「それで私をとってよ。そして――――」


 きみはあの時――――。


 …………。




 ――――かつて、ここは夢のなかだった。




 ポケットに手を入れて、人付き合いも笑顔を作るのも苦手で、でも、きみのことが本当に好きで、頭から離れなくて。今もそう。目を閉じて、足もとに芽吹く命を数えるたびに、ぼくはきみの隣にいる。


 生まれた町に線を引く小さな川。ぼくときみは日が暮れるまで土手に座り、夏の暑さに汗ばむことも気にせず、流れるままに時を過ごしていた。


 あの日もそう。


 あの日も、ぼくたちはここにいた。ぼくの首には祖父から受け継いだ古いカメラがぶら下がっていて。きみの髪は見たことが無いほど黒々と艶めき、陽を浴びてなお深碧の衣を纏っていた。


 川縁を走る風が、土手を撫でるように通りすぎていく。水面に溶けた優しい気温が、ぼくたちを飲み込んでいく。今でも憶えている……あの時きみは慌てて髪を押さえたんだ。その左手の指に絡まる黒い髪は、なびく姿が生きているようで、無邪気な子どものようで、なのに色気があって、思わず見とれて、それはまるでいたずらに舞う蝶のようで。ぼくは目が離せなかった。


 そして風がやむと、再びきみの左手は、ぼくの右手で羽を休める。そんな光景が、そんな時間が、ぼくの胸を染めていった。




 ぼくはそれを……その時間を、夢中とよんだ。




 あの日、きみを象る何もかもが眩しかった――――。


 夏の群青を写したデニムも、健康的なくびれも、ゆっくりと上下するまつ毛も。そして、ぼくたちの関係も……。


 きみの隣でカメラを構えて、息を吸って、そして吐いて、ただ意味もなく日常を切りとるだけなのに……ぼくの人さし指は震えるほどに、きみの全てにくぎ付けだった。


 あれはひと夏の現か、はたまた揺らめく蜃気楼が投影した夢か。


 ぼくの手を飛びたったきみは、一度だけふりむいて、風にのせて言ったんだ……。




「それで私をとってよ。そして……二度と放さないで」




 きみはあの時――――確かにそう言ったんだ。

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