第20話 かかりはじめた洗脳

 愛美がトマトの茎の間から、人魂が出たという塀を指さした。

「思わず叫んじゃったから、天野先生に見つかって」


 その後、愛美は天野から一晩中、魔の恐ろしさについて説かれたという。


 今の状態で魔に憑かれたら、運を失い、不幸が続く。病気や事故、自殺の形で命を落とすこともあり得る、と。


 以前、自然庵に来たものの信じ切ることができずに途中で帰った女性は、自分の髪が蛇になって襲ってくる幻覚を見て、自慢の長髪を発作的に削ぎ落とし、さらに腕の血管も蛇に見えるといって剃刀で切ってしまった。何度か加持をしていたから、命は取り留めた。


 あなたも今ここを出たら、同じような目に遭ってしまう。あなたを守るためにここへ留めているのに、どうしてわからないのだ! 


 天野は、そんなふうに愛美を脅したり叱責したりしたという。


「あたし、もう、怖いやら、どうしていいかわからないやらで、ずっと泣いてた」

 一畝の草を引き終えた愛美が、隣の畝に移動する。織田もあわててあとを追う。


「明け方、泣き疲れたあたしに、天野先生が言ったの。『愛美さんをみすみす見殺しにしたくないから、厳しいことを言っているのだよ。私は、迷えるあなたを守りたいだけなのだ』って」


 相手が軟化の姿勢を見せたので、愛美は「両親が心配しないように、きちんと連絡させてください」と主張した。


 電話だと電磁波を通って魔がやってくるから、手紙なら、という話になった。


 愛美は知恵を絞ってSOSのメッセージを織り込み、脱出しても魔に襲われないよう、神主である司にそれが渡るようにした。神道のはらえで魔を追い払ってもらえるかも、と思ったからだ。


「しばらくは、何を信じていいかわからなかった。天野先生はインチキ霊能者で、あたしを軟禁しようとしてるのかもって不安も拭いきれなかった。でも、今は」

 愛美がかすかに微笑んでいる。


「天野先生の言う『魔』は本当にいて、世間の人たちにはそれがわからないだけかも。先生は、あたしたちを守ってくれる、すごい人なのかもって、思えてきたの」


 織田は、引いた草を右手に持ったまま、茫然とした。

 洗脳がかかり始めている。来るのが遅かったか。


 愛美が振り向いたまま続ける。

「脱走未遂をしたあと、先生に言われたの。『私のことを疑うのは、まだ心が育っていないからだ。真剣に瞑想をして、私の法話をきちんと聞きなさい。私の言うとおりに行動することで、私の思考をトレースしなさい。そうすれば、わかるから』って。不安の原因を知りたいからその通りにしたら、だんだん先生のことを信じられるようになってきた」


 まずい、何か突破口を見つけなければ。

 織田は考えを巡らせながら、愛美の話に聞き入った。


「さくらちゃんも、陶子さんの話、聞いたでしょ。普通だったら、適当に話を合わせて放っておくのに、天野先生は、毎日メールや書き込みに返信して、ここに住み込み始めてからも、少しずつ社会復帰できるように諭して、立派だと思わない? きっと先生は、一生懸命過ぎる人なのよ。ときどきそれが暴走するだけで」


 愛美が眉根を寄せたのを、織田は見逃さなかった。


「暴走、するの?」


 しまった、という表情をして、愛美が硬直する。織田は重ねて、何かあったんですか、と訊ねた。


「天野先生、ときどき怖いの」

 愛美がうつむいて、ぽつんと言う。


「自分の意見に反対されると、人が変わったみたいに怒ることがあるの。亜矢さん──会社にお勤めしてて夜遅くに帰ってくる人なんだけど、よく怒られてる。天野先生が応援している政治家のことを悪く言ったとか、女のくせにでしゃばりだとか、そういうことで怒鳴られて、頭を叩かれるの」


 僧籍を持っているくせに、暴力を振るうとは。しかも今どき「女のくせに」だなんて。織田は思わず、引いた草を地面に叩きつけて声を荒らげた。


「なにそれ。許せない!」


 愛美が人差し指を唇にあてて、声を落とすよう注意する。織田はそっと立ち上がり、陶子の姿を確認する。こちらの様子には気づいていないようだ。


「すみません。でも、それってひどくないですか?」

 織田の語気の荒さに戸惑ったのか、愛美がフォローし始める。


「でも、きっと天野先生は、亜矢さんが天狗にならないように釘を刺しているだけなのよ。ここの生活費は、ほとんど亜矢さんの喜捨から出ているの。そのことで思い上がらず謙虚に生きるよう、夕貴さん曰く、愛の鞭を振るっているだけだって。亜矢さんは父性に飢えていて、強く叱られるのが嬉しいから構わないんだって」


 愛の鞭なんて言葉を、実生活で聞いたのは初めてだ。織田は、念のために訊ねた。


「愛美さんは、暴力を振るわれたことは? 言葉の暴力も含めて」


 沈黙を、蚊の鳴き声が破る。織田は手を振り回して蚊を追い払い、重ねて訊いた。


「即答できないってことは、あるんですね」

 愛美がうなずく。


「さっきの話で、健さん──あたしのカレに調伏法ちょうぶくほうを修するってのがあったでしょ。あのとき、ちょっと脅された。そんなに頑なに反対するのは、お前も魔に憑かれているからだろう。一緒に調伏してやるぞって」


 天野という人物が、わからなくなってくる。「ひどい」と織田がつぶやくと、またしても愛美がかばい始めた。


「でも、でもね。調伏って、相手を呪殺するだけじゃないのよ。心の棘を取って改心させるものだから」

「愛美さん、落ち着いて。あの人のことを悪く言ったからって、魔が襲ってきたり、調伏されたりするわけじゃないから」


 織田は、愛美の肩に手を触れてなだめた。

 彼女の心は揺れている。天野を信じたことにしてしまえば怖い目に合わずに済むから、そう思い込もうとしているのだろう。


 愛美がおびえた顔で言う。

「でも、調伏って怖いのよ。前に天野先生が言ってた。行者仲間の一人が、檀家離れが激しいから調伏法を修したら、二人死んだって。それであわてて檀家さんたちが戻って来たって」


 檀家離れ対策として行を修し人が死んだ、真偽はともかくそんなことを話しフォローもしない天野に、織田は疑念を抱いた。


「愛美さん、本当は、あの人を信用できないって思ってるんでしょ。……今夜、ここを脱出しましょう。大丈夫、魔とか調伏なんてハッタリだし、万一のことがあっても、司さんが助けてくれるから。なんたって本職の神主さんなんだし」


 織田が言うと、愛美は目を逸らした。

「でも、司兄ちゃんだと、やっぱり頼りないかも……。いい人なんだけど、天野先生には負けちゃいそう」


 愛美のために一肌脱いだのに「頼りない」呼ばわりされる司が、かわいそうになってくる。


 とはいえ、織田にも一抹の不安はある。神主としての司はあまり知らないが、愛美の洗脳を解いて安心させることができるのだろうか。そして、もし天野の言う魔や調伏が、嘘ごとではなくリアルなものだったら。


 不安を打ち消すように、織田は続けた。

「司さんの後ろには、神様がついているの。お守りももらったでしょう。だから、絶対大丈夫!」

「でも」


 ──もう、何回「でも」を言うのよ、この子は!


 織田は心の中で叫びながら、ため息をついた。

「じゃあ、こうしましょう。今夜は私一人で抜け出します。司さんと坂口社長──司さんの従兄に、自然庵の情報を伝えたら、ここに帰ってきます。もし、外の世界に出れば魔に襲われるっていうんなら、私は無事に戻れない。逆に魔なんて嘘だったら、何食わぬ顔で帰ってくる」


 問いかけるように見つめると、愛美がうなずいた。


「もし私が今晩帰ることができたら、明日の夜、一緒に脱出しましょう。……それでいいです?」


 でも、と言いかけた愛美に、織田は力強く「いいですね?」と畳みかけた。

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