第7話 先生の欲求……

 なんだか先生の様子がおかしいと気がつき始めたのは、四日前、つまり全国の高校生にとって、もっとも忌み嫌われているであろう一週間の始まり、月曜日のことだ。


 授業の合間に廊下で何やら考えに耽りながら、窓の外を眺める先生を見た。


 でもその時は少しあれ? って思うぐらいで、特に気にしていたなかった。


 だが、火曜日、水曜日、木曜日と曜日が進むにつれて先生の様子は露骨に悪化していった。


 火曜日は学校で先生を見かけるたびにため息を吐いていたし、水曜日は授業中に唐突に身体をビクビクさせて、無駄に男子生徒たちを興奮させていたし、木曜日には何やら足をムズムズさせながら教室でお弁当を食べる先生を見て、男子生徒たちは「先生、もしかして欲求不満なんじゃね?」「彼氏と別れたのかな?」などと、ひそひそ話をしているのを聞いた。


 様子がおかしいのは家でも同じだった。


 ご飯を食べる時も風呂上りにベッドの上で一緒にごろごろしているときも、一見、いつもと変わらない先生だった。


 が、いつも通りファッション誌のきっと高くて買えないであろう洋服を指を咥えながら眺めているときも時折、何やら足をもぞもぞさせていたし、時折身体をビクッと震わせることもあった。


 が、一番その症状が顕著だったのは彼女が眠っているときだった。


 昨日の夜のことだ。物音で目が覚めた俺は寝ぼけ眼で目の前で眠る先生を見やった。先生は相変わらず妙にいやらしいネグリジェ姿で眠っていたのだが、何だか様子がおかしい。


 先生はなにやら身体を縮こまらせながら「ん、んんっ……」と妙にエロい吐息を漏らしながら眠っていた。しかも何かに感じているように右手を口元に当てて眉を潜めているものだから、俺はそのあまりにいやらしい光景に思わず動揺したが、その直後、先生が発した寝言に度肝を抜かれる。


「ち、近本くん……わたし、もう我慢できないの……。ねえ、早く私の身体を解放して欲しいの。は、はやくっ!!」


 おいおい、この人、いったい何の夢を見てるんだよ……。


 そのあまりにも大胆な先生の寝言に俺の心はかき乱される。と、同時に男子生徒たちが言っていた「先生、もしかして欲求不満なんじゃね?」というひそひそ話が頭をよぎる。


 い、いや、まさかそんなこと……。


 が、さすがに先生が高校生の俺にそんな願望を抱いているはずがないと思いなおした俺だったが、結局、先生の寝言のことが気になって朝まで眠れなかった。


 今朝、先生は俺の目の下にできたくまをひどく心配している様子だったが、まさかその原因が自分だなんて夢にも思っていないだろう。


 だが、その先生の寝言が今日我が身に起こった事件の重要な伏線だったことに俺はちっとも気がつかなかった。


 事件が起きたのは昼休みのことだ。


 例の雑木林で先生が作ってくれた弁当を今日も有り難く平らげた俺は、やることもなくぼーっと知っていると不意に「近本くん……」と俺の名を呼ぶ声が聞こえたので振り返る。


 そこには担任織平さくらの姿があった。


 先生は何やら顔を真っ赤にして潤んだ瞳で俺を見つめていた。先生は何やら身体がそわそわする様子で口に手を当てたまま、内股気味の脚をもぞもぞさせていた。


 その時点で先生の身に何やらよからぬことが起こっていることに気がつき「せ、先生大丈夫ですか?」と先生のもとに歩み寄る。


 その直後だ。


 先生は「近本くんっ!!」と俺の制服をしがみつくように掴んだ。


「なっ!? ちょ、ちょっと先生どうかしたんですかっ!?」


 俺だって思春期の男だ。可愛い女の子に急にしがみつかれたら動揺するに決まっている。


 だが、先生はそんな俺の動揺する様子を見ながらも、それでも我慢できないようで「ごめんね」俺にしがみついたまま謝ってきた。


「先生、とりあえず落ち着ていください」


「わかってる。私もそのつもりなんだけど身体が疼いてきて、どうしようもないの……」


「は、はあっ!?」


 いよいよやばい……。


「近本くん、私、身体が疼いて我慢ができないのっ……助けて……」


「なっ……」


 先生の爆弾発言に俺は思わず絶句する。


 努めて平静でいようとするが、密着する先生の身体と、荒い息遣いに俺は理性が吹き飛ぶ寸前だった。


「せ、先生、俺たちは担任とその生徒ですよっ!? こ、これはマズいですよ……」


「私だってこんなこと、近本くんにお願いするのは良くないことだってわかってるよ。だけどね、ここ数日間、もう我慢できなくて、ほんの少しの刺激で体が反応しちゃう……」


 そう言うと先生は顔を上げる。


 真っ赤な顔の先生は瞳を潤ませたまま俺の顔を見つめた。


「先生ね、もう我慢で頭がおかしくなりそう……身体がビクビクして授業にならないの……」


「先生……」


「近本くん……私……私……う……歌が歌いたいっ!!」


「…………はあ?」


 俺は思わず間抜けな声を出した。


 それから俺は何とか先生をベンチに座らせて事情を聞いた。


 なんでも先生は俺の家に居候するようになってから、一度も歌を歌っていないらしいのだ。


 それまでは俺も知っている通り、休日になると部屋で歌を歌っていたが、自分が居候の身であることや、思っていた以上にアパートの壁が薄かったことなどが重なりずっと歌を歌うのを我慢していたらしい。


 だが、先生は何よりも歌を愛する元アイドルだ。それにおそらく歌を歌うことによってストレスを解消していたのだろう。その唯一のガス抜きを奪われて色々と溜まっていたようだ。


 だから、男子生徒たちの噂はある意味的中していたようで、現在、歌に対する欲求不満が限界に近づいたらしい。


「いや、仕事帰りにカラオケでも行けばいいじゃないですか」


「そ、そうなんだけど……」


 先生は恥ずかしそうに俺から顔を背ける。


「今月は滞納していた借金の支払いをしたのと、あと、少しでも近本くんの家に入れるためのお金とでほとんど自由に使えるお金が残ってないの……」


「いや、生活費なんて気にしなくてもいいですよ。最低限の仕送りも貰ってますし」


「だ、ダメだよ。ただでさえ、先生は近本くんに迷惑をかけているんだよ?」


「迷惑だなんて俺思っていないですよ?」


 それは本音だ。俺は先生が家に来てから彼女を迷惑に思っているどころか、ずぼら気味の世話をしてもらって感謝すらしているぐらいだ。


 まあ、それはさておき、この目の前の欲求不満おねえさんを何とかしなければならない。


「放課後まで何とか我慢できますか?」


 そう尋ねると先生はうんと何とか頷いた。



※ ※ ※



 放課後、俺はすぐに帰宅すると、先生に持ってくるように頼まれたカバンを持って、駅から少し離れた人目につきにくそうなカラオケへとやって来た。するとちょうど先生も店に入ってくる。


「ごめんね。私のためにここまでしてもらって……」


 先生は店に入って来るなりそう言って何度も俺にぺこぺこと頭を下げる。


「いや、俺も今日は予定なかったし、それに先生の歌聞くの好きですし、気にしないでください」


 実際に俺は少しだけわくわくしていた。


 何度も言っているように俺は先生の歌声が好きだった。よくよく考えてみると先生がうちに住むようになって、俺は今まで毎週聞くことができていた先生の歌を聞けないでいたのだ。


 先生が歌を歌ってストレスを発散しているように、俺だって先生の歌声で癒しを貰っていたのだ。


 そう考えれば、お互いにとって悪くない話だと思う。


「本当にお金、大丈夫なの?」


 やはり先生は生徒である俺にカラオケを奢って貰うことに負い目を感じているようだ。


「それは気にしなくてもいいです。その代わり、今日は先生の大好きな歌を嫌っていうほど聞かせてくださいね」


 そう言うと先生は感極まって瞳に涙を浮かべると、何度もうんうんと頷いた。


「先生、近本くんのために今日はいっぱい頑張るから、近本くんもいっぱい楽しんでねっ」


 俺たちは店員に案内されて部屋に入った。


 部屋に入った瞬間、先生は「わぁ……すごい……」と感動したように部屋を眺めていた。


 それはきっと俺が用意した先生へのサプライズのおかげだと思う。


 俺たちが通されたのは店の中でも一番広いステージルームだった。その部屋には他の部屋と同じように机とソファが設置されているのだが、それとは別に部屋の端に一段高いステージとスタンドマイクが置かれている。


 この部屋ならば先生も心置きなく歌が歌えるに違いない。


 ステージルームは普通の部屋の倍近い値段なのだが、それでも学割やネットのクーポンやらを駆使して何とか他の部屋とほとんど変わらない値段で入ることができた。


 まあこの程度の出費は先生の歌が聞けることを考えれば安いものだ。


「近本くん……」


 気がつくと先生の瞳からはポロリと一縷の涙が頬を伝っていた。。


「先生、今すっごく感動しているよ。いつかきっと近本くんには、これでもかってくらいの恩返しをしてあげるからね……」


 先生のそんな喜びと感動の入り混じった表情にドキッとした。


 しばらく俺と先生を見つめていた。が、不意に我に戻ると「ほら、二時間しかないんで早く歌わないと勿体ないですよ」と平静を装ってそう言うと、先生も「そうだね。すぐに準備するね」と俺からカバンを受け取った。


 五分後、俺は先生に頼まれていたカバンの中身が何なのかを知った。


「や、やっぱり、ちょっとイタいかな……」


 ステージに立った先生は何やら照れたようにスカートの裾を掴んで上目遣いで俺に感想を求める。


 ステージ上の先生は高校の制服のような洋服を身に纏って立っていた。


 それは先生のアイドル時代の衣装だった。


 それはワンピース型の制服を模した薄紫色の衣装だった。膝よりも少しだけ下まで伸びたスカートからは黒のストッキングに覆われた細い足が伸びている。


「…………」


 俺は何も言えなかった。


 もちろん悪い意味ではない。その衣装があまりにも先生に似合っていたからだ。もう高校生の年齢ではない制服姿の先生は、他の女子生徒が束になってかかっても相手にならないほどに、なんというか光り輝いて見えた。


 きっとこれがプロのアイドルのオーラなんだろう。


 長い髪を蝶々のバレッタを留めた先生は少し自信のない表情がライトで照らされていて、それがまたどこか色っぽくて俺には魅力的に映った。


 気がついたら見惚れていた。


 先生は何も言わない俺を少し不安げに眺めていたが、恐る恐るながらも液晶パネルをポチポチと操作をすると、室内に音楽が流れ始める。


 俺は画面を見やった。そこには曲名とともに『織平さくら』と表示されていて、そこで改めて先生が本当にアイドルだったのだと改めて思った。


「♪私がきみと初めて出会ったとき~ きみはつまらなそうに窓の外を眺めていたね~」


 しっとりとしたその曲調の歌を歌い始めると、それまで不安に満ちていた先生の表情が、何か悲しさと切なさの入り混じった表情に変わった。そこには教員としての織平さくらの表情はどこにもなく、ただ一人のアイドルとしての織平さくらが立っていた。


 俺はそんな先生の初めて見る姿にくぎ付けになっていた。



※ ※ ※



 結局、二時間ずっと歌い続け、カラオケを出る頃には辺りはすっかりと暗くなっていた。


 そして、先生は溜まっていた欲求をすべて満たされたようで、元通りいつもの先生に戻っていて俺は心から安心した。


 帰り道、先生と横並びで家へとつながる並木通りを歩いていると途中、先生はふと足を止める。


「どうかしたんですか?」


「近本くん……あのね……」


 と、先生は何やら改まった顔で俺のことを見つめる。


「私ね、お金もないし、家も追い出されたし、挙句の果てには生徒である近本くんの家に居候させてもらっているし、すごく危ない橋を渡っているのは知っているよ」


「まあ、確かにそうですよね……」



 何せ、こんなことがバレたら俺たちはただでは済まない。


「でもね、近本くん不思議なの……」


「不思議?」


「うん、こんな生活を送って近本くんに迷惑を掛けているのもわかっているのに、私ね、今凄く不思議な気持ちでいるの」


 と、先生は胸に手を当てて何かを言おうとして躊躇っているような表情を浮かべている。


「どうかしたんですか?」


「近本くん……私ね、不思議なの。私、こんな目に遭っているはずなのに、今生活が楽しくてしょうがないの……」


 先生は静かにそう呟いた。


 先生は居候させてもらっているのに、そんなことを言うのはよくないと思ったのだろうか少し怯えているようだった。


「私、少し変だよね……」


 そんな先生の言葉を俺は「そんなことないですよ」と否定した。


 そして続ける。


「仮に先生が変な人だとしたら、俺も相当な変な人間ですよ」


「どういうこと?」


 先生は言葉の意図が理解できていないようで首を傾げていた。


「だって、俺だって先生と一緒に暮らしていて迷惑どころか、楽しさすら感じているですから、先生が変な人だとしたら俺も変な人です」


 そんな俺の言葉に先生は少し恥ずかしそうに頬を赤らめた。


 俺も俺で自分で言っておきながら、何だか今自分がとんでもなく恥ずかしいことを言ったような気がして顔が火照るのを感じた。


 でも、俺の言葉が嘘ではないのも事実だった。


 先生との生活は楽しい。

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