葉桜の君に

泡沫 希生

「彼女」は桜花が好きだった。

 水色の桜が咲き乱れる公園で桜子を見かけた時、葉太は最初彼女であると気づかなかった。

 いや、正しく言えば、いつも見る彼女とは様子が違ったから、彼女だと思えなかった。

 桜子は今年、葉太が担任することになった新入生だ。入学してまだ数日だが、葉太は彼女のことをしっかりと記憶している。

 背中にさらりと流れる茶髪、特徴的な赤色の目。見間違えるはずがない。ローブの制服姿で見慣れているためか、赤いスカートを着ている姿が新鮮に感じられる。

 彼女は静かに、公園で一番太い桜を見上げている。


 春に咲くカナタ国の桜は、その水色の美しさで有名だ。公園の桜は満開を迎えていて、空の青よりもずっと淡い桜の花は、今にも雲になって溶けていくかのように儚い。花を透かして枝の茶色が見え隠れする。

 公園には多くの人がいて、その美しさを眺めている。等間隔に植えられた桜に沿うように、思い思いに緑の草地を歩いていく。

 彼らは桜に向かって宙に四角を指で描き、囲った通りに作り出される絵を眺めては、目の前の本物と見比べている。気にくわなければ、魔法を解除して絵を消す。気に入ったら絵を鞄に入れる。

 葉太は、そうやって絵画魔法で桜を見るのはあまり好きではない。


『桜の美しさはね、目で見て記憶にとどめて、その美しさを思い返すのがいい。絵の桜を楽しむのは好きじゃないの。散ってしまう桜の潔さに、申し訳ないと思うから』


 そう言った人のことを、思い出しかけて振り払うように頭を振る。彼の黒髪が左右に揺れて、止まる。

 改めて桜子に視線を向け、声をかけるべきか迷う。葉太がそんなに迷うほど、今日の彼女はいつもと違って見える。

 学院での桜子は、親しみやすい生徒だ。

 頑張りすぎているのではと思うほど明るく、入学してから数日にも関わらず友達も多くいる。級長にも一番に手をあげてくれた。

 しかし、今の彼女にそんな明るさは見受けられない。桜を見つめる瞳は、暗く疲れきっているようでいつものような煌めきがない。

 見てはならない彼女の側面を見てしまっているような――そんな気が、葉太にはしていた。

 少し考えてから、ここは気づかなかったことにしようと、彼女に背を向けて帰ることにした。


 と、その時、不意に強い風が吹いた。

 桜の木から水色の花が離れ、辺りに桜の雨が降る。その美しさに、思わず動かしかけた足を止める。

 桜子もその雨を追って、葉太のいる方に顔を向けると彼に気づいた。彼女の桃色の唇が『先生』と動く。

 こうなっては無視した方が問題になる。葉太は今気づいたような驚いた顔を作り、彼女に近づいた。

 葉太が前まで来ると、桜子は「先生、こんにちは」ときっちり挨拶をした。顔を上げた時には、明るい笑みを浮かべていて、先ほどまでの様子は見間違えであるようにも思えてくる。


「こんにちは春川さん。桜を見に来たの?」


 桜子ははっきりした声で「はい」と答える。それから、首をほんの少し傾けながら葉太を見上げた。


「先生はよく、ここの桜を見に来るんですか」

「うん、毎年見ることにしてる」

「そうですか。私は、学院寮の先輩たちが、ここの桜が綺麗だと勧めてきたので見に来てみたんですよ」


 彼女の話に、葉太は桜を改めて見上げた。


「他の地域では知られてないけど、この辺りじゃ、ここの桜は有名だからね」

「先生はやっぱり、桜の花が好きですか?」

「好きだよ」

「ですよね」


 桜子は、なぜか口を引き結んでいる。その様子が引っかかって、葉太は優しく問いかける。


「春川さんも、桜が好きだから見に来たんだよね?」

「はいっ。けど」


 元気よく答えてから、彼女は迷うように首をひねった。ほんの一瞬、足元に落ちている花びらを見つめてから、もう一度葉太に目を向けてくる。その顔を見て、葉太はと感じた。


「私は……桜の花も綺麗だと思いますけど、実は、葉桜の方が好きなんです」

「葉桜?」


 こくっと桜子は頷く。

 カナタ国の桜は春に水色の桜を咲かせた後、木全体が葉に覆われる。その色は火を思わせる赤色。

 水色の桜が散りはじめ、花の終わりが近づくと、赤色の葉が水色の花を隠すように生えはじめる。それはまるで、儚い桜の花を燃やして覆い隠していくかのようで。


「葉桜が好きじゃない人が多いですよね。だから、変わってるのかもしれませんが、私は葉桜の方が好きなんです」


 不安そうに顔をしかめながら、桜子は言葉を紡ぐ。

 そこは違うのか。

 葉太が真っ先に思ったのはそのことで、そんな自分に思わず笑いそうになって、顔の筋肉を固める。

 今はでなく、桜子のことを考えなければならない。


「別に変だとは思わないよ」

「本当ですか? 無理しなくていいんですよ」

「無理はしてない」


 否定を柔らかく重ねると、葉太は体をきちんと桜子に向けた。


「確かに、花が好きな人の方が多いと思う。けど、僕は葉桜も好きだよ。水色の花を散らせてからも赤い葉を元気に繁らせる。この木は確かに、生きてるんだなって感じる」

「先生も好きなんですね……よかった」


 にっこりと心から嬉しそうに笑う桜子から視線をそらすと、葉太は努めて冷静な声を出した。


「ここの桜は葉桜も綺麗だ。また見に来るといいよ」


 桜子が頷いたのを確認すると、葉太は別れを告げて帰路に着こうとした。彼の経験上、学院外で教師と話すのを好む生徒は少ない。話を続けるのは嫌がるだろう。

 彼は口を開きかけたが、


「あの。昔のことなんですけど」


 その前に桜子が話し出す方が早かった。いつの間にか笑みをおさめて、真剣な眼差しを葉太に向けている。


「葉桜が好きだって言ったら、それはおかしいって人に言われたことがあったんです。桜なら、普通は水色の花が好きだろって。『桜子』って名前なのに、桜の花は好きじゃないのかって。だから、葉桜が好きなのはおかしいことなんだって思い込むようになってしまって。でも、そうとは限らないんですね。先生みたいに」


 彼女の顔は気づけば、沈んだ色に変わっている。


「それで、あることを思ったんですけど」

「あること?」

「えっと、私……の友達のことなんですけど、本当の自分に自信が持てなくて、自分を演じてる人がいるんです」

「う……ん」

「でも、自分に自信がないってその人が思い込んでるだけで、もしかしたら本当の自分を出しても、他の人はそこまで気にしないかもしれませんよね? 私が、葉桜が好きなことはおかしいことだって思い込んでたのと同じで」


 ついっと大きく彼女の瞳が揺れる。唐突に始まった話に、葉太はどうにか頭を回して答えようとしたが、


「あ、えっと、すみません! 先生に、こんな関係のない話」


 葉太が困っているのを察したのか、桜子は頭を振ると声を張った。心なしか顔が赤くなっている。


「そんなことは」

「すみません。用事があるので失礼します」


 言い終えると、桜子は慌てたように走り出した。少し行ってから止まると、葉太に礼をし直して、再び走り出して見えなくなる。

 葉太が何かを言う隙は全くなかった。

 友達のこと、と桜子は言った。だが、これまでに見た桜子の様子を思い返すと、おそらくそれは――

 葉太はそこまで考えてから、息を吐いた。桜子のことを考えると、どうしても別の人のことも考えてしまう。

 長い睫毛で縁取られた瞳。長くさらりとした茶髪。丸い鼻。笑った時の顔。桜子はやはり彼女に似ている。瞳の色が赤と青とで違うだけで。

 のことを思い出す度に、胸が少し痛くなる。

 桜子と違い、桜の花が好きだった人。葉太が好きだった人。

 そう、桜子はかつての恋人によく似ている。最初、入学式で桜子を見た時、あまりの驚きで心臓が止まるかと思ったほどだ。


「こんな偶然あるんだな」


 葉太は、桜子の容姿と言葉を思い返しながらつぶやいた。


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