6. 反撃と喪失感

 紅茶の芳醇な香りと、カラフルでバリエーションに富んだケーキの甘い香りが鼻腔をくすぐる室内。高額な個室サービスを利用する本物のお嬢様の隣でケーキの毒見をしながら給仕を行う俺は、その真っ白な雪を思わせる令嬢からまた別の良い香りを感じていた。


 違う世界に生きているようなお嬢様と二人きりの個室なのだ。健全な高校男児ならドキドキするに決まっている。


 ただ、これは一種の夢みたいなものだ。俺は仕事として、彼女は客として。儚く過ぎていく、ありふれた一期一会。だからこそ満足して貰いたいし、全力でもてなしたい。


 そんな俺にとって、バイトを通してスキルアップしてきた紅茶の味を褒められることはかなり嬉しいことだった。毒見を終えたケーキに舌鼓を打ちつつ、ティーカップに薄紅色の唇をつけた麗しい少女が小さく微笑んでくれる。


 「このミルクティー、すごく美味しいです……。茶葉の香りもよく出ていますし、ミルクのバランスも私の好きな感じで。美桜みおが淹れてくれるものとは種類の違うおいしさですけど、どこか安心する味です」


 「気に入って頂けたなら幸いです。……一つ気になったのですが、その美桜という方は?」


 「あ、えっと、メイド兼私の教育係を務めてくれている使用人です。ずっと一緒なので姉みたいな存在ですね。ただ……」


 おおよそ予想通りの回答を、おそらく本人の顔でも思い出しながら、僅かに微笑みを添えて口にするお嬢様。姉みたいだというメイドの美桜さんとは仲がいいのだろう。しかし、言葉の最後は困ったような様子で口を閉ざしてしまった。


 お嬢様の箱入り具合を鑑みるとなんとなく理由が予想できてしまう。だが聞いてみないと本当のところは分からない。


 「ただ?」


 「……昔からそうなのですが、いつも距離が近くて……。えっと、最近そのスキンシップが煩わしくなってきたんです……」


 ……やっぱりね。教育係はちょっとダメな人なのかなって思ってたし。毒見しつつ間接キスのことを意識させてないとか、もうそれはその人がしたいだけということだ。


 いくら仲良しで長い付き合いでも、中学生ともなれば精神的に変化があって然るべき時期であり、周りの人間も付き合い方を考えなければならなかったりする。かくいう俺も思春期真っ盛りなので人のことは言えないが、今は一般論でもなんでもいい。困っているお嬢様を放っておくという選択肢はなかった。


 「お嬢様も年頃の淑女ですから当然のことです。お世話になっているため本人に強く言えないといったところでしょうか?」


 「はい……。おそらく私がそのようなことを伝えたら、最悪命を絶とうとするかもしれません……」


 至って真面目な表情で、冗談のようなことを言葉にするお嬢様。


 うん、それは一大事だ。どんだけ好きなんだよ、この子のこと……。


「随分とお嬢様のことを溺愛なされているのですね……。確かにそれは言い出しづらいかと思います。お嬢様が困っておられるのに、お力になれず申し訳ございません。ただ、お話を聞くことくらいであれば自分にもできますので、いつでも此方へお帰りになってください」


 「あ、ありがとう、ございます……」


 悩みを話すことができたためなのか、お嬢様は少しだけすっきりした表情で感謝を伝えてくれる。ただ、それを見た俺は申し訳ない気持ちになった。


 自分から聞いた相談事なのに次の来店を求めるようなことしか言えない。この仕事はそういうところが辛く、自分を浅ましい人間だと思ってしまう。


 胸の内にある思いを出さないように、笑顔を作って話を変えた。


 「さて、ケーキもまだ何種類か残っていますよ。次はどちらをお召し上がりになられますか?」


 「えっと、もう新しいものは大丈夫です。食べかけが残っていますし……。あ、でも一度出したものは他のお客さんに出せなかったりしますか?」


 不安げに揺れる瞳をこちらに向けて確認を取ったのは、彼女の真面目さ故だろう。こういう部分は世間一般のお嬢様のイメージとは違っているかもしれない。


 でもそこが愛らしいというか、このお嬢様の美点だと思う。


 そして彼女の言っていることは正しい。しかしその責任は俺にあるため、とりあえずそのことを伝えることにした。


 「そうですね。ですが今回は自分が判断を間違えましたので、お気になさらずお好きなものをお召し上がりください」


 「……それは金剛が残ったケーキを買い取るということですか?」


 どこか不満げなのは、言葉通りの結論に至ったためだろうか。俺としてはそこに問題はないのだが、お嬢様はそうではないらしい。


 まあどうであれ、それは事実であるため今の俺には肯定することしかできないのだが……。


 「はい。そうなりますね」


 「むぅ…… あっ、これなら―――――」


 (あれ、また嫌な予感が……)


 何か案が思い浮かんだといったように小さな手をポンっと叩いたお嬢様。どことなく不安になり、背中に冷や汗が伝った気がした。


 変化に乏しいながらも勝ち誇ったかのように、おそらく成長途中の小さな胸を張ってお嬢様感を全開に醸し出した感じの雪さん。どうしてそんな雰囲気に見えるのかは分からなかったが、何故か視線を離すことができず、彼女に従わなければならないような気にさせられる。


 「金剛、それはダメです。曖昧な注文をしたのは私ですし、執事の不手際に責任を持つのが主の務めでもあります。なので、この場にある全てのケーキは私が購入して、そのうえで金剛に食べて貰います」


 「……はい?」


 「持ち帰ると美桜が拗ねると思いますし、私では食べきれません。そうなるともう金剛が食べるしかないでしょう? 私だって食べ残しがよくないことは当然分かっています。執事が主に恥をかかせるようなことはしませんよね?」


 「……もちろんです。お嬢様の仰せのままに」


 先ほど感じた以上の圧に押され、思わず首が縦に動いてしまう。なまじ理屈が通っているだけに、断ることもできなかった。


 「よろしい。それでは口を開けてください。はい、あーん」


 「なっ!? あ、あの、流石にそれは……」


 「どうしたのですか? 『仰せのままに』と聞こえましたけど、執事に二言はありませんよね?」


 ニコニコと、無表情を取り繕うことなど忘れて迫ってくるお嬢様の右手。彼女が使っていたフォークに乗せられたケーキが眼前まで運ばれる。その鈍く光る切っ先で刺されてしまうのではないかと、お嬢様が纏った絶対的な雰囲気に本気でそう思った。


 そしてさらに、ケーキともう一つの甘い香りが嗅覚を刺激し、クラクラして意識が霞んでいく……。


 圧が、圧がやばいんだ……。それにどういうわけか俺が断れないように言葉を自然と選んでいる、だと……?


 驚愕とともに、パワハラを受けている使用人の気分になった俺。その心中はおかしなことになっていた。


 (え? なに? なんでこんなに楽しそうなのん? このお嬢様、俺であそんでいらっしゃいませんか? あ、でもこういう顔も可愛いというか、なんかゾクゾクして……)


 いや、いかん! このまま流されたら不味い気がする。何か大切なものを失ってしまうような、恐ろしい結末が待っているような予感がした俺は、なんとか抵抗することに成功した。


 「……そ、それはそうですが、自分にも立場というものが……」


 しかし、それも束の間。


 「ふふっ、貴方は執事で私はその主。わかりやすい立場ですよね? 男性は野獣と美桜から聞きましたし、すぐにお腹が減るのでしょう? 遠慮せず私のケーキを食べてください。ほら、あーん」


 なんとも言えない艶美な声音が、目の前の美少女から発されていることが信じられない。ただ、やはり彼女は箱入り娘であった。


 (くそっ、得意げなのに意味を間違えてるのがまた可愛いんだよな! ……あれ、でも確かに言われてみれば立場的におかしなことは何もないのでは? お腹もすいてるし、もったいないのは事実だ。お嬢様が与えてくれるものを無碍にすることもできない。一体俺は何を守ろうとしているんだ? 断る理由なんてどこにもないじゃないか……)


 微笑む白い小悪魔に、為す術もなく服従させられる。


 「……あ、あーん」


 フォークの金属的な冷たさが下に触れ、切り取られたケーキが口に押し込まれた。目の前には満足げな表情を浮かべるお嬢様。甘いはずのケーキは、何故かとても刺激的な味がした……。




 甘い夢でも見ていたのかというほど刹那の間に時は過ぎ、意識がはっきりしたときにはすべてのケーキが消失していた。


 残ったのは、どことなく甘い空気と、どういうわけか白い肌を真っ赤に染め両手で顔を覆い隠しているお嬢様。そして謎の喪失感と満腹感に不安を感じる俺の姿だけであった。


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