希望、園児。そのに

 一階のリビングに着くと、床に下ろされた。四本足の食卓や椅子を抜けて、掃き出し窓の方へと向かう。掃き出し窓がある面の角に設置された僕の部屋へと入る。プラスチック製の柵の中が、僕専用のスペースだ。僕専用のご飯皿に、僕専用のトイレ、僕専用の布団が敷かれている。しかし、この部屋の中で眠る事は、ほとんどない。喉が渇いていたので、舌を素早く動かし喉を潤す。そして、用を足した。

ノゾムと一緒に二階へ行ったので、ママが迎えに来てくれたのは、ナイスタイミングであった。僕は、階段を駆け上がる事は出来るけれど、下る事ができないのだ。色々、切羽詰まった時は、二階の階段の上で、声を張って迎えに来てもらう。小さい体から生える四本の脚は、あまりにも短いので、顔から転げ落ちそうで怖いのだ。小さな体ではあるが、なかなかに骨太だ。それでも、階段を転げ落ちるのは、きっと痛いだろうから、絶対に嫌だ。チャームポイントの大きな目玉が、飛び出してしまうかもしれないからね。ちなみに、体を覆う毛は、白色が多くを占め、所々に薄い黒色がまだら模様に入っている。なかなかにお洒落で、僕的には非常に気に入っている。まだ、弟妹が小さかった頃に、お隣のシベリアンハスキーという犬種のシュートが、僕はシーズーという犬種だと教えてくれた。シュートがカッコイイ系なら、僕は可愛い系だと自負している。

 そんな愛くるしい僕だけど、この後、弟のノゾムにブチギレたのであった。リビングのソファの上で、妹のノゾミとスキンシップをはかっていた。すると、ふと二階にいるノゾムの事が気になった。いつもは、怒られても暫くするとケロッとしているのだが、一向に下に降りてこない。キッチンにいるママに視線を向けると、夕飯の準備をしていた。僕は、ノゾミの手から離れて、階段を駆け上がった。階段を上がって、すぐ右にある部屋が子供部屋だ。扉は少し開いていた。安全面を考慮してか、子供だけでいる時は、扉を閉めてはいけないというママのルールがあった。そのルールに関しては、ノゾムはきっちり守っていた。偉いぞノゾム。そう思ったのも束の間、僕は小さな隙間から顔を突っ込んで愕然とした。

 ノゾムの衣服が収納してあるタンスが全て開いており、床には衣服が散乱していたのだ。僕が茫然と眺めていると、ハッとしたノゾムがこちらを振り返った。

「なんだ、ホップか。ビックリさせないでよ」

 驚くのも無理もない。ママに見られたら、激怒してしまう光景が広がっている。僕がノゾムに歩み寄り、顔を上げて眺めていると、彼は更にシャツを引っ張り出して床に投げる。

「お気に入りのシャツが着たいんだけどさ、見当たらないんだよ。ホップ知らない?」

 どうして突然、お気に入りのシャツを着たいと思ったのかは分からない。そして、僕には、ノゾムのお気に入りのシャツがどれなのかも分からない。そもそも、色の判別は苦手だ。ああ、このままでは、またノゾムはママに怒られてしまう。

「いつもホップだけずるいよね? 怒られるのは、いつも僕だけだ。贔屓だ贔屓」

 ノゾムは、シャツを投げながら、ぶつくさ言っている。そもそも、怒られるような事をしているノゾムが悪いのだ。僕は、怒られるような事は、もうしない。確かに、小さい時は、クッションをボロボロにしてしまったり、あちこちで用を足していて怒られたりもした。でも、僕は、もうそんな事はしない。ちゃんと学習して、成長しているからね。ノゾムに卑怯者扱いされるのは、酷く心外だ。僕は、ノゾムのズボンの裾を噛んで、引っ張った。

 またママに怒られるから、服を片付けなさい。

 しかし、どれほど、裾を引っ張ってもノゾムは、言う事をきかない。それどころか、邪魔するなと足を振って、僕を振り払おうとしている。すると、不貞腐れたような表情を浮かべていたノゾムは、何かを思いついたように目を輝かせた。ノゾムは、突然座り込み、周囲に散ったシャツをかき集めた。おお、偉いぞノゾム。そう思ったのも束の間、ノゾムはシャツを僕に着せてきた。首穴を頭から通し、両腕を通す穴を僕の前足から通す。シャツを着た僕を眺めて大笑いすると、その上から二枚三枚とシャツを重ねて着させてきた。五枚六枚と進むにつれ、体はドンドン大きくなる。そして、とうとう着ぶくれして、身動きが取れなくなった。当然であるが、サイズ感が合わないので、僕はギリギリ顔だけを出したダルマ状態だ。ノゾムはケラケラ笑っている。それでも、ノゾムは強引にシャツを重ねようとしてくる。頭を通し、体を持ち上げ、すっぽりシャツに包まれる。それでも、ノゾムは無理やり僕を歩かせようとしたのか、腕の穴に手を入れてきて、僕の腕を強引に引っ張る。その時、力の入れ具合を誤ったようで、腕に痛みが走った。反射的に僕は、甲高い悲鳴を上げた。その後、怒りに任せて怒鳴り声を上げた。歯を剥き出しにして、噛みついてやろうと思った。僕の威圧を察知したのか、ノゾムは引きつった顔で、手を引っ込めた。

 暫く、ノゾムを睨みつけていると、彼の表情が見る見る内に青ざめていった。ドスドスと乱暴に階段を上がる音が聞こえてきたからだ。僕の声を聞きつけたママが、勢いよく部屋にやってきた。

 室内の惨状と僕の哀れな姿を見たママが、一瞬で沸点を超えたのが簡単に分かった。ママは急いで僕の体から、シャツを引き剥がしてくれた。重いし熱いし最悪の状態から、解放されて助かった。僕を抱き上げたママは、謝りながら僕の体を撫でてくれた。

「ホップが服が着たいって言ったんだよ! だから、僕は仕方なく・・・」

「あんなにも沢山着たいって言ったのか?」

 ママが怒りを懸命に堪えているのが、容易に理解できて、僕は縮み上がった。我慢して押さえているが、それでも怒気が漏れ出している。ノゾムは、俯いて僕以上に縮み上がっていた。

「望は、あんなにも沢山、服を無理やり着させられて嬉しいのか?」

 お腹を押さえつけられるような、低いママの声が響く。ノゾムは、懸命に頭を左右に振っていた。

「自分がされて嫌な事を、他の人にやってんじゃねえよ!」

「ホップは、人じゃないし・・・」

「ああ!?」

 ママのこんなにも歪んだ顔を見たのは、初めてだ。僕は恐怖のあまり、全身が震えた。僕の体の震えを察したママが、優しく全身を撫でる。

「自分よりも弱い者をイジメる奴は、最低だ。嘘をついたり、騙したり、誤魔化したり、人のせいにする奴は、大嫌いだ」

 ママは振り返り、部屋から出て行こうとする。抱っこされている状態の僕には、背後のノゾムの姿が良く見えた。ノゾムは、床に額をつけるようにして、泣き声をあげていた。ママは立ち止まると、ノゾムに背を向けたまま話した。

「今すぐに服を片付けなさい」

 部屋から出たママは、足の裏を床に叩きつけるようにして、乱暴に階段を下っていく。リビングのソファに僕を下ろすと、ノゾミが心配そうな顔で、ママと僕の顔を交互に見ている。二階からは、ノゾムの泣き声が響いていた。ママは、テーブルに腰かけ、頭を抱えている。僕がママの様子を眺めていると、ノゾミが僕を抱きかかえた。

「ホップ、何があったの?」

 ノゾミが、ヒソヒソ声で僕の耳に唇を寄せた。あんなにも怒っているママを見た事がない。僕は、ノゾミの顔を眺めた後、体を捻って、彼女の腕から抜け出した。ソファから降りて、椅子に座ったママの足元へと寄った。ジャンプする要領で前足を伸ばし、ママの腿に前足をかける。机が邪魔でママの表情は、分からなかった。ママの事が心配で眺めていると、クゥーンという鼻から息が漏れるような声が出た。

「はあ、やってしまった」

 ママは、テーブルに顔を伏せたままで、弱々しく呟いた。そして、顔を上げ僕を見たママは、優しく頭を撫でてくれた。

「ごめんね、ホップ。ノゾムの事をお願いしてもいい? なんてね」

 ママは、疲れ切った顔と声を僕に向けた。

「任せて!」

 僕は返事をして、ママから離れると、一目散に二階へと駆け上がった。背中には、二つの視線を感じている。

「ホップって、凄いよね。天才犬?」

「あ、ノゾミもそう思う? 私もそう思っていたのよ。さすがは、お兄ちゃん」

 ママとノゾミの声が聞こえ、僕は張り切って走った。階段を上り切って、右に曲がり、扉の隙間に鼻をねじ込む。すると、先ほどまでの惨状が嘘のように、部屋が片付いていた。ノゾムは、ママの言いつけを守って、散らばった衣服をタンスに戻したのだ。偉い偉い、ノゾム。床にうずくまって大号泣しているノゾムの傍へと歩み寄った。ノゾムの耳を舐め、寄り添うように同じ格好をする。暫くすると、ノゾムが僕の背中に顔を埋めた。僕の体に口を押し付けるようにして泣くから、振動が全身に伝わってきた。きっと、僕の背中は、ノゾムの涙とか鼻水でベトベトになっているだろう。

 僕も急に怒ってしまって、申し訳なかった。暫く、振動を感じていると、突然震えが止まった。そして、ノゾムの寝息が聞こえてきた。泣き疲れて、眠ってしまったようだ。僕は、一安心して、ゆっくりと大きな目を閉じた。

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