に強張っていた。居間のテレビでゲームをしているときに、まだ小学生だった僕が割り込むと、誰よりも兄が不快そうな顔をした。僕はもやもやしたものを抱えたまま自分の部屋に戻る。夕方になり、兄の友人が帰っていくと、兄は自分の部屋に籠る。食事の時間に出てきた兄はやつれた顔をしていた。こちらが兄の本当の顔だろうと、子どもながらに察していた。

 大学に近いというのも暮らしていた理由だろう。そしてそのうえで、この静けさも兄の好みに合っていると思った。兄の全てを知るわけではないけれど、この畳の部屋で静かに胡坐をかいている兄の姿を想像することは難しくなかった。

 無意識のうちに、僕の右手は畳の上に爪を立てていた。それは今の僕の癖だった。右手が短くなったあの日から、僕の右手は常に縋りつく何かを探していた。



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