モノクローム1

 出会った時は、まさかこんな事になるとは思いもしなかった。

 きっと、お互いに。




 高槻が初めて竜平と出会ったのは今から4年ほど前。高槻がまだ教師になりたての、熱い夏の最中だった。

 竜平はまだ小学生で、童顔好きの高槻といえど、さすがにストライクゾーン外である。

 ただ純粋に、二人はそこで偶然出会ったのだ。




 教師になって初めての夏休みだった。

 が、学生の頃のような浮かれた気分になることは全くなかった。

 教師になっておよそ4ヶ月、自分が教師に向かない事を痛切に感じていた。

 夏休みで生徒に会う事がない、そのことに何より安堵していたが、先の見えない自分にふさぎ込む毎日だ。

 その日はとても暑かった。

 空は晴れ渡り、ギラギラとした太陽の光が容赦なく照りつける。

 冷房のきいた家にこもっていると、そのまま堕落した自分になってしまいそうな気がして、敢えて外出する事にした。


 行く宛てもなく歩き、そして川沿いの土手に寝転んだ。

 草が肌をくすぐるが、意外に冷たくて気持ちがいい。

 眩しくて目を閉じれば、草と土の匂いが鼻をくすぐる。

 軽く気分が解れるのを感じる。


 そういえばこのところ、教師という仕事に必死で植物に触れていなかった。

 植物が好きで、ずっとそれに関わって生きてきたというのに。


 生物の教師になれば、そのまま植物とかかわりながら生きていけると思っていた。

 我ながら、浅はかだったと思う。

 生物教師の仕事相手は植物でなく人間なのだ。

 植物にばかり向き合ってきた研究室とはまるで違う日々だ。

 手を伸ばした先にある雑草を一本ちぎり、高槻は愛おしげにそれを指の腹で撫でる。


 人付き合いが苦手なわけではない。

 高校生の相手なんて、普通にできると思っていた。

 けれど、教師と生徒という関係は、思っていた以上に特殊だった。

 何に対しても深くのめり込んでしまう高槻の性格は、研究者向きではあるけれど教師向きではない。

 不公平、過干渉、依怙贔屓、エロ教師、うざい。

 普通に接していただけのつもりだったのに、返ってくるのはこんな言葉ばかり。

 教師というのは、もっと浅く広く公平にしなければいけないものなのだろうか。

 個人同士の感情をぶつけてはいけないのだろうか。

 生徒に深く関わる事は、いけないことなのだろうか。


 友達とは違う。

 望まれてはいないのだ。


 とまどい、失望し、行く先を見失っていた。

 浅い上辺だけの付き合いなんて、高槻の性格上無理なのだ。

 無意識に、深い所を追求しようとしてしまう。

 それは高槻の本能ともいうべき性質だった。

 知らないものを相手にどう対処したらいいのか、高槻にはわからない。だから深く知ろうとする。

 知りたいと思うのは、人間として当然の欲求だと高槻は思うのだが、世間一般はそうでもないらしい。

 適度に付き合い、適度に合わせ、適当な所で妥協する。

 そういう力の抜き具合が、どうも高槻にはうまくできないのだ。


 やめてしまおうかな、とも思う。

 けれど、根性がないと思われるのも癪である。

 教師という仕事に対しても深くを求めてしまうその狭間で身動きがとれなくなっていた。


 開いた掌から、草が風にさらわれていく。

 大きく溜息を吐き、空っぽになった両手で顔を塞いだ。





 それから、どれぐらいの間そうしていただろうか。

 そう長い間ではなかったと思うのだが、手を退けて目をあけると、目の前に子供の顔があって、高槻は驚いて声を上げた。

 寝転がる高槻を頭の上から覗き込むようにして、逆さまになった顔が目前にいきなり現れたのだ。


「お兄さんどうしたの?」


 高槻と目が合うと、少年は心配そうな顔でそう言った。

 具合が悪くて倒れているとでも思ったのだろうか。


 高槻は体を起こして少年を見る。

 膝丈の短パンにシンプルなボーダーのTシャツを来た可愛らしい顔の男の子で、人懐っこそうなくりっとした目が印象的だ。

 年の頃は、小学校3、4年といったところだろうか。


「あんまり知らない人に話し掛けるものじゃないよ。物騒な世の中だからね」

「お兄さんは悪い人?違うよね。だって、泣きそうな顔してたもん」


 今時の子供にしては珍しく、真直ぐな目をしていた。


「そう、か?」


 見知らぬ少年に心配されるほど、ひどい顔をしていたのか。

 自分の不甲斐無さに愕然とする。


「うん」


 少年は頷き、何を思ったのか高槻の隣に自分も腰を下ろした。


「何?」

「お話、聞いてあげる。俺、暇だから」


 こんな子供相手に人生相談もないだろうと思ったが、暇な子供の相手ぐらいしてやってもいいかなという気になる。

 なんとなく、そんな自然な雰囲気なのだ。不思議な子供だ。


「ぼく、何年生?」

「ぼくじゃないよ、俺、竜平。6年生」

「6年?」

「あ、今、チビだって思ったね?」


 高槻のような反応には慣れているのか、竜平はわざとらしく頬を膨らませた。

 背が小さい事もそうだが、顔つきもずいぶん実年齢より幼く見える。

 妙に大人びた子供が増えている中、こういう子を見ると少し安心するのはなぜだろうか。


「ごめん、思ったよ。大丈夫だよ、すぐに大きくなる。男の子はまだこれからだ」

「そうかな。お兄さんみたいにカッコ良くなる?」

「さあ、それはどうかな」

「えーっ」


 大袈裟に悲愴感を漂わせる竜平のリアクションに、思わず笑みがこぼれる。

 一度笑ってしまうと、堰が切れたように笑いたい衝動が溢れだし、高槻は声を出して笑った。

 一体、いつ以来だろう、こんなふうに笑ったのは。

 いつしか高槻は、笑う事を忘れてしまっていたのかもしれない。


「竜平は、学校好き?」

「うん、好きだよ。友達いるもん」

「そっか」


 高槻の学校には今、友達などいない。

 教師同士の付き合いもさっぱりしたもので、プライベートな付き合いをするような仲間は一人もいなかった。

 みんなが壁を立てている、そんな気がする。

 昔からの友人にも、このところ会っていない。

 高槻のプライドが、友人に泣きつく事を拒絶するのだ。

 誰かに相談できれば、もっと楽になるのだろうけれど。


(相談…か)


 ちらりと隣の少年を見やる。


「先生は、好きか?」

「学校の先生?んー、あんまり好きじゃないかな」

「どうして?」

「なんか、よくわかんないけど、好きだと思えるほど喋ったりとかしないし、勉強もそんなに得意な方じゃないから」

「そっか」


 やはり、そんなものなのかと思う。

 小学生でこれなのだから、高校生にもなればそれはもっと顕著にあらわれるだろう。

 先生と生徒の距離は、近いようで、果てしなく遠い。


「実は俺も先生なんだよ」


 告白すると、竜平は丸い目をもっと丸くした。


「全然先生っぽくないね」

「まだ新米だからね」

「こんなカッコイイ先生いたら、人気者じゃん」

「だったらよかったんだけど」


 顔で教師は勤まらないのだ。

 最初の頃はずいぶん女子生徒から黄色い声もかけられたのだけれど。

 一月も経つ頃にはなくなっていた。

 問題アリの教師だとの認識が広まったのだ。


「何の先生なの?」

「高校生に生物を教えている」

「生物って、理科?」

「そうだよ。得意分野は植物系だね」

「へーえ。ねえ、じゃあさ」


 竜平は身を乗り出して近くにある小さな黄色い花を指差した。


「ああいう雑草の名前とかわかるの?」

「わかるよ。あれはミヤコグサ。あっちのがタチカタバミで、あのむこうにあるのがシロザ」

「すごーい。何でもわかるの?ねえ、あれは?こっちのは?」


 もともとそういうものに興味があったのかどうかはわからないが、竜平は見当たるもの全ての名前を次々と聞いてくる。

 さすがに全部完璧にとはいかないまでも、知識を総動員して高槻はそれらに答えていった。


「すごいね」


 好奇心に溢れたキラキラした目が高槻を見つめる。


「こんな先生だったら尊敬できるのに」


 知りたい事を教わる事が、どんなに気持ちが良いものなのか、竜平の顔がそれを表していた。


(こんな生徒ばかりなら、俺の教師生活もずいぶん違うものになったかもしれない)


 いや、生徒が一人一人多種多様なのは当然の事で、こういう生徒に出会う事がなかったのが高槻の不運だったのだろう。

 一人でも、こんな生徒がいたのなら、高槻の考え方も変わっていたに違いない。

 こういう事がしたかったのだと、今竜平の顔を見てはっきりとわかった。

 適当な動機ではあったけれど、教師になろうと思った自分の、何となく心に思い描いていたものが、ようやく見えた気がした。

 こうして「知りたい」と思う気持ちを満たしてあげられる人になりたかったのだ。

 かつて自分がそうしてきたように、この欲求を満たす喜びを味わって欲しくて。

 自分の中にある知識を、その役に立てて欲しいと、そう思ったのだ。


「ありがとう、竜平」


 これで自分は教師を続けられると、高槻は確信していた。

 好奇心の強い生徒に出会い、自分の持てる知識を伝えるまでは、やめられない。

 知的好奇心の薄い今の若者たちの中に、そんな人材を発見したいと、そう思ってしまったから。

 頭を撫でられた竜平は、何のお礼を言われたのかわからずきょとんとしていたが、やがて嬉しそうにえへへと笑った。





 ただそれだけの出会いが、人の人生を変える事もある。

 あの夏の日から4年。

 高槻は今でも高校教師を続けていた。

 自分を必要とする生徒に出会うために。

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