第24話 幸福に潜む光と影➂

(1) 


 何度か小刻みに瞬きを繰り返した後目を覚ますと、ベッド脇に座るリカルドと視線がかち合った。彼の深いグリーンの瞳はひどく不安気に揺れている。

 いきなりドライジンの瓶を一本空けてしまったことで急性アルコール中毒を引き起こし、そのまま倒れてしまった、らしい。


 断酒の禁を破ってしまった上に、一歩間違えれば死んでいたかもしれない。


 自ら犯した二重の過ち。申し訳なさで余りにいたたまれない。リカルドから視線を逸らそうとした――、が、できなかった。


 リカルドがベッドに伏すミランダに覆い被さるように、彼女の身体を強く抱きしめてきたからだ。


「……良かった……。目を覚ましてくれて……」


 どうして、彼はこんな自分にどこまでも優しいのだろう。

 しかし、彼の優しさは今のミランダにとってどんな責苦を受けるよりも残酷な仕打ちでしかなかった。


  人から施しを受けたなら、対価として相応のお返しをしなければならない。

 例えば、自らの身体を差し出し、男の欲望を満たしてやる代わり、金を貰うように。


 人と人との関係性に置いて必ず等価交換が発生するーー、それは長年ミランダの中で培われてきた考えだ。

 その考え方に照らし合わせた場合、ミランダはリカルドから与えられてばかりで何一つ返せていない。


 再会するまでの十年間、自分が生きているかも分からないのに。リカルドは身を粉にして早朝から深夜まで働きづめで身請け金を貯め続けていた。

 一方で彼を捜そうともせず、ただただ己の不運を嘆いていただけの自分。挙句の果てにはアルコールに溺れ、身を持ち崩す体たらく振り。

 結婚後も、家事すらろくにこなせずリカルドに手伝ってもらう始末。

 

 だから、せめて子供を産むことで返したかったのに。

 それすら私には許されない。役立たずもいいところ。

 いっそのこと、『お前なんかもういらない』と打ち捨ててくれればいいのに。


 そうかと言って、リカルドの元から離れるのは何にも耐えがたく、到底できやしない。

 彼の優しさを辛いと思う癖に、別れるのは身を裂かれるよりもずっと辛いと思っているなんて。相変わらず狡くて汚い女。


「……ねぇ、何で私なの……」


 ミランダは、かつてダドリーに投げ掛けた同じ言葉でリカルドに問う。


「……どうしてこんな女ーー、若くもなければ美しさも失った、家事もできない、子供も産めない。アルコールに溺れて身も心も汚れきった女を、なんでわざわざ選んだの??」


 リカルドはミランダから身体を離すと再び彼女の琥珀色の瞳をじっと見据えた。深いグリーンの瞳には先程よりも一層悲壮感が籠っている。


 しばらくの間、リカルドはミランダの問いに答えようとしなかった。否、正確に言うと答えられずにいる。

 今度は視線を外そうとせず、ミランダは彼の瞳をじっと見つめていた。答えを今か今かと待ち詫びながら。


 その答えがどのようなものなのか、一抹の恐怖をひそかに胸の内に抱えながら。


「……僕自身、何で君を選んだのか、未だによく分からないんだ……」


 リカルドが、絞り出すようにして出した答えは、ミランダにとって全くの想定外の言葉だった。


「……もっと言えば、君を好きになった理由も未だにはっきりと分かっていないんだ。出会った当初は『こんな可愛くてきれいな子と知り合えたなんて、ちょっと幸運だな』くらいの軽い気持ちだったけど。君と接していく内にいつの間にか好きになっていて、気づいたら絶対に手放したくないと思うようになっていた。結婚してから君の良い部分も悪い部分も目の当たりにしてきたし、正直うんざりすることだってあった。喧嘩だっていっぱいしてきたよ。それでも……、もしもまた、君と離ればなれになってしまったら……、考えるだけで気が狂いそうになる。君の言う通り、君より若くてきれいで、家事もできて健康で子供を産める女性は星の数ほどいるだろうね。でもね……、僕はどうしても君じゃなきゃ嫌なんだ。その理由もよく分からないけど……、分からないからこそ一緒にいられるのかもしれない。……って、長くなった割にまともな答えになってなくて、ごめん……」


 項垂れるリカルドに、ミランダは力なく首を横に振ってみせる。

 不器用なりに、正直に吐き出してくれたリカルドの真摯な想いは、傷付く余りに閉ざされかけていたミランダの心にもしっかりと届いていた。


「ねぇ、ミラ。君はさ、僕にしてもらうばかりで何も返せていない、って、いつも僕に引け目を感じているよね??」

 ミランダは、少し間を置いてゆっくりと首肯する。

「それは僕も一緒なんだよ」

「……え??」


 リカルドは、フッと寂しそうに薄く微笑む。


「十四年前ーー、僕が感情に任せるまま、君とあの街から逃げようとして……、結果、君は十年もの間苦界で極限の生活を送る羽目になってしまった。そのことがね、僕は一生悔やんでも悔やみきれないんだ。だから、君のアルコール依存も……、その……、子供が産めないことも……、僕の責任でもあると思ってる」

「……それは違う!男爵からの手切れ金を使っていれば、いくらでも苦界を抜け出せただろうに、つまらない矜持のために意地を張って……」

「でも、最終的にはその矜持を曲げて、シーヴァを助けるために手切れ金を使い果たしたのだろう??しかも、後悔すらしていないよね??」

「……うん……」

「だったら、その話は持ち出しちゃ駄目だよ。それに、僕は君のその行動には尊敬すら抱いているしね」

「…………」

「ミラ。お互いに引け目を感じ合うのはもう止めにしよう。だから……、もっと僕に甘えてもいいし、言いたいことがあれば包み隠さずはっきり言って欲しいんだ。僕も君にもっと甘えようと思うし、きついことも言う時があるかもしれない。それが原因で、時には大喧嘩に発展するかもしれないし、君のアルコール依存や不妊の苦しみには逆効果になるかもしれない。そしたら……、またどうすればいいか、一緒に考えてくれないかな??君が僕を嫌にならない限り、これからも僕は君の傍にずっと居たいんだ。それだけは……、どうか信じて欲しい」


 リカルドは、掛布を少し捲り上げると、家事や水仕事ですっかり荒れてしまったミランダの痩せた手をぎゅっと握りしめる。

 ミランダは込み上げてくる感情を抑えきれずにはらはらと静かに涙を流し、枕を濡らした。


 彼の優しさで胸が痛いことには変わりなかったが、それ以上に、どこから湧き出でててくるのか分からない程、底なしの深い愛情に少しでも応えていきたい。


 少しだけ、ほんの少しだけ、真っ暗な絶望に支配されていた心に、一筋の小さな光が垣間見えた、ような気がしたのだった。

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