第5話 * 笑わない幼馴染・緋鉈葵

 二人一緒の朝食を終えて、二人揃って歯磨きをして、胡蝶にネクタイを直してもらって家を出る。すると、我が家のインターホンの前で逡巡する少女を見つけた。


 新緑のブレザーと真紅のリボンが僕らの行き先が同様であることを示している。それは近所の誰が見ても明らかだ。そもそも近所という話であれば彼女が僕の家の前にいることを不審に思う人はいないだろう。なんせ彼女こそ僕のお隣さんだ。

 冬服で暑くないのか聞いてみても「ブレザーの方が好きだから」と返ってくるのがわかっているから何も言わない。

 コンプレックスを隠したいと思うのは全人類共通だし、僕にとって重要なのは彼女が掛け替えのない幼馴染であることだけだ。


 緋鉈葵ひなたあおい

 昨日、僕に告白してくれた少女の一人。


 僕と胡蝶が玄関から出てきたことで、葵は立ち止まって明後日の方向へ目を逸らした。


「お、おはよう。蒼斗」

 目を逸らしたままで挨拶をする葵に精一杯微笑む。


「うん、おはよう。あおい


 小さな背丈で俯かれると目の上で切り揃えられた前髪が明るい色の瞳を隠す。腰まで伸びた後髪が彼女の印象を昔以上に日本人形らしく、愛らしさと怪しさを助長していた。

 胡蝶がふわりと頭を下げる。

「おはようございます、緋鉈ひなたさん」


「……おはよ」

 葵は胡蝶には見向きもせず、不愛想に僕を見上げた。


「ね、ねえ、蒼斗、あのことなんだけど。あ、別に急かしてるわけじゃないのよ? ただ、ほら、わからないのってやっぱり不安じゃない?」


 涙袋の目立つ大きな瞳が僕を見上げていた。母親を真似てクールでミステリアスな雰囲気を醸し出したい彼女はあまり笑顔を見せたがらないけど、今は苦し紛れの笑窪えくぼが僕への期待をのぞかせている。僕と胡蝶が一緒にでかける姿はどれだけ彼女を不安にさせただろう。


「わかってる。今日中には答えを出すよ」


 そっと撫でた葵の黒髪は絹のように滑らかで、アスターよりも真っ直ぐだった。びくりと震えて、けれど僕の手に縋るようで、僕は逃げるように歩き出した。雲行きは曖昧で怪しいけれど晴れている。


 彼女を傷つけたくなくて、けれど誰かを傷つけなくてはいけない。誰かを選ぶということは誰かを選ばないということで、誰かに対して誠実であることは誰かに対する不誠実になりえる。だから、僕は未だに誠実と不誠実の間にいる。どちらかといえば不誠実だろうか。だとしても、こうして悩むことはきっと誠実だ。


 曖昧な自分に見切りをつけて前を見る。すると隣を歩く胡蝶が「鍵、閉めておきましたよ」という。僕は今や癖になってしまった確認をする。几帳面に並んでいるはずの玄関前の植木鉢がずれていた。葵に微笑む。


「葵。鍵、戻しといてくれる?」


 胡蝶と違って合鍵を持たない葵は不服そうに「で、でも、アタシの方が先に帰ってくるかもしれないし、アタシが持ってても蒼斗は困らないでしょ?」と我が家の鍵を宝物のように握りしめた。


 溜め息をぐっと飲み込んで、笑顔を備えて葵を諭す。


「たしかに。僕は放課後に予定があるし一緒に帰れるとも限らない。でもね、こういうのはハッキリさせておかないといけない。鍵が誰のものか、どこにあるのかわからなくなるかもしれない。葵も自分の大切なものが自分の手を離れていたら、どこにあるかくらいは知っておきたいだろう? ひとまず今は鍵を戻しておいてくれないかな?」


「……わかった」

 葵は名残惜しそうに鍵をずれた植木鉢の下に戻した。胡蝶がそれを几帳面に並べ直し、その間に葵が胡蝶の場所を奪うみたいに僕の隣に並んでワイシャツの裾を掴んだ。


 反対側に並んだ胡蝶が葵の肩に手を伸ばした。

「緋鉈さん。肩に埃が」


「え、あ、ほんとだ――一昨日ベッドの下に入ったときに付いちゃったのかな」

「おいおい、ベッドの下で寝る奴があるかよ」

「あ、あはは、そうね、気を付ける」


 ――時折、僕の私物が家の中から失せるのは葵の仕業なのではないかと疑うことがある。僕が帰ったときに葵が僕の部屋で僕を待っていたようなことも一度や二度ではない。でも困っているというほどでもないし、待っていてくれる人がいるというのは悪くない。失くしたものもしばらくすれば見つかるから、大事おおごとにしても仕方ないかなと放置を決め込んでいる。


 葵なら仕方ない。

 幼馴染のよしみというか、そういうこともあるだろうと納得できてしまうのだ。昨日、家で待ち受けるアスターに対しても平静を装ってカッコつけられたこともかんがみれば感謝の一つくらいはしてもいいかもしれない。

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