まるで別人

 南雲が曲を作り終わったのとほぼ同じ時刻――午後四時半頃。


 シャープな雰囲気の伊達眼鏡を掛けた菅原と、眼鏡を掛けていない加賀谷が喫茶ルームに戻ってきた。


 ……二人とも、まるで別人のようである。



 普通すぎて目立つ所が一つも無かった菅原は、一応お金持ちのお坊ちゃまだ。空気と化して隠されていた、お金持ちの品格、お坊ちゃまの品位、御曹司の気品といったものが、この伊達眼鏡一つで存分に引き出されている。


 ぱっと見、格好良く見えなくもない……いやいや、よくよく見れば充分にイケメンの部類に属している。


 一方の加賀谷は、今まで牛乳瓶の底のような分厚いレンズに加え、大きくて太いフレームの眼鏡を掛けていたので、輪郭さえ殆ど隠れていたのだが、コンタクトレンズにした事で小顔が際立っている。


 ぱっと見、可愛く見えなくもない……いやいや、よくよく見れば充分にオトコノコの部類に属している。



 早く南雲に声を掛けて感想を言って貰いたかった二人だが、どうもタイミングが悪いと感じた。


 月島はミュージックシーケンサーに繋いだヘッドホンで南雲の曲を確認していたし、南雲はメモに乱雑に書いていた歌詞を、綺麗に書き直す作業をしていたからだ。


 すると、真剣な様子の月島と南雲を、大人しく見守っているしかなかった芝浦ひな乃が、菅原と加賀谷の方を向く。


 しばし無言……。


「……う~ん……あとは髪型ね。菅原君の髪型はセットでなんとか出来ると思うけど、加賀谷君のはちょっと……あ、そうだ!」


 芝浦ひな乃は、ソファの手前に置いていたポーチから、何かを取り出すと奥に置き、最初にポーチを置いていた場所をポンポンと叩いた。


「ちょっと加賀谷君、ここに座ってよ」


「ひ、ひ、ひなひなひなひな……」


「いいから座って?」

「で、で、でも……」


「早く!」

「ひゃいっ」


 ソファの隅っこに、ちょこんと座った加賀谷。


「こっち向いて……ちゃんと向いて……いいから向いて……早く!」

「はひっ」


 ――パチンッ。と、加賀谷の額で小さな音が鳴った。


「うん。カワイイー」


 何をされたのか分からない加賀谷。


 ――だが、菅原には見えている。

 加賀谷のおでこが出るように前髪を分けて留められた、小さなハートがいっぱい付いている可愛らしいヘアピンが。


「似合いすぎだろ……加賀谷」


「え……え……え?」


「トイレ行って確認して来いよ。自分でも絶対びっくりするから」


「トイレはあっち」


 芝浦ひな乃がインフォメーションカウンターの向こうを指さした。


「い、行ってきます!」


 ◇



 トイレに駆け込んできた加賀谷を見て、「うおっ」と声を上げる男がいた。

 小便器で用を足し終わったその男は、焦った様子でジーンズのジッパーを上げた。


 ……ここ男性用だよな。小便器があるんだし。


「えっと、君。女性用は隣なんだけど……」


 早く鏡が見たい加賀谷は、その男に言い返すどころでは無かった。


「分かってます」


「……なんだ。君って男の子だったんだ」


 加賀谷にとって今の言葉は聞き捨てならなかった。


 コンタクトレンズのお陰で相手の顔色をうかがえるにも関わらず、加賀谷は相手を睨んで顔をしかめた。

 眼鏡を掛けている感覚が無いので、無敵時代の名残というか、癖として残っていたのだと思われる。


 身長にコンプレックスを感じている加賀谷は、彼が「男の子」と言った事に対して、きっちり文句を言うつもりだった。

 だが加賀谷は、相手が目を合わせようとした瞬間に、ハッとして顔を伏せてしまった。


「ぼ、僕はもう二十歳になっていますから、お、男の子ではありません……」


 結局、加賀谷は相手を直視する事は出来なかった。


「そういう意味で言ったんじゃ無いんだけど……いや、ごめんごめん」


『男の子』ではなく『男の娘』と言ったつもりだったその男は、加賀谷に謝ると洗面器で手を洗い始めた。

 よく見れば、この男は右手の爪だけを伸ばしているようだ。


 男は柔らかそうなブラシまで使い、その長い爪を丁寧に洗っている。


 洗面器はもう一つあるが、鏡を覗き込む様子を人に見られたくない加賀谷は、早く洗い終わって欲いと思っていた。


 ところが、手を洗っている男は、じっと背中を見詰めてくる加賀谷が気になってしょうがなかった。正面を向いて手を洗っていても、鏡越しに加賀谷の様子が見えるのだ。


「あ、もしかして君。俺のファン? ……な訳ないか……」


 最初の反応からして、自分の事を知らないんだなと思ったその男の言葉に、加賀谷は反応を見せた。


 さっきは下を向いてしまった加賀谷だったが、男の後ろから鏡越しにその顔を確認したのだ。


 ――⁉

 見覚えがあるどころか、よく知っている顔だ。


「……か、神田さん?」


 そうだ。彼は南雲のMVでギターを弾いていた神田だ。

 後ろに束ねたワンレングスの髪に、無精ヒゲが実によく似合っている男だ。


「やっぱ俺の事知ってたんだ。でも、俺のファンじゃないみたいだからちょっと悲しいな」


 ◇


 この出来事はほんのきっかけに過ぎない。


 神田は月島に呼ばれていた。そう……中野佳音の替わりとして。


 曲を聞いて楽譜に起こすという作業は、個人のセンスも大きく絡んでくる。


 音をどう解釈をするか。それは俳句の解釈にも通ずる、個人の趣向や知識というものが、大きく影響してくる。


 例えば、元々ピアノで弾いている曲をギターで弾いてみても、それぞれ起こしたギターコードや弾き手によって、全く違う曲に聞こえたりするものだ。


 南雲がハードシーケンサーに吹き込んだイメージを、楽譜として最大限に活かしていたのが中野佳音なのだ。


 その事は充分に理解している月島だが、南雲本人の為にも中野佳音に会わせる訳にはいかないと考えていた。

 月島は、南雲が純粋さを失ってしまうことを懸念していたのだ。


 そこで、ギターセンスがずば抜けていた神田に、一縷の望みを掛けた月島が、彼を呼んでいたのだ。


 ――だが月島は、喫茶ルームで曲を作った南雲を見て、それは間違いだったのだと悟った。


 ……何を勝手に想像していたんだ俺は……彼を一方的にけがしたのは、俺達のような汚い大人じゃないか。彼はこんな状況でも、これだけの曲が作れるのだから――と。


 ヘッドホンを外した月島が口を開く。


「中野佳音に、この曲の楽譜を作ってもらおうかと思うんだが……」


 南雲は瞬時に返答をした。


「はい。彼女以外では考えられません」


 そこへ、加賀谷の手を引いてきた神田が声を掛ける。


「どうもです月島さん。あ、南雲さんもお久しぶりです……おっと、かがちゃんとは今知り合ったんですよ。そこのトイレで」


 加賀谷の事を「かがちゃん」と呼んでいる神田。


 そして……

 加賀谷の顔は真っ赤になっている。


 神田の顔を見るなり、心配事が増えてしまった事に、片肘をついた手を額に当てた月島は思った。


 ――コイツ……バイだった、と。


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