精火門 グレン

 目の前で、リュードとミランが話している。


「すみません。隙があればエスティ様をこちらに連れて来るつもりでしたが……」


 恐縮した様子でミランが言った。


「エスティは無事だったのだろう? なら、かまわない。手を出さなかった君の判断は間違っていないよ。バッシュは見境がないからね」


 リュードは片目をつむってみせた。ミランはそれに笑顔で応える。


「追いかけますか?」

「いいや。グランフォレストを西へ出たのならフィンナの所に行った可能性が高い。仮に他の精水門の人間見つかっても、彼女ならうまく保護するさ。

 それより、向こうにも監視を置いているのだろ?」

「はい。今回の状況を伝え、監視を強化するように伝えました」

「さすがはミラン。仕事が早いね」リュードはそう言って微笑んだ。「いざとなればフィンナに手を貸すように、追加で伝えておいてくれ」

「すぐに伝えます。しかし精地門から追っ手が来た場合は、対処しきれない可能性も……」

「そっちは僕の方から圧力をかけよう。バッシュが倒れたのなら、向こうの損失は大きい。なにせ、あいつは戦力としては精地門の切り札だったんだからね。ちょっと攻め気を見せれば簡単には地霊宮から兵を動かせないだろう」


 リュードは椅子から立ち上がると、そのまま部屋の中を歩きはじめた。


「精風門は相変わらずだね?」

「はい。黙りを決め込んでいるようです」


 咽の奥でリュードは笑った。


「それに関しては、完全に君のおかげだミラン。君の知り合いは利口だね」

「しかし、あのような約束をされてよろしいのですか?」

「精火門が元素術を支配したその時は、地・水の門派よりは位を上に扱うこと。風霊宮内においては、精火門であっても礼を尽くすこと、かい? その程度の保証でいいならいくらでもするさ。上を狙う気のない連中は脅威にはなり得ない」

「事が済めば、我々を風霊宮に誘い込んで始末するつもりかもしれません」

「今の精風門の人間に、そこまで度胸のある人間はいないよ」


 リュードは立ち止まった。窓を背にミランを振り返る。


「障害は確実に減っている。いい兆しだ。何も心配することはない。あるとすれば……」

「あの少年ですか?」


 言葉を受けてミランが言った。


「その少年、得体がしれないな。バッシュを倒せる程の術法使いなら、今までに何か噂があってもいいようなものなんだが。元素術とは違ったのだろう?」

「はい。少なくともあの少年は精霊を支配していませんでした」


 リュードが右手で口を押さえた。考え込むときにやる動作だ。


「あるとすれば魔術、か? しかし、術法としての魔術を行使できる人間は……いや、ひとりいるね」

「ガーゼル様ですか? しかしあの方は……」

「ああ、あの老いぼれは隠居を決め込んでるはずだ。ただ、喰えない御仁だからね、関係はあるかもしれない」


 リュードは肩を竦めて見せた。


「やはり追いかけて確かめた方が、よろしいのでは?」

「いや。直接行ってもフィンナが警戒するだけだ。エスティを保護できたかどうかだけ、分かればいいよ。結果的に僕の所に連れて来なければならないんだ。あせることはない。

 こっちには最高の切り札があるんだからね」


 最後の言葉は呟きだった。だがこちらに向けた言葉のようにはっきりと聞き取れた。

 縁なし眼鏡の奥の瞳が、冷たく光る。真摯だが、どこか憑かれたような瞳。初めてみる目だ。

 一瞬、背筋が寒くなる。身震いをしようとしたが動くことはできなかった。意識と体が離れているような、不思議な感覚。


「もうすぐ愛しい妹に会えるよ。うれしいだろ? なあ――」


 リュードがこちらを向いた。あの冷たい瞳のままで……。


「グレン」

「そうだな」


 意志とは無関係に口が開いた。


        ★


 半壊した館を中心に、大地が激しく起伏をしている。エスティは変わり果てたわが家の前に立っていた。あれから半月しか経っていないのに随分な荒れようだった。

 フィンナがエスティのそばに寄った。美しかった庭は、力の蹂躙を受け見る影もない。

 エスティはため息を吐いた。ルキフォが去ったあの日以来、すっかり元気をなくしていた。もうすぐ兄に会えるというのに、なぜかそれほどうれしくないのだ。それは、兄に紹介するはずだった、自分を守ってくれた少年がいないせいだった。

 フィンナたちの後ろには、男が二人控えていた。痩身の男がゼイズ。大きな剣を背負っているほうがコウンだ。二人ともフィンナが信用できると判断した精水門の人間だ。ただし、コウンはそれほど元素術を使えない。その代わり、剣の腕は一流だった。


「フィンナ様。あの男来るのでしょうか?」


 ゼイズが訊いた。エスティに聞こえないように小声だ。


「来るわ。でも、三人だけってことはないでしょうね」


 フィンナが答えた。エスティを連れてここへ旅立つ日、彼女はリュードに連絡をとった。そして、ここで待ち合わせるよう約束を交わしたのだ。

 リュードはグレンとミランの三人で、ここへやって来ると言っていた。

 足音が聞こえた。倒壊した塀の向こうから人がやって来る。フィンナたちは形をなくした門に目を向けた。

 影が三つ中に入ってきた。男が二人、女が一人。リュードのそばにミラン。その後ろにグレンだ。

 三人はフィンナたちの目の前で止まった。


「兄様……」


 グレンの姿を見て、エスティの瞳が大きく見開かれる。額に巻かれた包帯の他は、怪我が残っている気配はない。妹が思っていた以上に、兄は元気そうだった。

 エスティの目には涙が溜っていた。


「エスティ、無事だったんだな」


 エスティの覚えている、かぎりなく優しい笑顔がグレンに浮かんだ。気づくとエスティはグレンに駆け寄り、抱きついていた。


「兄様、兄様……」


 兄の胸の中で、エスティは何度もそう繰り返した。まるでしっかりと掴んでないと消えてしまうと言わんばかりに、グレンに抱きついた腕に力を込めた。


「無事についたようだね」


 グレンを見て考えこんでいるフィンナに、リュードが声をかけた。少し間をおいてフィンナがそちらを向く。目には警戒の色が浮んでいた。


「そういえばエスティを助けてくれた少年がいたそうだけど、姿が見えないね?」


 リュードが辺りを見た。フィンナとエスティの他には男が二人だけ。そのどちらも少年と言うには、少々歳がいきすぎている。


「彼はいないわ。途中で別れたの」


 フィンナはリュードを見据えた。連絡した時にルキフォが去ったことを、リュードには話していなかった。もちろん、ルキフォが〝魔法〟使いであることも話していない。不確定要素として手元に置いておくことはしないが、何かあると思わせることはできるとフィンナは考えたからだ。

 実際、リュードも気にしているらしかった。


「ルキフォ……」


 エスティがさみしそうに呟いた。


「ルキフォと言うんだね?」


 リュードがエスティに訊いた。エスティはこくりと頷いた。その様子はひどく落ち込んで見えた。


「ルキフォ? 誰なんだい?」


 エスティのあまりの落ち込みように興味を持ったのか、グレンが訊く。


「ルキフォはね、療術師の弟子で、わたしを助けてくれたの」


 そう呟いた。まるで、自分にとって一番大切な人の名を呼ぶときのような言い方だ。

 そんなエスティを見るリュードの目に嫉妬の影が一瞬だけ浮かんだのを、フィンナは見逃さなかった。


「そうだ、兄様。ゴルドって人知ってる? ルキフォのお師匠様なの」


 兄が知っているのが当然であるかのように、エスティは言った。自分の為に呼んだ療術師のことなら知っていると考えたのだ。


「ゴルド……すまない。覚えていないな」


 だが、グレンの答えは素っ気なかった。


「……そう」


 ルキフォの話をするきっかけを失って、エスティの表情が曇った。グレンはそんな妹の様子を気にしたふうもなく、恋人の方を見る。

 まるで観察するかのようにグレンを見ていたフィンナと目が合った。


「フィンナ……迷惑をかけたね」


 グレンがエスティを連れてすぐそばにやってくる。


「これからどうするの?」


 フィンナがグレンに訊いた。


「そうだな。しばらくはリュードに匿ってもらおうと考えているんだが」


 フィンナはじっとグレンを見つめた。短めに揃えた金髪。優しげな面影。フィンナの知っているグレンだ。優しさだけでなく、厳しさ強さを持ったフィンナの恋人だ。

 だが、どこか違和感があった。それは決して、額に巻かれた包帯のせいではなかった。外見ではなく内面にその違和感はあるのだ。


「どうしたんだい?」


 グレンが右手を伸ばしてきた。このままフィンナの髪に触れ、優しく頬に触れる。フィンナに会った時、いつもグレンがすることだ。フィンナは頬から伝わる暖かみ感じて、いつも安心するのだ。だが、フィンナはグレンの手をはねのけた。


「フィンナ?」


 グレンが驚いてフィンナを見た。


「貴方、誰なの?」


 フィンナが言った。恋人を見ていて覚えた違和感は、グレンが触れようとしたとき確信に変わった。


「フィンナ姉様?」


 エスティも驚いた様子で、フィンナを見つめていた。今、そばにいるのは自分の兄だ。そしてフィンナの恋人だ。間違いはない。実の妹が間違えるはずはなかった。


「何を言っているんだ?」

「貴方は誰? 本当にグレン?」


 違和感が確信に変わっても、フィンナは迷っていた。目の前にいるの間違いなくグレンだ。でもどこかが違った。

 ここに来て最初にグレンを見たとき、感じたのは安堵より不安だった。声を聞いてその不安は消え去るどころか逆に大きくなった。

 そしてルキフォのことを話そうとするエスティの言葉を聞き流したグレン。妹思いのグレンは決してそんなことはしない。時には妬いてしまうくらい妹を大事に扱っていたのだ。

 なにより頬に触れられた時に感じるはずの愛しさを、フィンナは感じなかった。違和感は不安を煽りやがて不審へと変わっていった。

 エスティには感じることができない違いを、フィンナは感じていたのだ。それは、エスティには越えることのできない壁を越えたフィンナだから。グレンと何度も肌を合わせた恋人だからこそ、感じた違いなのかも知れなかった。


「エスティ、私を信じて離れなさい」


 エスティの手とって、自分のもとに引き寄せようとする。それを邪魔するように、フィンナの目の前で炎が踊った。フィンナは素早く跳びのいた。


「兄様!?」


 エスティが兄を振り返る。


「お前は何も心配しなくてもいいんだよ」


 グレンが笑った。あの優しい瞳で……いや、違う。笑ったグレンの瞳には光がなかった。


「いや……」


 逃げようとしたエスティの肩を、今までずっと黙っていたミランの手が掴んだ。たちまちミランに抱きかかえられる。


「ゼイズ! コウン!」


 フィンナが叫んだ。二人が動く。

 コウンが大剣を抜いた。そのまま一足跳びでグレンを斬りつける。グレンはそれを横に避け、コウンに炎を浴びせた。炎を突き抜けてコウンが現れる。グレンは後ろに跳んで距離をおいた。

 ゼイズは水の玉を生み出し、リュードの足下へ投げた。水玉は地面に当たると大きな水柱となって天に上がった。動こうとしたリュードの足が止まる。


 フィンナがミランに向かって走った。ミランはエスティを抱きかかえたまま動かない。

 フィンナは走りながら自分の周りに水を生みだした。そのまま水を数本の槍と化し、ミランに向かって放った。水槍はミランに届く寸前、風のひと薙ではじかれる。水槍をはじいた風はフィンナを包込むように襲った。フィンナは纏った水を渦巻状にして、その風が体を切り裂くのを防いだ。


「エスティを離しなさい」


 フィンナの言葉に、ミランが嗤った。


「貴女たちで彼女を守り抜くことができる? 相手は元素術すべての門派。たった二人で、本当に守り抜けると?」

「守ってみせるわ。たとえ二人でも」

「無理ね」


 ミランが即座に否定した。


「なら、リュードにはできるというの?」


 フィンナはミランを見つめた。


「リュード様でないとできないわ」


 ミランはそれを正面から受ける。


「グレンを裏切り、精火門の言いなりになることがエスティを守ることだとでも言うの?」

「貴女には分からないのよ。リュード様は言いなりになんかならないわ。あの方はちゃんと考えている」


 そう言うと、ミランはかかえているエスティに向かって言った。


「エスティ様。リュード様を信じなさい。けっして悪いようにはしないわ。リュード様はあなたのことを一番に考えて動いています」

「リュードが?」

「そう。だから兄やその恋人ではなく、リュード様を信じなさい」

「…………」


 エスティは答えなかった。エスティにとって兄はもっとも信頼できる人間だった。その兄は今、人形のように生気のない瞳をしてフィンナたちと戦っている。エスティの知っている兄ではなかった。誰を信じていいか判らない。心細かった。誰か自分を安心させてくれる人がそばにいてほしい。ひとりの少年の姿が、エスティの心に浮かんだ。


「ルキフォ」


 エスティは呟いた。

 コウンの剣がグレンの服を切り裂いた。間一髪で避けたグレンは火炎弾を撃つ。コウンはそれを真っ二つに斬った。

 足止めをくらったリュードがゼイズに炎を向けた。炎が潮流のようにゼイズに迫る。ゼイズはそれを同じ規模の水流で迎え撃った。炎と水がぶつかり、互いの精霊力が削られていく。小規模な爆発が二人の周りで起こった。


 フィンナは苦戦していた。ミランの動きはエスティをかかえているためそれほど速くはない。しかし、エスティを巻き添えにしないようにミランだけを狙うのは難しかった。


 グレンの足刀がコウンに伸びた。コウンはそれをしゃがんで避けた。炎に包まれた蹴りがコウンの頭上を掠める。コウンはしゃがんだ姿勢から飛ぶように立ち上がり、その勢いを利用してグレンを斬りつけた。グレンは蹴り終えた姿勢のまま動けない。だが、コウンの剣はグレンの体に食い込むことはなかった。

 突如、地面から火柱が吹き出しコウンを包み込もうとする。コウンは辛うじて飛び退くが完全には避けきれなかった。火柱はコウンの剣を消滅させ、持ち主に動けぬほどの重傷を負わせる。コウンは地面に倒れた。


 フィンナの操る水がミランの周りに散った。ミランは風を操って空へ逃げようとする。散った水が上へ伸び、ミランが逃げられないように空を覆った。ミランは水のドームに閉じ込められる。


「さあ、エスティを渡して。もう、逃げられないのよ」


 ミランは何も言わずにフィンナを見ていた。その表情が不敵な笑みに変わる。フィンナが訝しんだその瞬間、背後に衝撃と熱を受けてその場に崩れた。それと同時に水のドームが消滅した。


「フィンナ姉様っ」


 エスティが叫ぶ。


「……グレン」


 フィンナは顔を背後に向けて呟いた。グレンが歩いて来るのが見える。


「フィンナ様!」


 ゼイズがフィンナのほうを向いた。リュードはその隙を突いて、ゼイズの頭に手を当てた。ゼイズが驚いて振り向いた。


「よそ見をすると命を落すよ」


 爆炎がゼイズの頭を覆った。糸の切れた人形のようにゼイズが吹き飛ぶ。


「もう……いや」


 ミランから解放されたエスティが、その場に座りこんだ。固く目を閉じて、耳を手で被っている。ゼイズの悲鳴はそれでもエスティの耳に入り込んできた。


「リュード。グレンに何をしたの」


 地面にしゃがみこんだままフィンナは訊いた。フィンナを囲むように三人が立っていた。


「ほんの少し、意識を封じさせてもらっただけだよ。命に別状はない。それにしても、さすがに君は騙せなかったな。できれば、手荒なことはしたくなかったんだが」


 リュードは笑ってみせた。


「エスティをどうするつもり?」

「父上に渡すなどと莫迦な真似はしないから、安心してくれていい。しかし、ここまできてエスティの心配とは感心だね。自分の心配はしなくていいのかい?」


 リュードの声に冷たい響きが混じった。


「私を殺す?」


 挑むようにリュードを見つめた。リュードはそれを笑顔で受け流した。


「殺しはしないよ。君は証人になってもらわないといけないからね」

「証人? 何のことを言ってるの?」

「じき、わかるよ。君も一緒に来てもらわないとね。それにしても……」


 リュードは改めて周りを見回した。


「何があったのかは知らないが、ルキフォとかいう少年は本当にいないようだね。どこかに隠れていると思って警戒していたんだけど。

 あのバッシュを倒すほどの実力がありながら、その名を今までに聞いたことがない。おまけに妙な術法を使う。予測できない未知なものほど怖いものはないからね」


 リュードの合図で、グレンがフィンナを抱える。優しさのない囚人を扱うかのような抱え方だ。

 そんな接し方を恋人にされて、フィンナは悔しかった。だが唇を噛んで耐える。自分ひとりになった今、ヘタに動くことはできない。


「さあ、エスティ。行くよ」


 エスティのそばに立って、リュードが言った。エスティは何も答えずに首を振る。


「だめだよ。こんな所にいてもしようがないんだ。いい娘だから、ね?」


 言葉はあくまで優しかった。リュードはエスティに触れようと手を伸ばす。


「!?」


 その手のすぐそばを光が掠めた。

 リュード、ミラン、フィンナの三人が、光の飛んできた方向を向いた。壊れた門を通って、一人の少年がこちらに向かって歩いている。短く刈り込んだ黒髪。日焼けした浅黒い顔に、意志の強い黒の瞳があった。その足下には銀色の毛並みの猫に似た小動物がいる。


「ルキフォ!?」


 フィンナが叫んだ。その声を聞いてエスティが顔を上げた。ルキフォを見るエスティの瞳に、見る間に涙が溜っていく。


「途中で見失ったからどうしようって思ったけど、なんとか間にあったみたいだな」


 多少息を切らしながらルキフォが言った。


「ルキフォ……」


 ルキフォがエスティを見た。


「よく泣くな、エスティは」


 ルキフォが笑顔をエスティに向けた。


「莫迦っ。ルキフォの莫迦。何も言わないでいなくちゃうんだから。約束破って、許さないんだからっ」


 今までと違い、エスティの声にはどこか落ち着いた響きがあった。ルキフォが来たことで安心しているのだ。


「ごめん。今度こそ君を守るよ、エスティ。俺は、もう後悔しないって決めたんだから」


 ルキフォの言葉をリュードは面白くなさそうに聞いていた。


「君がルキフォか。遅い登場もフィンナの差し金……というわけじゃなさそうだね」


 リュードが鋭い目をルキフォに向けた。


「あんたは?」


 ルキフォはそれを真っ向から受けとめる。


「これは失礼。僕は精火門のリュードだ。君は何か勘違いをしている。僕はエスティの味方だ。そうだろ、エスティ?」


 エスティは肯定も否定もしない。戸惑うような視線をルキフォに向けるのみだ。


「悪いけど、色々と知恵をつけてもらったんでね。エスティ、こっちにおいで」


 エスティはルキフォの言葉に素直に反応した。ゆっくりと立ち上がって、ルキフォの所へ歩こうとする。リュードはそれを掴んで止めた。


「仕方ない。グレン、その少年を殺せ」

「リュード!?」


 エスティは信じられないといった表情でリュードを見た。


「エスティ、君が悪いんだ。君が僕を信じてくれないからこうなるんだよ」


 リュードの声が冷たい。

 グレンはフィンナを放り出し、ルキフォに向かって腕を振った。炎が伸びてルキフォを襲う。ルキフォは後ろに跳びのいた。


「兄様、やめてっ」

「兄様だって!?」


 エスティの言葉を聞いて、反撃しようとしたルキフォの動きが止まった。その隙に、グレンの炎がルキフォの回りに立ちはだかる。


「ミラン退くぞ」


 抵抗するエスティをかかえて、リュードはルキフォから離れていく。ミランがその後に続いた。


「くそっ」


 エスティの兄と聞いて、ルキフォは反撃できない。炎は容赦なくルキフォを襲う。隙を見てリュードを追いかけるつもりだったが、これでは無理だ。

 水の流れがグレンを包んだ。突然のことに体制を崩し、グレンの攻撃が止まった。


「ルキフォ。ここは私がくい止めるから早く追いかけて。エスティを取り戻して」


 フィンナは立ち上り、グレンを見ていた。


「でも、その怪我じゃ……」

「いいから、早く!」

「……フィンナさん。俺、あなたに嘘をつきました。最初からこうやって追いかけるつもりだったんです。すみません」

「いいのよ。多分、私のほうが間違っていたのよ。正直言って、貴方が来てくれてほっとしているわ。エスティの大事なお兄さんは見てのとおり。今、あの娘を支えてあげれるのは貴方しかいないわ。私やリュードじゃないの。だから行って!」


 ルキフォは逡巡し、一瞬だけフィンナを見て走り出した。グレンがそれを止めようと、火炎弾を撃った。水槍が伸び火炎弾を撃ち落す。


「グレン、貴方の相手は私よ」


 水でグレンを牽制し、フィンナは恋人の前に回り込んだ。その隙にルキフォは走り去る。


「やっと二人だけになれたわね。手加減はしないわよ」


 フィンナは艶やかに笑った。

 グレンが自身の周りに炎をおこした。フィンナもそれに応えて水を纏う。

 グレンの炎が幾つもの火鞭となってフィンナに向かった。それをフィンナは水の刃で斬り裂いた。すぐにフィンナの水がグレンを襲いはじめる。グレンの足下を狙い何度も地面をえぐった。

 そして足下ばかりを狙っていた水の刃のひとつが、狙いをグレンの顔へと急転換する。グレンは僅かに遅れて顔をそらす。刃に引っかかって、額に巻かれた包帯がほどけた。


 グレンの額、ちょうど包帯で隠すように銀色の頭環が見えた。

 恋人のしている見慣れない装飾品を見て、フィンナの目が光る。彼女の勘が正しければ、あれは魔導具だ。

 個人で持ち運べる魔導具は元素術に対抗できるほどの機能は期待できない。だから自信はなかったが、グレンは装飾品を嫌っており式典以外で身につけることはない。


「原因はそれかしら? そんなものに操られるなんて、ちょっと抜けてるわよ、グレン」


 グレンの足が止まった。グレンの足をフィンナの水が捕らえたのだ。


「ちょっと注意が逸れただけで捕まるなんて、ホント抜けてるわね。一気に片をつけさせてもらうわ。

 開け元素界の門」


 フィンナの言葉に応じて、背後に輝く円が現れた。複雑な紋印の放つ強い光が辺りを照らす。グレンを見つめるフィンナ表情が哀しそうに歪んだ。そして、意を決したように、口から詠誦が流れた。


【元素界より来たる水の元精霊よ

 汝らの力我が前に示し我に貸し与えよ

 水の穏やかなる流れは総てを包み

 水の猛き流れはさらなる力を生む

 廻りたる水の強き力よ

 我の望む牙となれ!】


 フィンナの纏う水が幾つもの渦を巻き天を貫いた。そして、その渦は互いに掠めるようにしてくっつきあいながらグレンへと向かった。グレンはその場に立ち尽くしたまま、ぴくりとも動かない。

 フィンナの表情が一瞬歪む。

 幾つもの渦が集まった水の流れは、大地を削りながらグレンを飲み込んだ。

 水が巻き起こす嵐は、数秒ほど続いて消えた。細かい水が霧雨のように辺りに降り注いだ。その中にグレンの姿があった。グレンの額からは血が流れていた。血は頭環の下から流れ出ているようだった。

 ゆっくりとフィンナの所に歩きだす。その足取りはしっかりしていた。血の量からしても額の怪我は軽傷といえるだろう。

 フィンナはそんなグレンを見つめ、力なく微笑んだ。


「あなたを殺す覚悟で放ったのに、駄目ね。最後の最後で迷ってしまった。

 私の負けよ」


 そのまま目を閉じて、フィンナは気絶してしまった。水の中を落ちるようにゆっくりとフィンナは倒れていく。グレンがそれを抱き止めた。

 フィンナの頬をグレンの手が優しく撫でる。


「…………」


 グレンが何か呟いた。そしてフィンナの額に、そっと口づけをした。


        ★


 リュードたちは倒壊した館を離れ、北へと向かっていた。その後ろをルキフォが追いかける。リュードとの距離は、少しずつ縮まりつつあった。


「追ってきているな。グレンがしくじったか」

「リュード様。私がくい止めます」


 離れようとするミランをリュードが止めた。


「待て。もう少し先に父上の送った部隊が待機しているはずだ」

「レストーグ様の?」

「ああ。息子が信用できないらしい。まぁ、もっともなことだけどね」


 赤毛の青年は自嘲ぎみに呟いた。


「そこで片をつけよう」

「しかし、それではエスティ様をお父上に渡すことになりますが……」

「なに、僕がここにいることは話してあるんだ。いまさら隠しても仕方がない。それに、フィンナがもっと人数を連れてくれば、父上の部隊も利用するつもりだったからね。大丈夫。先のことは考えてある」


 エスティは激しく抵抗して、リュードの足を少しでも遅らせようとする。


「エスティ、あまりにも聞き分けがないと、眠ってもらうことになるよ」


 リュードの言葉に応じることなく、エスティはますます抵抗を強めた。


「仕方ない」


 リュードがエスティの後頭部に軽く、自由な方の手を当てた。リュードの指に嵌められた指輪が光り少女の頭を包む。その途端、エスティの体から力が抜けた。

 二人は遥か下層に川の流れる絶壁にたどり着いた。そこから対岸の絶壁まで、岩が天然の橋を形づくっている。大人三人が並んで歩けるほどの横幅だ。その中ほどに立ち止まり、リュードは振り返った。ルキフォが橋に足を踏み入れた。


「リュード様? こんなところに立ち止まっては……」

「ミラン僕が合図をしたら、空中に逃がしてくれ」


 ミランの言葉をリュードが遮った。

 約二メートルの距離をおいて、ルキフォがリュードと対峙した。


「エスティを返せ」


 ルキフォが一歩、前に出た。


「しつこいな君も。グレンはどうした?」


 館の方角から轟音が響いた。


「なるほど、フィンナがくい止めたか」

「さあ、エスティを離すんだ」


 ルキフォの手に光が集まった。


「バッシュを倒した手並みを拝見したいところだが、残念ながら急がないといけないんだ。すまないねルキフォ君。ミラン!」


 リュードたちの体が空へ向かって飛んだ。


「〝貫く光の牙〟」


 特殊な発声による解放の言葉と共に、ルキフォは光の矢を放つ。だが、ミランの操る風に包まれたリュードたちは、予想外の速度でルキフォの術を避ける。


「なるほど。それが君の使う術法か。非常に興味深いんだが、君にはここで死んでもらう」


 リュードの言葉に合わせたように、対岸に十数名の人間が現れた。そこから一斉に火炎弾がルキフォに向かって放たれた。


「!? 〝守護する光の瞳〟」


 ルキフォは咄嗟に光の障壁を張って防御する。しかし、十数もの火炎弾はルキフォではなく、岩の橋へと吸いこまれた。


「しまっ……!」


 橋が衝撃で崩れていく。防御のみを考えていたため、岸に飛ぶタイミングを完全に外してしまった。ルキフォはなすすべもなく、遥か下へと落ちていく。


「これで、障害はすべてなくなった」


 ルキフォの姿が見えなくなると、リュードは満足気に呟いた。

 リュードが岸に降り立った時、対岸にグレンが現れた。フィンナを抱えている。


「ミラン運んでやってくれ」


 風に包まれてグレンがやって来る。


「てこずったね。フィンナは殺したのかい?」

「いや、気絶しているだけだ」


 グレンは無表情に答えた。

 リュードはそんなグレンを見つめる。


「怪我をしたのか?」


 リュードの目は、グレンの額に巻かれた包帯で止まった。包帯には血が滲んでいる。


「心配ない。掠り傷だ」


 フィンナを抱えたまま、グレンは言う。

 リュードはしばらくグレンを見つめ、それから気を失っているエスティに視線を移した。


「あとは最後の仕上げをするだけだ。エスティ。君はもう、何も心配しなくていいんだ。〝兄〟ではなく、この僕が救ってみせる」


 地面に横たえられたエスティに向かってリュードは呟く。その瞳には真摯だが、どこか冷たく昏い光が浮かんでいた。

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