第5話


「懐かしいなぁ……」


「今日はそれで最後な」


 おっさんが三本目となる缶ビールを開ける。

 体格を考慮すれば一本でも大変な量になっているはずなのだが、食べる量も飲む量も通常の人間とさして変わりはしないのだ。


「あのあとお前の悲鳴を聞きつけた大家を必死で誤魔化してよ」


「はいはい」


 おっさんがこの話をしだすと決まって長いのだ。適当に相づちを打ちながら俺はさっさと食器を洗うことにする。


「絶体絶命のピンチのなかでワシはびびっ! とひらめいた!!」


 つまりは俺の声まねをして誤魔化しただけなのだが、よくもまあ飽きずに何度も同じ話をしかも大げさに出来るものだ。


 あのあと大変だったのはなにもおっさんだけじゃない。

 次の日俺が目を覚ました時にはおっさんは部屋の隅っこで寝ていたため、あれは夢だったかと思うことにした俺に降りかかってきたのはより現実的な問題だった。つまりは遅刻一歩手前だったのだ。

 なんとか出勤時間に間に合ったものの、前日に後輩が逃げた仕事と上司から押しつけられた仕事は終わって居らず大目玉を食らったものだ。


「聞いているのかァー!」


「はいはい、聞いているよ」


「ならば良し」


 いつも以上にぼろぼろになって帰宅すれば、缶ビール片手におっさんが部屋のど真ん中に座っていたんだ。全裸で。

 崩れ落ちたさ。それはもう。悲鳴を上げる余裕すら残っていなかったわけ。


 逃げることも悲鳴を上げることも現実逃避することも出来ない俺は、おっさんの話を聞くしかなく、その結果としてもうおっさんは俺の家に三ヶ月も居候しているわけだ。


 そもそもこのおっさんは人間じゃない。

 それは分かりきっていることなんだけど。だからといって魑魅魍魎の類いでもないらしく、本人曰く天使なんだそうだ。


「ワシの力さえ回復すればお前を幸せにぶわわっ! ってしてやれるんだがなぁ」


「期待せずに待っているよ」


 この三ヶ月おっさんが取り戻した力といえば、宙に浮かぶことくらいである。羽が生えたとかいうこともなく、天使の輪っかがあるわけでもなく、ただふよふよと浮けるのだ。

 あとは、絶妙に家事が上手いんだが、どっちかと言えばこっちの方が遙かに助かっている能力だ。


 この分じゃ、おっさんが俺を幸せに出来るようになるまで何年かかることか。


「それで。いい加減好きな女くらい出来たか?」


「あ? あー、まだだなァ」


「かーッ! 情けない……、ワシが若い頃なんかそれはもう色んな男女がアイラブユーとだなぁ!」


 社畜街道まっしぐらな俺に酷なことを言うもんだ。

 会社の中での俺の立ち位置を知っている人で俺のことを良いなと思ってくれるはずがないんだが。

 会社以外? そんな関係性を築けるほどコミュニケーション能力が高いなら会社で後輩にまで便利使いされてねえよ。


「……、やっぱりここはあれしかねえか」


「あれって?」


 洗い物を終えて戻ってくれば、おっさんが神妙な顔つきになっていた。全裸だけど。


「天使に昔から伝わる方法なんだがな」


「ほほう」


 ちょっと興味がある。天使と言えば、あの恋の弓矢とかが有名だけど、そんな感じのものだろうか。

 道具で人の心を操るのは正直どうかと思うが、だからといって興味が無いといえば嘘になる。使いたくはないけれど、実物ははっきり言って見てみたい。


「筋トレだ」


 盛大にずっこけた。

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