卒業できないヒロイン

 今この場に居るバンドメンバーは、高井戸美由紀が所属する芸能プロダクションに、選り抜きで雇われた人達で構成されている。


 それにもまして、九月初頭の現時点で、動画視聴回数が一億を超えている曲を、本人公認でカバー出来る事は、フリーランスのミュージシャン達にとっては、この上なく栄誉な事なのだ。


 ただし今回の目的は、途方もなく音痴な高井戸美由紀のMVを作る事にある。



 彼女は今、女優として大きな岐路に立たされていた。

 実は……彼女はデビュー以来、学生役しか演じていない。


 デビュー作となったドラマも学園が舞台。勿論、初主演を務めた映画も高校生ヒロインだ。


 綺麗と可愛いを兼ね備える彼女は、二十二歳を過ぎても女子高生で充分に通用していた。


 然し、二十三歳を迎えた頃から、可愛さよりも綺麗さが前面に出てくる様になった。


 プロダクション側は様々な案を練るが、彼女を学生という縛りから解放する事は出来なかった。


 結局二十四歳になった現在は、大学生ヒロインとしてドラマに出演しているが、プロダクションとしては、大河ドラマで姫を演じさせたいと願うばかりだった。


 そうだ。知名度も人気もあるのに、学生役が定着しすぎている彼女には、どこぞの殿様の姫役というお声が掛からないのだ。


 このままでは、時の流れと共に彼女の女優生命は終わってしまう。


 人々のイメージを払拭するには、大人になった彼女という新たなイメージの種を蒔かなければならない。


 そこで目を付けたのが、女性視点で書かれた詞を、切ないほどに深みのあるハスキーボイスで歌っているこの曲だ。

 この曲を彼女が歌えば、大人になったイメージを与えられるに違いない。


 ところが、南雲は動画に顔出ししていない。更に、出回っている本人特定に繋がる情報も、様々な場所で候補者が氾濫しているので絞れなかった。


 要するに、只でさえ他人との接触を避けている南雲本人は名乗り出ていないので、『俺ダヨ』が横行していたのだ。


 唯一手掛かりとなるのは『NAGー0.45R』という、動画のチャンネル名だけだった。


 彼女が所属するプロダクションは探偵まで雇い、結構な額の調査費用を投じた。

 そして、彼女のマネージャーである豊洲が、南雲本人とコンタクトが取れたのは、ほんの十日前の話である。



 ◇



 今、スタジオでは不思議な現象が起こっていた。


 間違いなくこの男が歌っていて、誰もがその歌声に心酔した。

 そのイメージが出来上がっている中で、サングラスを外した南雲の姿は、恐怖を与えるどころか、格別クールな印象を与えたのだ。


 特にピアニストの中野佳音かのんは、鍵盤から離した両手で頬を押さえながら、「はぁぁぁぁ~」と、清楚らしからぬ声を漏らす程だった。


「皆さん。驚かせてしまって済みません。すぐにサングラスを……」


 すると、ここまで何も作業していなかったカメラマンの江古田が、コントロール・ルームから飛び出してきた。


「凄いよ君! これなら編集無しでMVいけるよ! 良ければ是非撮らせてくれないかな」


 撮影したいと申し出るカメラマンの江古田。


 だが、何の冗談だと思った南雲。

 顔を出していないからこそ、視聴回数が伸びているのだと信じて止まないのだ。


 ……その前に、サングラスを拾おうにも、高井戸美由紀が手を離してくれない。


「良い考えね。私もそれを見ながら練習が出来るわ」


 作曲者である南雲は、アドバイザーとして招かれている形なので、歌うつもりなど元々無かった。


 先程はマネージャー豊洲の熱意に押されて歌ったが、撮影されるとなれば話は変わってくる。


 第一……


「彼女のMV作成が目的ですよね? 僕を撮りたいとか、意味が分かりません」


「いいえ、意味はあるわ」


 南雲に抱き付かんばかりの高井戸美由紀に、流石の南雲も動揺を隠せない。


 下から見つめてくる彼女の息遣いは激しさを増している。


 南雲が思わず顔を逸らす刹那。彼女が嘘偽り無く本当に抱き付いてきた。


「お願い、私を助けて……南雲君」


「――は、はいっ!」


 条件反射のような返事をしつつも、仰け反るように必死の抵抗を試みる南雲。


 南雲の顔を見上げたまま、そこから前に一歩踏み出し、身体を押し付けてくる高井戸美由紀。


 焦る南雲は一歩後退し、逃げの態勢に入ろうとした。


「こういう時は、相手を抱きしめてあげるものよ?」


 そう言って微笑んだ彼女は、更に一歩進み出て、南雲の胸に顔を埋めた。



 ――かくして、南雲のMVが、急遽撮影される運びとなった。

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