ささやかなる想い

 随分と可愛いけど誰だろうこの子。

 などと思いつつ、目の前で『猫ポーズ』を取られても、どうしていいか分からない南雲だった。


「ひ、ひ、ひなひなひなひなひな……」


 加賀谷は酸欠状態の魚のように口をパクパクさせながら、先に進まない傷付いたCDみたいに、同じ言葉を繰り返している。


 それを見た菅原は、加賀谷の眼鏡を外してやろうかとも考えたが、芝浦ひな乃が見られなくなるのも可哀想なので、そのままにしておこうという結論に至った。


「やあ、ひなちゃん。よろしくだにゃん」


 相変わらずブレない菅原の言葉もその姿(手をニギニギするポーズ)も、完全にスルーした芝浦ひな乃は、南雲の隣の席に腰を下ろした。


「ニャン、ってやってくれなきゃつまんないよ、ナグさぁん」


 彼女を横目に見ようとした南雲だったが、珍しく上体ごと動かして彼女に顔を向けた。

 顔が有名になり、特に若い女性には怖がられなくなった事で、視線だけを動かす悪い癖が出なかったのかも知れない。良い事だ。


「もしかして貴女は……芝浦さんですか?」


 距離を保ったまま様子を見ていた観衆達は、南雲のその言葉に「えーーー⁉」というような表情を見せた。勿論だが菅原もだ。


 観衆の約七割はこの大学の学生だ。そして残りは、高校生と若い会社員で占められている。


 その年代なら男女問わず、アイドルである芝浦ひな乃を知っていて当然なのだ。


『有名人をそっとしておく』でも『見るだけなら大丈夫』という東京ルールを、きちんと守っている学食の観衆も、流石に南雲の今の言葉は冗談なのだろうと思った。


「そうだけど……ナグさんって本当に芸能人に疎いのね。月島さんから聞いたとおりだわ……」


 芝浦ひな乃は、プクッと頬を膨らませた。


「私ってそんなにどうでもいい存在なのかなあ……顔くらい知ってて欲しかったよ」


「あの……芝浦さん。会うのは午後五時の約束では?」


「早く会えて嬉しいって、何で言ってくれないの! 来てあげたのよ? 私みずから!」


 プクゥッ。


 彼女はもの凄く可愛いのだが、口が悪いというか、思った事をそのまま口に出してしまう性格なのだ。


 現役のアイドルで知名度も高いのだが、思った事をそのまま口に出してしまうお陰で、彼女は現在様々なメディアから干されているだけではなく、SNSなどでも、誹謗中傷など利用規約に触れる書き込みが多いとして垢バンされているのだ。


 そんな彼女は、最大手のレコード会社『ジャウジャウ・エンタテイメント』の音楽プロデューサー「品川」が手掛ける、二十七人構成の大人気アイドルグループに所属していた。

 因みにこの品川は、南雲を見て一目散に逃げ出したあの品川である。


 そのアイドルグループが結成された当初は、ファン内の人気投票で一位を獲得していた彼女だったが、品川も含めて周りがちやほやしすぎたのだ。


 全員がそれなりに可愛いアイドルグループでは、性格の良し悪しも人気投票の基準となる。


 握手会でも平気で「気持ち悪いからもうヤダ」と言って、途中で帰ってしまう芝浦ひな乃。


 ファンの彼らだって、悪質ガチャのように確率の低い握手の抽選権を手に入れるために、一人で何枚ものCDを買っているのだ。


 ファン限定で四ヶ月に一回行われる人気投票での、彼女の支持率は最初の一年を境に、日を追う毎に下がっていった。


 そしてひと月ほど前、人気アイドルグループの一員だという『お情け』で、あるバラエティ番組にゲスト出演していた彼女は、そのテレビ局の役員でもあるエグゼクティブ・プロデューサーの逆鱗に触れる発言をしてしまう。


 その発言は、こういった業界ではタブーとされている内容だった。


 彼女は、その番組にレギュラーとして出演している女性タレントの「レギュラー獲得に至った裏事情」を暴露してしまったのだ。


 ――そうだ。このエグゼクティブ・プロデューサーは、芝浦ひな乃にも「君さえ良ければレギュラーにしてあげてもいいんだけど……」と、イヤラシイ顔で声を掛けていた。


 そして番組内。


「ねえあんた。よくあんなハゲに抱かれようと思ったわよね? 私は断ったけどね」

 と、未成年でもある女性タレントに、面と向かって言い放ったのだ。


 芝浦ひな乃も未成年だが、この発言は倫理的にも完全にアウトだ。当然、この部分は編集でカットされた……。

 だが、それ以来彼女は全てのメディアから干された。


 そして……彼女をクビにするという話を品川から聞いた月島が、移籍という形で彼女を引き取ったのだ。



 当然、彼女の顔さえ知らなかった南雲は、そんな事情があったなんて知らない。


 月島は南雲に「芝浦ひな乃の曲を作って貰いたいので、時間があるときに彼女と面会して欲しい」と、昨日連絡を入れたのだが、「明日、講義が終わってからなら時間を作ります」と、南雲は答えていた。


 月島は「明日って……急な話なんだから、無理しなくていいんだぞ?」と、言ったが、南雲は、加賀谷が午後の講義が終わってから食材の買い出しに行って、夕食を作り終わるまでの時間を考慮して「面会だけなら大丈夫ですよ。では午後五時にしましょう」と答えた。


 指定した場所も勿論学食ではない。


 大学から車で三十~四十分程の場所にある、月島のオフィスに南雲が行く事になっている。


 月島のオフィスというのは、レコード会社の『ミャウパー・ミュージック』の本社ビルだ。


 そこから現在南雲が住んでいるマンションは近い。そしてそのマンションは、加賀谷の家(実家)からも近いのだ。


 加賀谷は、新たに南雲が住み始めたマンションの、キッチンが広い事を喜んでいたくらいだ。毎日のように夕食を作りに来る。

 リアルでの恋愛を完全に諦めている南雲も、加賀谷が迷惑だとは思わない。むしろそれが当たり前になっているのだが、とにかく加賀谷の作るカレーがもの凄く美味いのだ。有り難し……ウッマ。


 加賀谷が夕食を作り終わるのが大体午後七時から八時くらいなので、その事を念頭に置いて「午後五時」と指定したのだ。


 ◇


「さ、早くオフィス行こ?」

 と、可愛らしく首を傾げて南雲に微笑みかける芝浦ひな乃。


「ごめんなさい。僕は午後の講義にも出席する予定ですから」


 男性の観衆からはブーイングが起こり。女性の観衆からは拍手が起こった。



 ――そして、その観衆の少し向こう。


 学食の出入り口の陰。

 ……重ねた手を胸に当て、その場から講堂の方へと引き返す少女がいた――


 ――その少女の名は……阿佐ヶ谷ゆうみ。


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