賀茂うみのは連れ回す

水門 海白

第1話 わたしの「好き」を汚さないで

 七月八日、月曜日。

 講義室の時計は十五時を指し、朝から上がっていく一方だった気温は、既に三十度に達していた。六十人以上の学生をさして広くもない部屋に詰め込んで、教育学の授業が行われている。多少は冷房が効いているとはいえ、人間の産熱が部屋中の空気を温めてしまい、講義室はちょっとした地獄であった。

 老齢の教授が「幼少期の生育環境とその後の性格の傾向」についてのろのろ二時間ほど話し続け、十七時頃。ようやく講義が終わり、大学生たちがぞろぞろと講義室から出てくる。マイクを通じて拡声され教室から漏れ出ていた教授以外の声が廊下に満ち始めたが、地面が揺らめくほど暑い中、窓外の蝉噪と人間の喧騒のコーラスを楽しむ学生は、当然一人もいない。


「うえ、十五分も延長しやがって、あのジジイ」


 誰に聞かせるでもない愚痴を吐きながら、神之川かんのがわ大学の三年生、弥生やよい冬葵ふゆきも講義室から出てきた。彼は名前の通り冬生まれであり、暑さにはめっぽう弱い。講義中から頬を流れ続けていた汗は廊下に出てもストップする気配はなく、むしろ冷房の効いた環境ではなくなったことで、汗の噴出する勢いには拍車がかかっている。

  真面目にも講義の間はマナーモードにしていたスマホをポケットから取り出すと、チカチカと緑色のランプが点滅していた。「着信がありました」という意味のサインだ。


 ホームボタンを押して画面を点灯させると「弥生なつめさんから1件の着信がありました(3分前)」というダイアログが表示される。冬葵はそのままスマホのロックを指紋で解除し、電話帳アプリから妹の弥生棗の名前をタップした。

 数コールの後、棗との電話が繋がった。周りの話し声が通話の邪魔にならないよう、口元を押さえつつ話し始める。


「もしもし? どうしたなつめ……」

『どうしたもこうしたもないよ! お兄ちゃん、定期!』


 挨拶を言い切る間も与えられず、電話の向こうの妹に叱られた。いつもながら騒がしい、もとい元気溢れる女子高生である。彼女の声の隙間から聞こえてくる若々しい騒ぎ声から察するに、教室でクラスメートがめいめいに会話を楽しんでいるのだろう。

 彼女の通っている青ヶ丘高校は、冬葵の母校でもある。近隣では聡明な生徒が集まる学校として有名だが、放課後の教室はどんな偏差値の学校でも大差あるまい。


「ああ、定期な。なくなって困ってたんだ。もしかして見付かったのか?」

『わたしの親切で素晴らしくて慈愛に満ち溢れた親友、こはるちゃんが見付けてくれたの! ほら、こはるちゃんに代わってあげるから、直接お礼言いな!』


 電話先から棗の声が途切れる。お節介な妹が、親友の桜戸さくらとこはるに電話を渡しているらしい。だが、すぐには相手が代わらず、微かに『大丈夫だってば、そんなの』『ほらほら、早く早く』といった押し問答が聞こえてくる。

 

『……もしもし? 冬葵センパイ?』


 数秒後、電話口から鈴のような声が聞こえ、おのずとこはるの姿が鮮明に思い出された。こはるは華奢で背も高くなく、いかにも「小動物系」の見た目をしている。「ぴょこぴょこ」といった擬態語が似合いそうな身振り手振りは、人畜無害なハムスターを連想させる。

 それとは異なり、棗を動物に喩えるならば「中型犬」がぴったりだ。身長や体格はこはると大差ないはずなのに、態度がやたら大きいだけでかなり印象も変わるものだと冬葵はいつも思っている。もちろん、実際にそれを口に出せば棗からどんな理不尽な暴力を振るわれるか分かったものではないから、絶対に言いはしない。


「ああ、こはるちゃん。定期届けてくれたんだってね。ありがと」

『い、いえ! たまたまですから! ……むしろ申し訳なかったです』


 こはるから謝罪され、冬葵は戸惑った。彼女から謝られるようなことはないはずだ。


「え? どうして?」

『実は冬葵センパイの定期を拾ったの、金曜日なんです。土日のうちに渡しておけば、今日センパイを困らせずに済んだんですけど、いろいろあって……』


 心優しい後輩に余計な気を遣わせてしまったようで、冬葵は少しいたたまれない気持ちになる。こはるには見えていない電話のこちら側で、彼は手を横に振り「気にしないでほしい」という意思表示をする。


「そんなの大丈夫だよ。見付けてくれただけでありがたいんだし」

『えへへ……。ともあれ、良かったです!』


 定期がなければ、家の最寄駅である川崎駅からキャンパスのある東白楽駅までの交通費、つまり往復七〇〇円ほどを損することになる。明日以降も自腹で大学に行かなくてはいけない悲劇は、こはるの活躍によって無事避けられた。


「じゃあ、なつめに代わってくれるかな」

『はい! センパイと直接おしゃべりできて嬉しかったです!』

「まぁ電話だけどね。お話したくなったら、いつでもウチにおいで」

『……! はい!』


 こはるはしばしば、親友の棗の家、つまり弥生家に遊びに来る。高校三年間ずっと同じクラスなだけに、彼女たちはとても親密だ。こはるが家に来る理由は明らかにクラスメートの棗であろうが、冬葵との会話も毎回楽しんでくれている様子なので、彼にとっても彼女の来訪は楽しみなイベントの一つだ。



     ☆     ☆     ☆



『……代わったよ、バカ兄貴』


 打って変わって、責めるような強い言葉が電話口から耳孔に向かって打ち込まれた。思わずスマホを耳から少し離す。


『だからスマホの定期券機能使いなよって言ってるのに。ちょくちょく忘れるじゃん、バカ兄貴』

「そうしたら、バッテリーが切れるたびに自腹も切れることになるだろ」

『えっと……。うまいこと言ったつもり? 盛大にスベってるよ』


 基本的に仲の良い兄妹だが、いざ言い争いになると、彼女の罵詈雑言からは「容赦」の二文字がなくなる。冬葵が口喧嘩で勝者になれるのは、せいぜい十回に一回だ。いや、もっと少ないかもしれない。


「うるせえ。まったく、なつめはこはるちゃんと違って、優しさの欠片もないな」

『ふーんだ。そんなこと言うなら、こはるちゃんを妹にすれば?』

「まぁそれも悪くないな」

『……あ、でも今こはるちゃんが『妹はちょっと……』って毒吐いたよ』

「マジか……」


 冗談のつもりで「売り言葉に買い言葉」をしたつもりだったが、当のこはる本人から真面目に拒絶されてしまい、想定外の毒舌に気持ちが少し凹む。電話の向こうから『そうじゃなくて……』というか弱い声が聞こえてきた気がしたが、棗の嘲笑が掻き消してしまい、あまり聞き取れなかった。


『とにかく、定期は家で渡すから。今日は大人しく自腹で帰ってきなさい』

「はいはい……。こはるちゃんによろしく伝えておいてくれ」

『了解。んじゃね』



     ☆     ☆     ☆



 電話が切れたので、スマホに付いた自分の汗を乱暴にTシャツで拭って、ポケットに戻す。


「帰りの電車賃、持ってたっけ……。いざ足りなくなったら、コウに借りるか」


 悪友、鮎喰あくいコウは理学部の学生だ。そのため、もしコウから金を借りることになれば、今いる人間科学部の講義棟から出て、他学科のエリアに行くことになる。ここから理学部の講義棟まではさほど遠くないが、根が省エネ人間の冬葵にとっては、ちょっと足を伸ばすことでさえも面倒だ。

 冬葵は肩掛けのバッグからミニサイズの財布を取り出し、中身を確認する。紙幣用のスリットには、千円礼が四枚、五千円札が一枚、無造作に入っていた。


「よし、余裕で帰れるな」


 安堵してバッグに財布を戻そうとした、まさにその時。冬葵は自分に向けられている視線に気が付いた。目の前に立っている女子学生が、上目遣いでこちらを見ている。

 柄がなくシンプルで真っ赤な半袖パーカー、長くもなく短くもないポニーテール。つり上がった眉にパッチリ見開かれた眼。

 一瞬、この革製のミニマリスト用財布に用事があるのかと思ったが、彼女の透き通った目は明らかに冬葵の顔を凝視していた。彼の視線も、真っ直ぐ向けられた女子学生の瞳に吸い込まれ、自然と見つめ合ってしまう。


「……どなた様?」


 得体の知れない赤パーカーの少女に、とりあえず冬葵は誰何してみた。

 

「あの」


 女子学生が声を発した。廊下は依然として騒がしいにもかかわらず、凛とした美声がしっかりと耳に届く。夏の人間たちのうきうきと浮ついた感情を凝縮した、日焼け止めの匂いが漂ってきそうな不思議な声が、とても慕わしく感じられる。冬葵にしては「夏も案外悪くないかもな」と、柄にもないことを思った。


「どうかしましたか?」

「好きです、付き合ってください。……ダメかな?」


 冬葵の発問からノータイムで、柄のない赤パーカーの女子学生は信じ難い一言を発した。予想の斜め上どころではない告白に、冬葵の脳は稼働を止める。


「……え? え?」

「ダメかな?」


 冬葵の動揺はそっちのけに、彼女は先ほどと同様、返答を求めた。


「いや、えっと、あのさ」

「うん」


 女子学生はキョトンとして首を傾げる。ぶりっ子と思われそうな、あざとい仕草すら似合ってしまうレベルに、彼女は美しかった。

 こんな美人にいきなり告白されるなんて、夢か、さもなくばドッキリか何かに違いない。そう勘繰って周囲を軽く見てみたが、カメラや野次馬の類は見当たらなかった。どうやら、この告白は「本物」らしい。


「気持ちは嬉しいんだけどさ。君、誰?」

「あっそうか、自己紹介しなくちゃだよね。私は賀茂かも海乃うみの。よろしくね、私の彼氏くん」


 彼女は当然のことを述べているかのような面持ちで、冬葵を彼氏だと呼びなす。

 インドアで消極的な冬葵にも「女の子に好かれたい」という欲求は人並みにある。しかも今は、いや生まれてこの方、彼女ができたことのない身だ。目の前の美しい少女が自分の恋人になってくれるという未来への期待に、胸が躍らないわけがなかった。

 だが、問題は「全くの初対面でいきなり告白をする」という、突拍子もない彼女の行動原理にあった。この一点を解決せずには、付き合うも付き合わないも決めかねる。


「賀茂さん、君さ」

「海乃って呼んで」


 きっぱりと言葉を遮られ、訂正された。有無を言わせない強制力を感じた。


「じゃあ、海乃さん」

「呼び捨てで」

「……海乃。君、不思議な人だって言われるでしょ」


 冬葵の指摘に、海乃は目を丸くした。きゅっと閉じられていた口角がくいっと上を向き、両腕をバタバタさせて喜びを表現し始める。表情にわざとらしさを感じないでもないが、「美少女にはどんな仕草でも似合う」という誰かの言を痛感し、冬葵は彼女の煌めく瞳と唇の隙間から覗く白い歯に見惚れるばかりだった。


「よく分かったね! さっすが彼氏くん、私のことなら全部お見通しなんだね! すごい!」

「誰でも分かると思うぞ。あと俺、まだ彼氏になるって言ってない」


 冬葵の一言によって、海乃の笑顔が硬直した。数秒後、表情筋が緩み始めたかと思うと、きゅっとつり上がっていた眉がへにょりと下がり、口は半開きになった。


「……嘘やん」

「嘘ちゃうわ。あとジブン動揺しすぎて関西弁になっとるで」

「ほんま? 最近まで大阪におったからやろか。……って、そうじゃなくて!」

 

 流石のノリツッコミだと冬葵が感心していると、パーソナルエリアという概念なぞこれっぽっちも知らないかのように、謎めいた少女はぐいと歩みを寄せた。女子に近付かれた時にふわりと漂う甘い香りを、鼻の利く冬葵はよく知っている。一説によれば女性の匂いは、男性を魅了し惑わせるフェロモンだそうだ。


「こんなのおかしいよ! どうして付き合ってくれないの?」

「いや普通、見ず知らずの女の人に告白されて、すぐOKしないから」

「……」


 海乃はあんぐり開いていた口を閉じ、冬葵に向けていた瞳を一瞬、右上の方に動かす。何かあるのだろうか、電波でも飛んでいるのだろうかと、つられて左上を見た。しかし、珍しいものは一つとして見当たらず、視線の先にはありふれた夏の木々が見える窓があるばかりだ。

 海乃は何かに納得したような表情で、真っ直ぐ冬葵の方を向き直り、下がった眉のまま言った。


「そっか。キミは覚えてないんだね」



     ☆     ☆     ☆



「冬葵、ナンパされてるのか」


 海乃の後ろから、もう一人の女子学生がニヒルな笑みを浮かべて近付いてきた。どこかミステリアスな彼女の名は「丸子まるこあきら」。冬葵と同じく人間科学部の学生で、一年生の頃からの友人である。

 英語か何かは分からないが、デカデカと「EUREKA?」と書かれた白いTシャツからすらりと腕が伸び、シンプルな銀一色のネックレスが細長い首を彩っている。ロングヘアがよく似合う、海乃とはまた違ったタイプの美人だが、ダウナーな雰囲気がたたってか、あまり誰かとつるんでいる姿は見かけない。


「そんなんじゃねえよ。……いや、そんなんなのかな」

「モテない男子らしく、無様に困惑してるねえ」


 哲は少しだけ愉快そうに、口元だけをにやりと動かした。仮面でも被っているのかと思ってしまうほど、哲はほとんど表情を動かさない。そんな仏頂面にすら親しみを覚えているのだろうか、海乃は沈んだような表情をぱあっと明らめ、笑顔で哲を会話の輪に無理矢理巻き込んだ。


「やっほー! あっちゃん! あっちゃんこそ、彼と知り合いなの?」


 どうやら哲は海乃に「あっちゃん」と呼ばれているらしい。本人には似合わず、やたら可愛いニックネームである。


「まあ、一年の時からの付き合いだ。海乃こそ、冬葵とはどこで知り合ったんだ?」


 モテなさそうな冬葵と、美少女の海乃。取り合わせが非常に奇妙だと感じたのか、哲はどこか楽しそうに興味を示した。


「ずっと前だよ!」

「いや、今この瞬間だと思う」


 海乃が自信満々に勝手なことを主張しているのを、冬葵はすぐに訂正した。


「……は? 今?」


 哲が微かに驚きの表情を見せた。と言っても、二年ほど友人関係を続けている冬葵ならともかく、普通の人からすれば、相変わらず仏頂面が続いているようにしか見えないだろうが。


「そう、今。海乃には悪いが、昔エンカウントしていたような記憶はないな」


 海乃は、また先ほどの両腕バタバタを始めた。抗議の意を示したいようだ。


「嘘だ! ずっと前に会ってるよ! なのに冬葵くんったら、完全に忘れてるんだもん。あっちゃんも酷いと思うでしょ?」

「それはかなりダメな男だな。だからモテないんだよ、冬葵は」

「そう! このままじゃダメ男だよ、冬葵くん! 絶対思い出してね! 自力で!」


 哲の同意を得た海乃は、ほら見たことかと言わんばかりに、頬を膨らませて冬葵を指さし、理不尽な命令を突き付けた。


「マジかよ……。欠片も記憶にないぞ。せめてヒントくれ」

「ヒントなんてありません! ふーんだ。あっちゃん、授業行こ!」


 海乃がくるんと踵を返すと、ふわりと長いポニーテールがたなびいた。

 流れるような動きで海乃は哲の腕を組んだが、即座に哲が一歩横に避け、拒否反応を示す。


「ひっつくな、暑苦しい。何月だと思ってんだ」

「もう! あっちゃんのいけず! でも二人とも好き!」


 膨れっ面をしているが、表情を見る限り、海乃はすっかりご機嫌に戻ったようだ。

 

「はいはい、早く授業行くぞ。レポートの期限近いんだからサボるな」

「りょーかい!」


「……結局誰だったんだ、あれ」

 冬葵は唖然としながら、一人、じりじりという擬態語が擬音語になってしまいそうな蒸し暑い廊下に取り残されていた。溢れ返っていた講義終わりの学生の群れはいつの間にかすっかり捌け終わり、そこには蝉が求愛する叫びが響き渡るばかりで、鳥の声さえ聞こえてこない。


「まあいいか。帰ろう」


 十秒ほど二人の背中をぼんやり見守った後、冬葵はやっと我に返り、講義棟の出口に向かってスタスタ歩き始めた。

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