宮前和人 前編

小学三年から高校まではずっと野球漬けの日々。


それでも高校では控えの投手止まりで、満足な結果は残せなかった。


そのせいか大学では野球を続ける気にはならず、心にぽっかりと穴が開いた様な生活をしていた時、ボクシングの世界タイトルマッチをテレビで見た。


団体競技の経験しか無かった為、物は試しと最大名門と言っても過言では無い王拳ジムの戸を叩いた。


だが現実は思っていた以上に厳しく、このジムに在籍しているのはアマチュアでかなりの成績を収めた者か、移籍してきたプロ選手ばかり。


そして運が悪い事に近々大型新人と契約を交わすらしい。


しかも件の人物はまだ高校生で、インターハイを連覇しているスター候補筆頭だと言うではないか。


何でも、こうやってアマチュアの選手を大手のジムが買う事はよくあるらしい。


買うと言うと聞こえが悪いが、これはどちらの益にもなる話だ。


ジム側は看板選手を獲得でき、選手側は契約金という形で大きな収入を得る事が出来る。


そんな中にあっては、当然大学生で未経験者の俺が目を掛けられる事等ある訳も無い。


それでも腐らず続け、何とかプロライセンスを取得する所までは漕ぎ着けた。





「君、根性あるな。」


そう語り掛けてきたのは、数いるトレーナーの内の一人である竹内さんだ。


この人だけは最近ちょくちょく目を掛けてくれる様になってきた。


勿論メインで見ている選手が他にいる為、そちらが空いたらという話だが。


それでも最初に比べたら大した進歩だ。


そしてデビュー戦が決まる頃には、いつの間にか俺の事も一層目にかけてくれる様になっていた。


「宮前君は頭使ってて良いボクシングするな。これなら伸びそうだ。」


俺のサンドバッグ打ちを眺めながら、竹内トレーナーが語り掛けてくる。


経験が絶対的に足りていないのは分かっているので、何をやるにも状況や相手を想定して練習していたのだ。


他のプロ選手がスパーをしている時などは、彼らを視界に収めながら自分が向き合っているつもりでシャドーをしていた。


そんな姿を、どうやら見てくれていたらしい。


「才能があるかどうかなんてのは、それが分かるまで努力してからの話だ。」


そう言いながらミットを嵌めると、俺を促しリングに上げる。


そして軽快な音を響かせ叩く中で何度か頷くような素振りを見せた。


「君のパンチで一番良いのは左フックだな。これは良い武器になりそうだ。」


俺もそう思っていた。


というよりも、初めてスパーリングをした時に当たったパンチが唯一それだった為、これが自分の武器だと思い込み必死に練習した結果、こうして褒められる程度のものにはなったという訳だ。


「返しで打つ練習を重点的にしていこう。試合までには形になるだろう。」


試合までは後二か月程。


竹内さんは、その日から少しずつ俺を見てくれる時間が増えていった。





「こんな感じのメニューで良いんじゃないか?まあ、駄目なら自分で考えろ。」


減量等も初めての経験だったので竹内トレーナーに相談すると、驚いた事に管理栄養士の資格を持っているらしい。


それ以外にも、行政書士など法律系の資格も持っており、何故ボクシングジムのトレーナー業をやっているのか本当に分からない人だ。


恐らくそっちの資格で仕事をした方が稼げるのではないかと、一度聞いてみた。


「好きだからやっている。それだけだ。」


相変わらずの静かな口調で、淡々と返してくる。


「余計な事を考える暇があるなら練習しろ。それでなくてもスタートが遅いんだからな。」


静かな言葉の中に確かな厳しさがあった。


そして頭を切り替えた後、気合を入れ直しサンドバッグ打ちへと戻る。






迎えたデビュー戦。


相手は三戦して未だ勝ち星の無い選手、恐らく俺の実力に合わせて用意されたのだろう。


それでも緊張があったせいか、満足に力を発揮出来たとは言えず苦戦を強いられ、採点を待っている間は負けたかもしれないと心穏やかではいられなかった。


俺の勝利が告げられた時も、ジムの力で勝ったのではないかと思い少し気が沈んだ。





そして次戦、雪辱を晴らすと言ったら変な言い方になるが、そういう気持ちで臨む。


相手はデビュー戦で見るからに固くなっており、まるで少し前の自分を見ている様だった。


結果は、KОこそ出来なかったが文句無しフルマークの判定勝ち。


二勝目だが、初めて勝利の味を知った気がした。





「新人王戦、出るだろ?エントリーしといたからな。」


ある日ジムに赴くと、竹内トレーナーにそう告げられる。


「このトーナメントを勝ち上がれば、俺もこのジムの看板選手になれますかね?」


俺は地味な積み重ねをするのは得意だが、目立ちたいという欲も無い訳では無い。


いや、寧ろその欲が強いからこそ、畑違いのスタート遅れでもここまで頑張れているのだろう。


「無理だな。最低でも日本チャンピオンくらいにはならないと、注目はされないな。」


当然の言葉だった。


現時点で系列のジムに在籍しているタイトルホルダーは十人を軽く超える。


このジムだけでも日本王者二人、東洋王者一人、世界王者一人。


こうして見てみると、ここで目立つというのは果てしなく遠い道に思える。


だが俺が自分で選んだ道なのだから、行ける所までは行ってみたい。


そう意気込んで、トレーナーのミットに勢い良くグローブを叩きつける。


「ボディから上への返しが遅いな。だが、ジャブからフックへの返しは良い感じになってきた。」


俺のパンチをミットで受けながら、淡々と評価を下していく。


そしてその評価が今の俺の指針の全てだ。


良いと言われればそれを繰り返し、駄目だと言われれば修正して繰り返す。


その中で確実に磨かれている物はあるはずだ。






東日本新人王決定トーナメント一回戦


「今自分に出来る事をやれ。それ以上の事はやろうとするな。」


竹内トレーナーのその言葉を信じて、磨いてきたコンビネーションを軸に組み立てた。


すると最終ラウンド終了間際、プロボクサーとして初めてのダウンを奪う事に成功する。


練習してきたジャブで踏み込んでからの左フック。


それが相手のテンプルを捉え、フラフラとロープにもたれ掛かり倒れたのだ。


時間が足りず追い込めなかったため判定にはなったが、自分の中で何か大きな手応えを感じた一戦だった。





そして二回戦目の第三ラウンド、狙っていた自慢のコンビネーションが決まり、初のTKО勝ち。


「露骨に狙いすぎだ。馬鹿の一つ覚えだと先が続かないぞ。」


だが竹内トレーナーの評価は厳しいものだった。


俺にもその自覚は合った為、何も言えず溜息をつく事しか出来ない。





迎えた準決勝、恐らく今までで一番コンディションの良い状態だ。


体が軽く感じる。


好調を示すかの様に終始相手を翻弄し、優位に立ったまま最終ラウンドへ。


時計が一分を過ぎた辺りだった。


得意の左フックが決まり相手が垂直に腰から落ち尻もちを着くと、そのままレフェリーが手を交差したのだ。


(何だ今の…背中まで衝撃が伝わって………。今のを狙って打てれば…。)


その後トレーナーに感触を伝え、忘れぬうちに磨きを掛ける作業に没頭した。


そしてそれから三週間程が経つと、今までの俺とは一味違う快音がジムに響き渡る。


「うん。物になったな。これで勝負になる。次の相手、遠宮は強いぞ。」


その事は何度もトレーナーの口から聞かされていた。


何でも、とにかくジャブが凄いとか、今までの相手の動きをそれで悉く制してきたらしい。


竹内さん曰く、昔いた世界チャンピオンと同じ、瞬間握力の強い稀有なタイプではないかとの事。


見た目に惑わされず、適切に対応しろとお達しだ。


その表情から、今までの相手と比べても相当な強敵だと思われる。


だが、俺にも武器が出来た。


強敵相手でも通用するであろう自慢の武器が。







決勝の一週間前、高校の時の部活連中から電話があった。


「和人、お前ボクシングやってんだって?しかも次がトーナメントの決勝だって聞いたぞ。」


電話の相手は、元チームメイトでエースピッチャーだった男だ。


在学時代一度も勝つ事が出来ず俺が控えに甘んじた原因。


といっても別に恨んでる訳では無く、一番仲の良かった友達でもある。


「それ聞いてよ、次の試合にはあいつら引き連れて応援に行くからよ。良いとこ見せろよ。」


あいつらとは、同じ高校でチームメイトだった奴らの事だろう。


少し恥ずかしい気持ちはあったが、身が引き締まる様な気がした。


次の日、ジムである伺いを立てて見た。


「竹内さん、次の試合のファイトマネーなんですけど、チケットでもらってもいいですかね?」


「いいが、捌く当てはあるのか?」


「ええ。今回はちょっと、捌けそうでして。」


実は捌く当てさえあれば、現金よりもチケットの方が実入りが良いのだ。

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