第4話

 真知と俺が付き合うということはなかった。しかし、その日から度々身体を重ねる間柄になったことは事実だ。この世にはセックスフレンドという美しい言葉がある。真知と俺の関係を言葉で表すなら、それが一番近いのだと思う。正しいというわけでもない気がするが。

「おいおいおい! 佳祐、お前! あの能面女と付き合い始めたって本当かよ!?」

 どこで噂を聞き付けたのか、狛江が『IF』のスタッフルームに入るなり詰め寄ってくる。

「付き合ってねぇよ」

「嘘つけよ! お前と能面女が一緒にいるとこみたって奴がいるんだぜ?」

 面倒なことになった。適当に嘘をついてはぐらかすこともできるが、今後もまたこいつは疑ってくるだろう。ならばもう素直に話してしまった方が、後に面倒なことにならなくて済む。

「何度か寝たことがある。それだけだよ」

「はぁ……? セフレってことかよ。なななちゃんはどうすんだよ、あんなにお前のこと好きっていってんのに裏切るつもりなのか?」

「裏切り? 俺はあいつに好きだなんて一言もいってないし、関係ないだろ」

「関係ないってお前……すげぇクズっぷりだな」

 チャラい奴だと思っていたが、狛江は案外純粋な奴らしい。そう思うとすこし面白い。

「せめてちゃんと付き合ったらどうなんだよ」

「俺とあいつがそれでいいと思ってるんだ。それに、互いが身体を求めるときだけに利用し合うって、俺は美しい関係だと思うけどな」

「はぁ、お前らの感性がわかんねーよ」

 狛江は頭を掻いて難しい顔をしている。他人にわかってもらいたいなんて俺は思っていない。他人がわからなくとも、当人たちがわかり合えていればそれで十分だろうに。それが男女ってものだと俺は思っている。

「そんな曖昧な関係のままでいて、なななちゃんは納得するとでも思ってんのか?」

「納得もなにも、あいつには関係のないことだっていったろ?」

「お前……マジでそんなこといってんのかよ?」

「俺が冗談なんていわねぇだろ?」

 狛江は目を見開く。抑え切れなかった感情をロッカーにぶつけた。

「っざけんなよ、ちょっとは人の気持ちも考えろよ!」

 拳が当たり、すこしへこんでしまったロッカーをみる。なにがそこまで気に食わないのかは知らないが、俺は狛江の忌諱に触れてしまったらしい。

「まあ、そうだな。海老名菜々子に関しては、俺もちゃんとけじめをつけようと思ってたんだ」

 だらりと落ちる狛江の腕をみて、俺は自分のロッカーに鍵を掛けた。

「これ以上付きまとわれても困るのは俺だからな」

「困るって、お前……ちょっと待てって」

 狛江との会話を一方的に切り上げ、スタッフルームを出て扉を閉めた。フロアへと続く階段を上がっていく。今日は4階のフロアだ。平日の営業でしかも4階、それほど忙しくなることはないだろう。

 バーに入ると真知がすでにそこにいた。営業前の準備をつつがなく進めている。俺もそれを手伝うようにして、作業に入った。やはり俺たちの間には仕事に関すること以外での無駄話など一つもなかった。

 営業が始まっても客の数はまばらだ。メインフロアはそれなりに多いと思うが、4階ともなると混雑というほど客もいない。俺たちは客がきたときにだけ対応し、あとはただ無言のままにその場に立ち続けている。

 呆然とフロアを眺めていたら、背の低い女が視界に入った。これから俺のもとへくるだろうことを考えると頭が痛くなる。

 海老名菜々子は他の客を不器用に避けながら、俺をみつけると強ばった笑顔を向けて手を振ってくる。

「喜多見くん、久しぶり」

 女はカウンターまでくると、毛先を指に巻き付けながら、すこしうつむき気味にしゃべる。久しぶりといっても、3日前にきたばかりだ。

「またきたのかよ」

「そりゃあくるよ! だって喜多見くん全然連絡くれないんだもん!」

 だからそれで察して欲しいのだが、女はわざとなのか天然なのか、それでも俺のもとへとやってくる。

「それで、ご注文は?」

「あぅ、えーと、喜多見くんのお任せで……」

 無意識のうちにジンのボトルに手が伸びる。だが考え直してシャンディガフを出してやることにした。海老名菜々子に対してけじめをつけると狛江に断言してしまったからには、変に酔っていてもらっては困る。

「なんで連絡くれないの? わたしはずっと待ってるんだよ?」

 それとなく真知の表情を伺う。いつもと変わらぬ無表情のなかにすこし悲しげな色がみえた。表情の乏しい真知の微妙なその変化が、わずかながらわかる。

「いまはバイト中なんだ。そうだな、バイトが終わるまで待っててくれないか? 話したいことがある」

 そういったときの海老名菜々子の表情といったらなかった。漫画に出てくる少女のようにぴょんぴょん跳び跳ねて喜んでいる。

「うん、うんっ! 待ってるよ! 店の前にいればいいかな?」

「ああ、そうしてくれ」

「待ってるからね! 喜多見くんのために待ってるから!」

 時おり俺の方を振り返りながら、遠ざかっていく女の姿を目で追う。まったく面倒だ。しかし明確に拒絶しなければ、あいつはこれからもずっとまとわりついてくるだろう。今後の徒労を鑑みれば、今日ですべてを終わらせた方がいいに決まっている。客がカウンターにきた。海老名菜々子から客へと視線を戻し対応する。俺はずっと、真知の視線を感じている。


 急いで店を出ると気温の低さに驚かされる。夏は完全に去ってしまったらしい。明らみ始めた空を見上げ、もう一枚上着を羽織ってくればよかったと後悔してしまう。他のバイト連中が出てくる前に用事を終わらせようと辺りを見渡すと、向かいの建物に寄りかかるようにして海老名菜々子が立っていた。二人組の男に絡まれているようだ。

 海老名菜々子は男たちに怯え震えていた。顔を赤らめどこか気だるげな表情が、小さな海老名菜々子をより弱々しくみせ男の性欲を昂らせているのかもしれなかった。どうやら風邪でも引いたのだろう。この寒いなか律儀にずっとそとで突っ立っていればそうなってしまうのも当然というものだ。

 自業自得な女と目が合った。海老名菜々子は安堵の表情を一瞬だけ浮かべると、男たちを押しやって俺の方へと駆けてくる。

「喜多見くんっ、喜多見くんっ!」

 俺の胸にすがりついて、涙混じりの声で俺の名を呼ぶ。海老名菜々子を囲んでいた二人組は、俺をみると舌打ちをしてどこかへ歩いていった。なかなか泣き止みそうにない女をみてため息をつく。バイト上がりで疲れているというのに、無駄な体力を使わされそうだ。

「いくぞ」

 他人が泣き止むのを待つほどお人好しな性格でもないし、俺は駅に向かってゆっくりと歩き始める。海老名菜々子は俺から付かず離れず後ろをとことこと追ってくる。鼻をならし袖口で涙を拭う。目元の化粧がすこし崩れつつあった。

 朝方の街並みは閑散としている。夜には光輝いているネオンもいまは消え、空は明るくなっているというのに、一日のなかで一番暗い時間帯のように思う。収集を待つごみ袋の山にカラスやネズミがたむろし、道端にゴミが散らかっている。

「お前はなんで俺なんかに付きまとってくるんだ?」

「……え?」

 ふと思った疑問だった。ただ一夜をともにした、それだけの女がここまで俺を想うなんてことがあるだろうか。こいつがメンヘラな女だった。そういってしまえば簡単な話なのだが、あれだけぞんざいにあしらわれてもなお、こいつは付きまとってくる。海老名菜々子は泣くことすら忘れ、俺が何をいっているのかわからないという表情を向けてくる。

「だって……喜多見くんには、わたしが必要でしょ?」

「──っな!?」

 身体中に悪寒が走った。俺は思わず足を止めて、海老名菜々子をまじまじと見詰めてしまっていた。その瞳は嘘偽りなど微塵も感じさることのない純粋な色をしている。どうやら本気でいっているらしい。度を越したメンヘラか、あるいはこの女の精神面に問題があるのか、これほどまでの無垢な狂気などいままで味わったことがない。

「俺が一度でもそんなことをいったのか? 俺にはお前が必要だ、なんて」

「ううん、いってない。けどわかるよ……あの夜からずっと、わたしは喜多見くんのことを想ってるんだから」

 虚構と現実の境を見失った女の、本心なのだろう。こいつは本当に俺のことばかりを想い、行動を起こしている。おそらくきたこともなかったであろうナイトクラブへと通い、くるはずのない連絡を待ち、寒空のもと男に絡まれてもその場で俺を待っていた。「待ってるから」この女のいっていた言葉の本当の重さが、形をもって俺にのし掛かってくる。しかしそんなものを優しさとは呼ばない。偽善だ。おぞましく歪んだ愛情など、他人に押し付けてしまえばありがた迷惑というものだ。

「もういい、いい加減にしてくれ」

 俺は額に手を当て冷静を努める。

「俺はお前を必要としたことなんて一度もない。お前だけじゃない、誰一人として俺が他人を必要とすることなんてないんだよ」

「うそっ! あの夜、喜多見くんはわたしを必要としてたよ! あの夜だけじゃない、いまだって喜多見くんは誰かを必要としてるもん!」

 こいつにいったい何がわかるというのか。海老名菜々子が純粋であれば純粋であるほど、この会話の意味がなくなる。理解しながらも駄々をこね続ける女よりも、よほどたちが悪い。

 気味が悪いというよりは、恐怖に近い感情を俺は海老名菜々子に持った。

「だとしても、お前じゃない」

「どうして? 喜多見くんはわたしのことが嫌いなの?」

「好き嫌い以前の問題だったよ。お前をまともにみたことなんてなかったし、興味さえなかった。だけどいまは嫌いだとはっきりいえる」

「じゃあ、なんで……なんであのとき、わたしを必要としたの?」

 両の拳をぎゅっと握り締めて、懇願するように女は俺を見詰めていた。

「……知らねぇよ…………」

 覚えてもいないのだから仕方がない。誰でも良かったのだろう。女さえ抱くことができれば、誰でも。それがたまたま海老名菜々子であっただけで、そこに意味など存在しない。

「勝手にお前が必要とされていると勘違いしただけだろ」

 海老名菜々子はちがうちがうと首を振り、涙混じりの瞳を俺に向けた。

「あのとき喜多見くんは、わたしに涙をみせてくれたよ! 本物の涙をみせてくれたんだよ!」

「……は?」

 俺が、泣いた? 妄想女もここまでくると手に負えない。俺は酒に酔ったら泣き上戸になるとでもいうのか? そんなこと、いままで誰にだっていわれたことなどない。

「わたしは……わたしは……喜多見くんのことを想って……」

「本気で俺のことを想ってんのなら、二度と付きまとうような真似はしないでくれ。迷惑だ」

 俺からの明確な拒絶が、女のなかで拮抗していた感情を断ち切った。

「──」

 海老名菜々子は一瞬空を見上げ、その場に膝から崩れ落ちた。ぐしゃぐしゃに乱れた顔を腕で覆い、地面に押しつける。やかましい泣き声さえなければ、まるで土下座でもしているかのようだ。早朝の歓楽街に人影はすくないが、それでも数人の視線が俺ら二人を刺していた。最後まで俺に迷惑を吹っ掛けてきやがる女だ。

 顔を上げると遠くに狛江の姿があった。俺は海老名菜々子をその場に残し、早足気味に駅へと向かう。狛江は案外優しいやつだ、あいつに任せていれば警察の厄介になることもないだろう。後ろから聞こえる女の泣き声を塞ぐために、普段はあまりしないイヤホンを耳に刺した。スマートフォンのミュージックリストをシャッフル再生すると、くだらない曲が流れ始める。俺はそんな音で鼓膜を汚しながら、海老名菜々子との関係を切った。

 バイト前のスタッフルームで、狛江は俺に「裏切るつもりなのか?」と訊いた。だがそもそも裏切りなんてものは、受け手側の勘違いに過ぎない。こうなることは俺にとっては予定調和でしかなかったことだ。しかし馬鹿な人間って奴は、他人に依存し、入れ込み、信頼し、自分の思わぬ方向へと事が進んでしまうと、皆それを裏切りだといって自分自身を慰める。あくまで自分は被害者であり、悪いのはすべて相手。そう言い訳して必死に自分の弱さから目を背け、脆い心を守ろうとする。いわば醜い自慰行為のようなものだ。

 バイト以上の疲れを伴い、俺は足を動かす。イヤホンから流れていた曲が切り替わり、the pillowsの『ファントムペイン』が流れ始めた。疲れた身体が洗われるかのようにメロディが馴染む。いまの俺にはこういう曲が合っていると思った。まったく改めて思い知らされた気分だ、人間関係って奴の面倒さを。他人同士の考えが一致することなど、もとから皆無だと俺は知っている。ならば一定の距離をとり、干渉せず、信頼せず。そうすればどうだ、人生は上手く回っていく。俺のように。

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