第13話

 僕はゆっくりと、賑やかな教会入り口へ近づいた。神父がすっと顔を上げ、僕に向かって微笑みかける。


「平田拓海くん、でよろしいですかな?」

「は、はい」


 思わず僕は姿勢を正した。


「そう緊張なさらずに。歓迎致しますよ。香澄さんのご友人だそうですから」


 流暢な日本語が、するすると発せられる。しかしその言葉がなかったとしても、自分が拒絶されているわけではないことは確信できただろう。そのくらい、神父の立ち振る舞いには慈愛の心が表れている。

 それにしても、


「僕が香澄さんの、友人?」

「おや? わたくしはそう聞いておりましたが」


 穏やかさな雰囲気のまま、神父が問うてくる。まさか僕が、香澄から友達扱いされているとは思いもしなかった。まあ、どうせこの場を訪れるため、便宜上そう伝えられただけかもしれないが。


 そんなことを考えていると、周囲が静かに、しかしざわついていることに気づいた。子供たちの視線が、無邪気かつ無遠慮に僕に注がれる。


「ねーねー香澄お姉ちゃん、あの人、だあれ?」

「こーら! 人を指差すのは失礼だって教えただろう?」


 朗らかに答える香澄。


「あーっ! 分かった! お姉ちゃんの恋人さんだ!」

「がはっ⁉」

「ぶふっ⁉」


 これには、僕も香澄も噴き出した。度肝を抜かれたと言ってもいい。


「おい香澄! 子供に何教えてんだよ!」

「お、俺がそんなこと言うわけねえだろう! お前が俺の、こ、ここ、恋人、だなんて……」


 急速にボリュームが引き絞られる、香澄の怒号。最後の方は最早呟きレベルだ。

 あれ? うっかり彼女をファーストネームで呼び捨てしてしまった。まあいいか、『さん』づけではよそよそしいと思っていたし。


 しかし、不覚にも僕は頭に血が上るのを感じた。香澄は背中を向けたまま。それでも、耳たぶが真っ赤であることは見て取れた。


 僕が彼女に好意を持たれた過去はない。少なくとも、僕の記憶には。やはり、子供に『恋人』と誤認されたことが原因だろう。全く、ませたガキんちょがいたものである。


「さあさあ、皆建物にお入りなさい。暑さに参ってしまいますよ。香澄さんも早く。拓海くんはこちらへ」


 神父さんが、ゆったりとした口調で子供たちに呼びかける。素直に室内へ駆け込む子、香澄の手を引いて行こうとする子、相変わらず僕に興味の目を向ける子。いろんな子供がいる。


「おいおい、ちょっと待ってくれよ。今日は何して遊ぶんだ?」

「お姉ちゃんと、プロレスごっこ!」

「早く早く! 香澄お姉ちゃん!」

「分かった! だからそう押すなって!」


 まさか、あの石切香澄ともあろう人物が、あんなにも眩しい笑顔を振りまいているなんて。この場面を写真に収めて祐樹あたりにでも見せたら、きっとショックで気を失うだろう。


「どうかされましたかな、拓海くん?」

「あ、す、すみません。大丈夫です……」


 こうして僕は、神父に促されて教会に足を踏み入れた。促されるまま、講堂わきの小部屋に入っていく。


         ※


 神父は、名前をトーマス・アンダーソンと言った。日本に来て五十年、各地を転々としながら、孤児を助ける活動をしてきたらしい。十年前からこの町に落ち着いて、正式にNPOとしての認可を得たという。


 この部屋の広さは十畳ほど。木目の床に、木製テーブルと三脚の丸椅子が配されている。風通しがよいため、冷房がないのに十分涼を得ることができた。ブラインドから日光が差し込み、床を横断歩道のように縞模様に染めている。


 養護スタッフと思しき女性が、丸テーブルを挟んで座った僕たちに飲み物を運んできてくれた。僕の下にはサイダーが、トーマスの下にはアイスコーヒーが置かれる。


「あ、ありがとうございます」


 恐縮しきりの僕を、トーマスは相変わらず穏やかな目で観察していた。


「あの、神父さん」

「何でしょう」

「石切さん……香澄はどうしてここに来たんですか? 僕、彼女のこと何も知らなくて」

「おやおや」


 目を丸くするトーマス。


「恋人同士でいらっしゃるのに、ご存じないと?」


 危うくサイダーを噴くところだった。


「あれは子供たちが勝手に言ったことです! ぼ、僕と香澄は、そんな仲じゃありませんよ」

「ははは、分かっています。あなたのようなお優しい方を見て、ついからかってみたくなりましてね。失敬」


 ため息をついてしまったが、何故だか彼の前では苛立ちを覚えなかった。不思議な貫禄をお持ちである。


 しばし黙考するように目を閉じ、音もなくコーヒーをすするトーマス。遠くからは、恐らく講堂からだろう、子供たちの賑やかなはしゃぎ声が聞こえてくる。時折混じる『俺』という言葉は香澄のものか。


「実は、石切香澄さんは、孤児なんです。ちょうど八年前の夏に、わたくし共が保護しました」

「え……?」


 僕はごくりとサイダーを飲み下した。危うく気管に入るところだった。


「香澄さんから許可を頂いていますので、あなたにお話するのです。他言無用でお願いします」

「わ、分かりました」


 再び、椅子の上で姿勢を正す僕。トーマスは冷たいグラスを両の掌で包み込むようにして、語り出した。


「二瓶香澄さん……ご両親が離婚してからは父方の『石切』という苗字を名乗るようになりましたが、彼女のように救いを求めている子供たちはたくさんいます」

「香澄の場合は、何があったんですか?」


 慎重に言葉を紡ぐと、トーマスは僕の目を直視できなくなったのか、ふっと視線を逸らした。次に僕の耳に捻じ込まれてきたのは、あまりにも残酷な言葉だった。


「両親からの虐待です」

「ぎ、ぎゃく、たい……?」


 神妙に頷くトーマス。


「幸い、外傷は大したことはありませんでした。しかし心には、目では見えない傷が無数に刻まれてしまっているのです。今の彼女に、他人を信用しろとか、共同作業をしろというのは、あまりにも酷なことです」

「そんなことが……」


 これで、いつもの香澄の挙動に合点がいった。両親から虐待を受けたがために、人間不信に陥ったのだ。

 幸いなのは、彼女が自分から敵意剥き出しの言動を取っていること。少なくとも、睨みを利かせていれば、学校で虐められることはない。だからあんな毒舌家なのか。演技かもしれないけれど。


「しかし、彼女が高校に進学してから、状況はだいぶ変わったようですね」

「というと?」


 トーマスは手の指を組んで、軽く身を乗り出した。


「香澄は、自らNPOの活動に参加させてほしいと頼み込んできたのです。きっと、自分と同じ境遇の子供たちを、ただ見ているだけでは救えないと察したのでしょう」


 それで定期的に、この孤児院を兼ねた教会に通っているわけか。


「ふむ……」


 僕は拳を顎に当てて考え込んだ。

 両親に見放されたという意味では、僕とやや状況は似ている。問題は、彼女の場合、暴力行為が伴っていた、ということだ。


「香澄のやつ、僕なんかよりもよっぽど大変な過去を担いで生きてきたんですね」

「それは一概には言えません。人間の幸福の尺度は、人の数ほどありますからね。だが、少なくとも香澄さんは恵まれてはいなかった」


 僕の胸中に、ふと、不思議な熱が宿った。

 香澄を助けたい。援護して、無事に任務を達成させたい。

 そう思い込んだ時には、グラスの中の氷は溶け切っていた。


「確か、今日の午後から用事があると言っていたね?」

「は、はい」


 香澄が伝えておいたのだろう。


「では、そろそろかな」


 トーマスは腰を上げ、颯爽と小部屋を退室し、講堂へ。僕も後に続く。


         ※


「えー? お姉ちゃんもう行っちゃうの?」

「あたしまだ遊んでもらってないよ!」

「今度はサッカーだよ、香澄お姉ちゃん!」


 そんな子供たちの前で、まあまあとトーマスが手をひらひらさせる。


「香澄お姉ちゃんと、こちらの拓海お兄ちゃんは、これから大切なお仕事があるんだ。今日はこのくらいにしておいてあげなさい」


 すると、香澄は一歩、子供たちの前に歩み出た。


「またすぐ来るよ! それより、皆熱中症に気を付けて! 神父様の言うことしっかり聞くように! 返事は?」


 子供たちは顔を上げ、声を揃えて『はーい!』と威勢よく声を張り上げた。


「では道中お気をつけて、香澄さん、拓海くん」

「分かりました」


 お辞儀をする香澄の横で、僕はきっぱりとそう答えた。

 それと同時に、腹を括った。今回の作戦、必ず僕が香澄を守り切ってみせる。非力な僕だが、子供たちの無垢な瞳に胸を打たれた以上、逃げるわけにはいかない。


 アーチまで見送りに出てくれたトーマスや子供たち。軽く手を振り返してから、香澄の顔を覗き込む。そこには、いつもの仏頂面が戻っていた。


 ま、いいか。責任を背負い込むつもりはないが、できうる限りのことをしよう。

 子供たちの笑顔と、香澄自身の命のために。

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