― 5 ―

 青葉は桜が好きだった。


 好きな桜の写真を見ずに、青葉はこの世からいなくなってしまった。

 もっと早く会いに行けたら、学校へ行く前に病室に顔を出していれば、もし青葉が桜を見たいだなんて言い出さなかったら……いや、青葉はわかっていて俺に頼んだのかも知れない。自分の最後の姿を俺に見せたくなかったから、わざと俺を遠ざけたのかもしれない。


 新学期が始まって、退院した青葉が隣にいて、俺に笑いかけて、たくさん話して……

 そんな未来はこなかった。


 俺の隣に、青葉はいない。


 通夜にも葬儀にも行かなかった。青葉の最後の姿も見る事が出来なかった。見られなかった。

 父親とは顔を合わせた事はないけど、青葉の母親はこんな不良の俺にも優しかった。年の離れた妹も、青葉の家に行くと何度も遊びをせがまれた。


「ようたくんとけっこんする~」

「ダメ~、葉太くんは私のだから」


 なんて、姉妹の会話がくすぐったかった。

 そんな青葉の大切な家族とも、あの日以降一度も会っていない。俺はまだ、青葉の死を認めていない。俺は青葉の死に顔を見ていない。

 まだ青葉は生きていて、約束の満開の桜を待っている。


「葉太せ……」

「青葉!」


 自分を呼ぶ声に、勢いよく振り返った先にいたのは瓶底ちゃんだった。

 そうだ、青葉がいるはずないんだ。

 いるはず、ない……?

 青葉の死を認めていた自分にショックを受けて、シャツの胸の部分を握り締める。そんな自分をごまかすように苦笑する。


「海斗は? 今日は一緒じゃないのか?」

「城跡に行ってます。最後の文化祭の作品を撮りに。葉太先輩も一緒にどうですか?」

「いや、ヤメとくよ」


 こんな事がなかったら話す機会なんてなかったけど、本当に感じのいい子だ。青葉の次くらいに。いつまでも瓶底ちゃんじゃ失礼だ。


「海斗に聞きました。葉太先輩、青葉さんのお葬式に来なかったって。写真は渡せたんですか? あんなに一生懸命だった……」

「あぁ、うん、もういいんだ。もう青葉はいないんだから」

「先輩ッ!」


 夏樹ちゃんに背を向けて頭の横で片手を振る。

 桜の咲かない季節に……青葉は桜が好きだった。






 

 桜子は桜が嫌いだった。


 青葉は桜が好きだった。城跡の一本桜が。そして、妹の桜子が。


「気づかなくてごめん。名字が違ったから」

「お姉ちゃんがいなくなった後、お父さんとお母さんが離婚したの。お姉ちゃんの病気のことでいつも喧嘩ばかりだったから」


 知らなかった。一度だけ青葉の家を遠巻きに見て、表札が変わっていた事にショックを受けた記憶がある。けど、引っ越しくらいにしか考えていなかった。まさかそんな事情があったなんて。


「私ね、病室で葉太くんを待ってたんだよ。お姉ちゃんと葉太くんの約束をこっそり聞いてたから絶対に来てくれると思ったのに、葉太くんは来なかった。お姉ちゃんが苦しそうにしてたのに、葉太くんを呼んでたのに、どれだけ待っても来なかった」


 桜ちゃんの言葉が俺の胸に深い深い大穴を穿つ。

 泣いていた青葉の両親。そこに桜ちゃんもいた。


「お姉ちゃんのお葬式の時だって、一生懸命探したのにどこにもいなかった。来てくれなかった。ただ側にいて欲しかっただけなのに」


 桜ちゃんの頬から光を湛えた雫が止めどなく滴り落ちる。


「ごめん……」


 桜ちゃんを真ん中に青葉と三人、柄にもなく繋いだ手を大きく振って、見上げた一本桜の前。飛び跳ねてはしゃいでいた、幼い桜ちゃん。青葉を亡くした桜ちゃんが縋る事が出来たのは俺だけだったかもしれない。それなのに、自分を守ることしか考えず、桜ちゃんの心を踏みにじったのは俺だ。


「ずっと葉太くんを恨んでた。憎んでた。それを忘れないように、髪をお姉ちゃんと同じ色にした。そんな私を見ても気づかない葉太くんは、やっぱり酷い人なんだって思った。お姉ちゃんが苦しんで死んだのは葉太くんのせいだって思いたかったの。だって、満開の桜が見たいねってお姉ちゃんに言ったのは私なんだから」


 泣き崩れる桜ちゃんを抱き締める。きつくきつく、その心の痛みを分かち合うように。

 桜ちゃんは俺の胸に額を擦りつけ、イヤイヤと首を振った。


「私がそんな事を言わなければ、お姉ちゃんは変なお願いをする事もなく、葉太くんとずっと一緒にいれたのに。最後も送ってもらえたのに。私のせいで大好きなふたりを傷つけた」

「桜ちゃん……」

「桜なんて綺麗じゃない。私は桜の死体だ。桜なんてなければよかったのに。私なんていなければよかったのに。大嫌い! 桜なんて大嫌い!」

「落ち着け!」


 俺の胸で大きく肩を弾ませる桜ちゃん。ヒクッとしゃくり上げながら、大きな目をしばたたかせて俺を見上げる。


「俺が青葉に渡せなかったその写真を何で持ってきたと思う?」


 縋るような目で俺を見つめ静かに首を振る。そんな桜ちゃんの肩に手を置き、俺は一本桜を見上げる。


「花弁は桜の死なんかじゃない。再生だ。葉桜を経て緑に染まる、新たな命の始まりだ。真夏でも、一面緑でも、満開の桜の写真が撮れるんだ。青葉は桜が好きだった。桜の花が、じゃない。桜が、好きだったんだ。そして桜ちゃんも……」


 青葉は自分の死を目前に、俺や桜ちゃんの幸せを願っていたのかもしれない。いや、そうじゃない。最後の最後まで戦っていたんだ。だから、桜ちゃんと一緒に満開の一本桜を見たいと願った。その果たせなかった青葉の想いは、今日、桜ちゃんに届いた。


「まだガキだった頃の俺が、もっと早くにこうしていれば良かったんだ。そうすれば、桜ちゃんがこんなに苦しまなくて済んだのに」


 後悔。いや今は、そんなものは不要だ。俺たちにはまだ、明日さきがある。


「青葉の影を追わなくていい。桜の花じゃなくてもいい。桜はいつだって満開になれる。桜ちゃんは桜ちゃんだ。けど、まぁ、似すぎていて、ドキドキする事は確かだけど」


 涙でクシャクシャになった桜ちゃんは目を丸くさせ、クスリと小さく笑う。

 しまった。落とし所を間違えたか?


「そう――だね。私はお姉ちゃんにはなれない。お姉ちゃんじゃない。おっぱいだってお姉ちゃんより大きいしね」


 そう言って胸を張る。涙で濡れた顔で。精一杯笑って。

 な、何、馬鹿な事を、おっぱいって……う、や、まぁ……イカン、異観、遺憾!

 何でこうも様にならないんだ俺は。

 そっぽを向いて頭を掻く俺にキュッと腕を回す桜ちゃん。


「ごめんなさい。私、本当はずっと桜が大好きだったの」


 知ってる。


「葉太くんのおかげでもっと好きになった」


 当然だ。


「葉太くんも」


 えっ!?

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