2.

 青年の問いに、男は青年を初めて真正面から見ると、吐き捨てるようにいった。


「本当に聞きたいのか」


 青年はゆっくりと瞬きをすることで聞く準備が出来ていることを示唆した。

 動揺しないこと。それがこの場においてもっとも重要なことだと青年は理解していた。


「わたしは、あなたの意思を無視して性交渉に及びましたか?」

「……嫌がったときは無理やりに。時々だ。アルコールが入っていないときは優しかった」

「強要されたセックスほど自らを損なうものはありません。その時あなたは、わたしに対してどんな感情を覚えましたか?」

「わからない」

「よく状況を思い出して。焦らずゆっくりと。分かるはずです」

「……傷ついた。哀しくなった」

「わたしが憎かったですか?」

 青年が尋ねると、男はやや戸惑った表情を浮かべた。

「憎かった、かもしれない」

「かもしれない?」

「いや……きっと厭だった。と、思う」


 男が搾り出すようにしてそういうと青年は、教師が子どもに掛け算を教えるような口調でこう話した。


「長期にわたるDVは、被害者にPTSDという心理的影響を及ぼします。 一般的にはトラウマと呼ばれていますね。自傷行為を行ったり、喜怒哀楽を喪失したり、 判断力が低下することで現状の異常さをそうとは思わなくなったりします。 ですが、もっとも問題視されているのは、繰り返し人格を否定され続けることで、 『悪いのは自分であり、何の価値もない人間なのだ』と思い込むことです」


 青年は言葉を切り、男の表情を窺った。能面のようだった顔にわずかに汗が滲んでいる。 ひび割れた唇を舐めて男はなにかをいおうと口を開いたが、結局は逡巡したのちに閉じた。


「わたしは確かに毎回、誠心誠意あなたに謝りましたね。 しかし恐怖と安定に交互に揺さぶられることは、ある意味で暴力のみよりも被害者を痛めつけます。 かつては愛し合った人間からの暴力は、それほどあなたの心を殺すのです」


 究極のアメとムチといえるでしょう、と青年は付け加えた。 男は手で顔をぬぐい、深く息を吸って、吐いた。相変わらず部屋には木洩れ日が満ちていて、小鳥がさえずっていたが、体感温度は最初よりもずっと低かった。

 青年はそっと手を伸ばすと男の片手を取った。男の掌はじっとりと汗ばんでいたが、体温は死人に近い冷たさだった。 「大丈夫ですか?」と気遣いながら、さりげなく指を手首に伸ばし、悟られないように脈を取る。 男の脈は通常よりもやや速くなっていた。そのパルスを指先に感じながら、青年は本題に入った。


「あの日のことについて、教えてくれますか?」


 男は弾かれたように青年から両手を引き、 伸びすぎた前髪の隙間から鋭く睨みつけた。主人を威嚇する番犬のように。


「……知ってるだろ」

「“あなたの”口から聞きたいのです」


 男は苛つき舌打ちをしたが、 その表情はどこか怯えていた。青年は再びゆったりと両手を組む。


「あの日、わたしは荒れていましたね。重い腰を上げて行った仕事の面接にはあっさりと落ちて、 そのうえキッチンにはアルコールがなかった。あれほど酒は切らすなといっていたのに。 わたしは、あなたにすぐ買ってくるように命令した。それに対してあなたが何と言ったか覚えていますか?」

「俺は……俺は、金がないと」

「ええ」

「今月は家賃を払う金も危ういのに、酒を買う金なんてどこにあるのかって」

「続けて」

「話があると、俺はいった。すると、おまえは激昂して椅子を投げてきた。 俺は思わず――たぶん反射的に、傍にあったものを掴んだ。包丁だった。おまえは驚いたがすぐに、」

「すぐに?」

「そう……おまえは、」

 男は音を立てて、唾を飲み込んだ。

「おまえは『刺せるのか?』と笑った。『俺が刺せるのか?』と。 そして俺が戸惑った一瞬に殴り、包丁を奪い取った。髪を引っつかんで、咽喉元に包丁を当てた」

「そう。そして、わたしは――」


 青年はそこで初めて一瞬だけ躊躇ったが、すぐにその言葉を口にした。


「わたしは、あなたを殺しましたね。どのように?」


 青年は男を見た。洞のようだった目は、今では口よりも遥かに雄弁だった。 言わなければならないのか、とその血走った目は懇願していた。許してくれ、言いたくない、とも。 青年は、それらの問いに沈黙で答えた。

 やがて諦めた男は、唇を戦慄かせながら搾りだすようにして話しはじめた。 強迫観念に声は上ずり、こめかみに滲んだ汗は頬を伝い、顎に集約した。


「おまえは……おまえは、まず縛り上げた」

「何で?」

「し、新聞を捨てるときに縛るロープで」

「ロープで両手と両足を拘束した。それから?」

「それから、殴った。鼻の骨が折れた感触が――血が、おそろしくたくさん出た」

「それでも、わたしは満足しなかったんですね?」


 男が痙攣するようにして頷くのを見て、それから? と青年は理知的な態度を崩さずに先を促した。 男は何度も言い澱み、時折こみ上げる感情に溺れそうになったりもしたが青年は決して急かさなかった。 急かさなかったが、偏執的ともいえるほど細部まで聞き質した。


 どれほどの時間、わたしはあなたを痛めつけましたか?

 わたしが押し入ったとき、あなたは絶望しましたか?

 長い髪をハサミで切り刻まれたときは? 何度あなたはやめてと懇願しましたか?

 鎖骨を削るように包丁を差し込まれたとき、どれほど死への恐怖に怯えましたか?

 あなたの目に、わたしはどんな風に映りましたか?

 教えてください。『わたし』はいつ、恋人が死んでいることに気づきましたか?



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