葉桜の雨空

「春川さん」

「え? どう、して……?」


 六月の雨が木の葉を叩く休日の午後。

 公園の休憩スペースで独り天井を見上げている春川桜子に俺は声をかけた。 


「…………」

「…………」


 木造の屋根をタタタと雨が叩く音が響く。春川は突然の来訪者に身構えたが浮かしかけた腰は静止したままだ。


「……入っても、良いですか?」

「…………」


 逃げはしない。いきなり走りだして危ない目に遭ったりしないことが第一だけど、それ以上の動きもない。しばらく俺を見つめていた瞳は山吹色のメガネの下でコロコロと彷徨ってから、自分の膝で止まった。今日はジーンズではなくスカートだ。やがて、春川は俯いたままこくりと頷いた。


「ありがとうございます」


 傘を畳んでゆっくりと彼女の空間に踏み入った。



 § §



「降り続きますね」

「そうですね。一日中、雨です」

「せっかくの休日なのに」

「はい」


 雨脚が強いのか、それとも俺がモタついたせいか肩が随分と濡れていた。春川から少し離れて座りタオルで身体を軽く拭いているうちに傘の先から雨水がトクトクと床を流れ這ってゆく。ちょうどこの前とは位置が逆だ。距離は変わらないけれど。


「この公園、本当に好きなんだな」

「お母さんと来てましたから。いまは、よくわからないことで一杯になると……」

「そうか」


 今日はどうしてやって来たのか、なんて聞ける訳もないことを思いながら天井を見上げ雨音に耳を傾けた。座って聞く雨粒の音色はとても多彩だ。さっきまで五月蠅うるさく聞こえた屋根を叩く音は後ろへと下がり、木の葉や草、土をつつく音に交じってポチャンポチャンと水たまりの音色が耳をにぎわした。

 見ると春川も同じように雨音に耳を澄ませているようだった。

 やがてまばらだった雨音が切れ間なく頬を撫でて、俺達を世界から隠した。


「嘘の一粒も呑み込めないようじゃ、大人は恋のひとつも出来やしない」

「え?」


 踏み出す勇気はあの人から借りた。目を丸くする桜子に笑いかける。自嘲気味になってなきゃいいけど。


「今日はあのときの答えを聞いて欲しくて、会いに来た」

「……はい」


 春川は頷き、身構えはせずにこちらへ向き直った。

 

「全く差し障りのない恋愛、もっと言えば誰にも迷惑かけない恋愛なんて多分ない。大人になれば尚更だ」

「…………」


 身も蓋もない大人の言い分に途端にムッとする。


「子供に限らず家族だっている。仕事なんか絡むと完璧に条件の合う相手なんて、そうそういやしない」


 特別しがらみを抱えているわけでもない自分だってそうなのだ。もっと雁字搦がんじがらめの人は沢山いる。


「それでも人は恋をする。大人だって人を好きになるし、好かれたいって思う。それでいて、やらなきゃいけないことや守らなくちゃいけないものもある……だから」


 あの気持ちを貰えるのなら。与えることが出来るというなら。


「ズルをする。傷つけないように、傷つかないように。嘘をついたり隠し事をしたりして……な」

「大人でも、親でも、ですか……?」

「……なおさらだよ。誰も傷つけず、迷惑かけずに誰かを愛する方法なんて俺が教えて欲しい。教えて欲しかった」


 そんな星の下に生まれたような立派な人だってこの世にはいるんだろう。だけど俺はそうじゃないし、そうじゃないあの人を好きになったんだ。


「そうまでして、恋が必要、ですか?」


 拳を握りしめ怒る春川の姿は捨て猫の鳴き声のようにザラザラと心臓に触れる。


「無かったことには出来ないからな」


 それでも譲らない。譲れない。そんなことは俺には出来ない。


「忘れられない。良いことも悪いことも……あったけど、忘れたくない。どうしようもないくらいあの人が俺を俺にしてくれた。だから、下手くそでも俺は、俺を続けて……生きたいんだ。ズルくたって……」


 胸の内の自問自答を絞り出すようにシャツを握り絞めた俺の手に春川が手を重ねていた。その顔は悔しそうにクシャクシャに歪んでいる。


「そんなの自己満じゃない」

「客観的な評価だな」

「……お父さんも、そうなのかな?」

「それは保証しかねる」

「なにそれ……」

「俺は二十代の若造で教師の経験しかない。君が思う以上に世間知らずなんだよ」

「開き直り過ぎだよ、先生ぇ……!」


 俺の苦笑いに春川はクシャクシャの顔のまま笑い出した。



 § §



「……ムカつく」

「え? なんだって?」

「感想。ムカつく……以上です」

「大人にあそこまでぶっちゃけさせた感想がそれか……」


 重ねた手を春川が離す。すぐにでも二人が重なってしまう距離で唇を尖らせた彼女はふいっとそっぽを向いて立ち上がった。


「先生もお父さんもお母さんも……そんな楽しくて勝手な気持ちを隠して。こっそり楽しんで、普段はすまし顔なんてムカつく」

「……だから大人はどんどんズルくなるのです」

「汚い大人が開き直ってる」


 残念だったな、鈴木。いつだか言ってたお前の台詞も彼女には不評だったぞ。

 くたくたになってベンチに根を生やし始めた俺を尻目に春川は雨のカーテンへと歩み始めた。


「先生、雨降り続いてるね」

「ああ。今日はたぶん貸し切りだな」

「なんか、いかがわしい」

「春川さんはムッツリですね」

「……まあ、いいか。誰も、いないよね?」


 そう言ってキョロキョロ周囲を見回しながら彼女は雨のカーテンを潜り抜けた。


「おい、はるか――」

「ムカつくーー‼」


 俺の静止などお構いなしに春川は雨空へと叫びあげた。

 慌てて彼女を追いかけるが、カーテンの前でたたらを踏んでしまう。


「先生っ!」

「ちょっと、お前っ⁉」


 そんな俺の腕を春川の手が掴んで引っ張る。

 カーテンを抜ける。山吹色のメガネと濡れ踊る黒髪。鳴りやまない葉桜の雨空が拡がった。


「汚い大人を洗濯だぁ~‼」

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