春月の桜に君を想う

マスク・ド・ゆーゆー

第1話 月が綺麗ですね

 僕が住むアパートは、道路を挟んだ公園の向かいに建てられている。ここを選んだのは駅からの距離が近いという理由だけではない。窓から見える景色に惹かれたのだ。窓は世界を四角く切り取る絵の額縁だ。当然、その中に描かれているものは美しければ美しいほど良い。


 不動産屋に案内されてそのアパートを訪れたのは、冬の足音が聞こえ始めた十一月下旬のことだった。

 向いの公園はさほど目を惹かれる造りでは無かったが、夕日に照らされ赤みを帯びた銀杏紅葉いちょうもみじが道路沿いに並び、深まる季節を美しく彩っていた。

 よく見れば桜の木もあるではないか。不動産屋に聞くと、公園のあちこちにはソメイヨシノが植えられており、春には室内に居ながら花見が出来るのだという。

 僕はその言葉に背を押され、眺めの良い二階の部屋に住むことにした。


 冬には何度も雪が降った。葉の落ちた木々に降り積もる雪が、夜の静寂の中で月光を浴びて輝くさまは美しく、独り身の寂しさを忘れさせてくれた。


 春になると、窓から見える景色は桜色に染まった。それは予想通り、いやそれ以上の美しさであったが、花見をする恋人達に混じって公園をぶらつくのは何とも気恥ずかしく、僕は窓からぼんやりと桜を見物していた。


 月明かりの冴えた晩のことだった。僕は缶ビールを片手に部屋を出て、向いの公園へと足を向けた。時刻は深夜一時、辺りを歩くものは誰もいない。これで気兼ねなく貸切の花見が出来るというものだ。夜風は冷たいが、もう冬ほどでも無い。

 僕はベンチに座り缶を開け、ビールを喉に流し込んだ。

 窓から見える桜はどれも同じに見えるのだが、近づいてみればソメイヨシノだけでは無い事に気づいた。薄桃色の手毬のような桜が頭上から垂れている。花の重みでいるのだろうか。これは何という花だろう?と好奇心を浮かべた目をしながら手を伸ばすと、不意に背後から声をかけられた。


「おにいさん、こんな時間にお花見ですかぁ?」


 ビクリとして振り返ると、そこには若い女性がいた。派手なメイクと香水の匂い。露出過多の衣服。僕の苦手な、夜の世界の女性であることは容易に想像できた。


「コレはですねぇ、八重紅枝垂っていうんですよぉ。」


「ヤエベニシダレ?」


「そそ。八重紅枝垂。」


 彼女の口から出た言葉の意外さに正直驚いた。

 この派手な見た目の女性が、僕の知らない知識を持っていたからだ。


「へぇ、そんな名前なんですか。桜の木の下には死体が埋まってるって言いますよね。だから綺麗なのかな?」


 僕は精一杯の知識を出して彼女に対抗しようとした。ミステリーか何かのセリフだったかも分からない、うろ覚えの言葉だった。

 だが、続けて話す彼女の言葉が、僕の偏見に満ちた心を綺麗に砕いてくれた。


梶井基次郎かじいもとじろうですよね。おにいさん、物知りですねぇ。」


 屈託の無い笑顔で彼女は微笑んだ。

 返す言葉も持ち合わせていなかった僕は、手持ち無沙汰に缶ビールを一口飲み、桜を見上げた。まるで夜空から花のシャワーが降り注ぐかのような景色だ。彼女は当然のように僕の横に座ると、同じように桜を見上げた。


「ここ、私の特等席なんすよ。」


「あ、ごめん。僕、知らなくて。」


 卑屈な顔が、言葉の端に現れた。そもそも人と話すこと自体が苦手なのだ。僕は、まるで覚えたての日本語を話す外国人のように単語を並べて、ベンチから腰を浮かせた。逃げたかったのだ、この場から。


「いいんですよぉ、怒ってませんよ、別にぃ。逆に嬉しいんですって。この景色が好きなんですよねぇ?」


 僕は強引に手を掴まれて、ベンチに座らされた。冷えた手に移る彼女の温度に、思わず耳が赤くなるのを感じたが、酒のせいにして気付かぬふりをした。


 夜空を見上げると、降り注ぐ桜の枝の隙間から、小さな星が点々と見える。きっと彼女に聞けば、どれがどの星座かも答えてくれるだろう。僕に会話を続ける度胸があれば、それも良かったかもしれない。

 でも、夜桜を見上げて満足げな笑みを浮かべる彼女の横顔を見ると、頭の中の言葉は浮かんでは消え、やがて僕は同じように夜空を見上げた。


 いつの間にか、月が頭上に昇っている。まりのような桜を透かして、月の光が僕達を柔らかく照らしていた。美しい。窓から見るだけでは見えない美しさだ。ああ、世界はこんなに美しかったのか。

 僕は少し酔っていたのかもしれない。酒にも、彼女がかもし出す空気にも。つい、心の声が口から漏れ出た。


「月が綺麗ですね。」


 それを聞いた彼女の瞳がピクリと動くと、品定めをするかのような視線を僕の顔に向けた。


「死んでもいいわ?」


「?!」


 この女は何を言っているのか?自殺志願者なのか?そもそも会話になっていない事自体に、僕の思考は停止した。目も無意識に泳いでいた事だろう。そんな僕の挙動をニヤリとした顔で眺め、彼女はケタケタと無邪気な笑い声を上げた。


「有名な口説き文句ですよ、それぇ。夏目漱石が、アイラブユーを『月が綺麗ですね』って訳した事があるみたいなんですよぉ。」


 瞬時に耳どころか、頬まで紅潮した。隠しようがないほどに、恥ずかしさが表情から溢れ出てしまった。そんな口説き文句もあることを、何かで見聞きした事が確かにある。だけど、それを無意識に自分が使ってしまうなどとは思いもしなかったのだ。

 ああ、恥ずかしい。僕のような人間の出来損ないが見ず知らずの女性を口説くなどとは。恥ずかしさと後悔が身を焼き、声にならぬ声が身体の内から全身を掻きむしった。

 思考がぐるぐると空回りしている間にも、彼女は楽しそうに話を続けていた。


「で、二葉亭四迷ふたばていしめいがユアーズを訳したのが『死んでもいいわ』らしいんですよぉ。直訳すると『あなたのものよ』って素っ気無い言葉で、なんとも無粋ですからねぇ。」


 僕がうろたえているのが余程面白かったのか、彼女はまだ無邪気な顔を僕に向け、あまり上品とも言えぬ笑い声をあげていた。

 ああ、恥ずかしい。恥ずかしい。それこそ死ぬほど恥ずかしいのだけれど、僕はまだベンチに腰掛けている。なぜ逃げ出さないのか。笑われて、指を差され、馬鹿にされ、逃げて逃げてここまで来たのだ。いつもの僕なら、すぐにでも駆け出していただろう。


 思えば、他人とこんなに長く話したのは何ヶ月、いや何年ぶりだろうか。


「ごめんなさい、僕はつまらない人間だから、何も知らなくて。」


 何の誇張も無い、素直な言葉だった。僕はつまらない人間なのだ。


「でも、おにいさんは月が綺麗なの知ってますよねぇ?」


 泣いた子供を諭すような、優しい声だった。


「どんな頭の良い学者さんだって、この公園の枝垂れ桜越しに観る月の綺麗さは知らないと思いますよぉ。そう考えたら、おにいさんは学者さんより物知りですよねぇ。つまらない人間なんかじゃないですよぉ?」


 僕にも理解出来る、まっすぐな言葉だった。


「あ、雲でお月さま隠れちゃいましたねぇ?」


 見上げると、いつの間にか広がっていた厚い雲が、月の光を遮っていた。話している間に、結構な時間が経っていたのだろうか。公園の時計は二時に差し掛かろうとしていた。草木の匂いに混じって、雨雲の湿った匂いが鼻をくすぐった。


「じゃぁ、もう帰りますねぇ。雨も降りそうだし。おにいさんも早く帰らないとダメですよぉ。」


 尻についた砂ぼこりを両手で払い、彼女は大きなあくびをひとつした。もう深夜なのだ。猫が気まぐれに人をからかうような気分で、彼女は僕に声をかけてくれたのだろう。僕もベンチから腰をあげ、軽く砂ぼこりを払った。


「ありがとう。久々に誰かと話が出来て楽しかったよ。じゃあ……」


 別れを告げようとした僕の言葉尻を制するように、彼女が僕の持っていた缶ビールに指を差した。


「おにいさん、それ。その缶ビール、『二番絞り』でしょ?味が薄くて飲みやすいんですよねぇ。明日ぁ、私の分もよろしくお願いしますねぇ。」


 僕の返事を聞くまでも無く、彼女は手をヒラヒラとさせながら夜道に消えていった。彼女の名前も職業も、連絡先も、どこに住んでいるのかも、何一つ僕は知らない。


 だけど僕は、今日知ったのだ。

 月の綺麗さを。

 桜の美しさを。

 そして――

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