第16話 狂人と幼女のファーストギグ

 俺の頭がパイナップル型のロケットみたいに青空へ飛び立たなかったのはクツアの真っ黒なスーツケースのおかげであった。まさに発射寸前ってタイミングで主人を守るカラスみたいに男に飛びかかって行ったかと思うと大鎌をホオジロザメみたいな牙でガシガシとかじり始めた。

 腕を食べた礼なのか大鎌をサトウキビと思い込んでいるのかは不明だが、とにかくチャンスだった。


 男は「おのれ! 人魔の使い魔め!」って言いながらスーツケースと格闘しているし、女はあわわしているし、今が好機と演奏を始めようとしたらばちが見当たらない。

 爪弾つまびきしようかとも考えたが砂浜に落ちた貝殻が目に入る。その貝殻はもうばちだった。俺にはね、ばちとしか思えなかったよ。きっと神様が砂浜の貝殻を全てばちに変えてくれたんだってね。感謝したよ。あるいは貝でいっぱいの砂浜にアーメン。


 それから俺は三回も深呼吸して波の音に耳を傾けながら『エリーゼのために』を弾き始めた。この曲は序奏からとても物悲しい。まるでこれから何かを失おうとしているような悲しさだ。失ったんじゃない。失おうとしているんだ。それが運命なのか、選択なのかは分からないけど、どうしようもない何かによって二つの存在は未来永劫に渡って切り離されてしまう。


 そんなことを思いながら曲の世界に入り込んでいたのに男も女もわーきゃーと五月蝿うるさい。気が付くとスーツーケースが男の頭を噛みちぎろうとしていて、女が牙に手を突っ込んで口が閉まらないように大奮闘している。俺の腕を噛み千切ちぎったぐらいだからスーツーケースの咬合力こうごうりょくは相当あるはずだけど女もこめかみをピクピクさせながら頑張っている。こんな場合に備えて女は日夜、身体を鍛えていたに違いない。努力は大切だなって改めて思う。


 男も女も砂まみれでとても演奏を続ける雰囲気じゃなかったのだけど、一度初めた演奏ってきっかけがないと止められない。切手蒐集きってしゅうしゅうみたいなものだ。有限なのにそれが無限に続けられるような気がしてくる。

 でも、もちろんそれは錯覚でどんなものにも必ず終わりは訪れる。

 今回の場合、

「めっ! めっ! めっ!」

 クツアの声がきっかけだった。

 振り返ると相変わらずカラスみたいな服を着たクツアが杖を振り回して「めっ! めっ! めっ!」と唱えていた。

 それはスーツケースに本来の自分を取り戻させる魔法だったのか砂浜に波音だけが残された。


「この人たち、だれ?」

 クツアは演奏のために正座していた俺の肩をぎゅっと掴み、そう尋ねた。

「観客さ。俺達『絵本を読むカラス』一座の初めての」

「でも、かまもってるよ」

 なるほど男は確かに鎌を持っていた。おまけに男の首と胴体は繋がっている。

 スーツケースとの戦いを何とか生き抜いた男は不撓不屈の精神で砂まみれの大鎌を拾い上げ再び不毛な戦いにその身を投じようとしているのだ。

 女は女で砂浜にへたり込み薬物中毒者のような青白い顔して震える目でクツアを見ている。

 まったく! こんな暑いぐらいに晴れ渡った海風が吹く午後の砂浜で男と女が旅芸人と戦う理由が俺にはちっとも分からないよ。

 けれど小さな顔についた団栗どんぐりのような目が俺から答えをせがんでいる。

 何か答えなければいけない――そんな気がした。

「海のせいさ」

 あるいは太陽のせいかもしれなかった。しかし、全ての可能性について言及するには人生はあまりにも短すぎる。だから俺はそれ以上、可能性について言及しなかった。

「ぶっころす?」

「客を殺してはいけない。この世界の全ての人は客だし、この世界の全ての猿もまた客なんだ。だから、人も猿も殺してはいけない。人でも猿でもないのはサフィニアだけだ。分かるだろう?」

 クツアは首を振った。この話をするのは八度目だったが彼女が頷いたことは一度もなかった。


「とにかく」俺は波の音に負けないように声を張って「演奏しようぜ」ってクツアに言った。

「えんそう? わたしできないよ」

「だったら踊ればいいさ」


 そんな風に話が纏まりかけていたところで「あっ!」とクツアが声を上げて前を指差す。

 何かと思えば男と女がすたこらさっさと逃げ出していた。


 どうするの?

 ってクツアが目で尋ねるので「捕まえよう!」って叫んだ。

 客を捕まえる――それは商売でとても大事なことだ。


 クツアが杖で『ごにょごにょ』するとスーツケースはまたにょきにょきと足を生やして男と女を追い駆け始めた。その後を俺達も追いかける。トルコ行進曲のような賑やかさに生命は躍動し、海はさざめき、大地はその身を焦がした。

 結局、五十メートル先で男と女はスーツケースに丸呑みされた。

「喰ったら駄目じゃないか!」

「だいじょうぶ、ごにょごにょ」


 するとスーツケースがぐわんぐわんと身体を液体のように揺らし始め、最後には鳥籠ドームになった。

 中で男と女が金糸雀カナリアみたいにわめいている。

「た、頼む、彼女だけでも助けてくれ!」

「うぅ……、もう駄目よ。駄目なのよ……。許されるはずないわ……」


 喚いている暇があったら、手拍子の一つでもするべきだと思った。

 けれど望み通りにいかないことで毎日は溢れている。

 だから俺は二人に向かってぐへへって笑って頭を下げた。

 そして、クツアにウィンクする。


「おどればいいの?」

「頼む」


 ベンベンと鳴らすと、物悲しいメロディーに鳥籠ドームは包まれる。

 長い長い時間を経てようやく俺達は鳥籠ドームで演奏するところまで辿り着いた。

 そもそも、クツアは最初は乗り気じゃなかった。

 それなのに!

 今はノリノリでラジオダンスしてくれている――八人、いや、もっと沢山に分身してカラスのように宙を舞ったり、カエルのように飛び跳ねたり、稲穂のように風に揺れたり、おまけに、海の水で作ったイルカを飛ばし、白い砂で作った稚児蟹チゴガニを踊らせて、哀しい音符の中を愉快に跳ね回っている。

 天才なんだよ。俺が見つけた旅芸人の原石。生まれながらの旅芸人――クツア・メイラシ!


 自然と涙が溢れた。最近は泣いてばかりだ。

 でも幼女が踊っているのに泣かない奴は塵具だからな。


 今は小さな鳥籠ドームに二人だけの観客だけど、いつかもっと大きな鳥籠ドームを観客で一杯にする――その時俺は踊るクツアの幼い背中に誓ったんだ。

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