第6話


         ※


 階段に足を掛けたところで、共用通路の照明が点いた。梅子と別れて間もなく、僕の住んでいるマンションでのことだ。


 築十年。こまめに点検整備されているお陰で、新築と言っても差し支えない。実家が遠くて通学が困難な生徒や学生が多く利用している。僕の部屋は二〇二号室だ。


「ただいま、っと」


 玄関の鍵を開けて、夕日の差し込むリビングを見遣る。夕日と言っても、太陽そのものはとっくに山の向こうに没し、窓の外はほぼ群青色だ。

 鞄を適当に投げ出し、面倒な服の仕分けを後回しにしてシャワーを浴びる。


「あ」


 リビングの冷房をつけておけばよかった。全く、冴えてない。

 

 身体を洗い終えた僕は、半袖短パンというホームウェアに着替えてリビングに入り、リモコンで冷房のスイッチを入れた。

 タオルで頭をガシガシと吹きながら、廊下に引き返してグラスに烏龍茶を注ぐ。その場で立ったまま一気飲み。

 ふと思い出し、廊下とリビングの照明を点けた。


「なかなか慣れないもんだな」


 誰にともなく呟く。僕が『慣れていない』と言うのは、一人暮らしに、という意味ではない。僕の帰宅を待つ家族がいないという状況に、だ。


 このマンションには通学困難な生徒が暮らしている。そう言ったが、僕は違う。僕の家は、このマンションの隣の敷地にある。いや、あった。

 だからこそ、学年の違いがあっても梅子と仲良くしていたし、『お兄ちゃん』呼ばわりされているわけだ。


 僕のマンション暮らしは、ちょうどこのマンションができたのと同じ、十年前から始まった。この建物は、一階が家族向けの広い間取りとなっている。

 僕は実家を追い出されてから、お手伝いさん二人と共に、そこで暮らしていた。この部屋に移り、一人暮らしを始めたのは、高校に入ってからだ。


 実家を追い出された、というのは言い過ぎかもしれない。だが、僕に居場所がなくなったのは事実だ。両親の離婚と、それに伴う親権放棄によって。


 離婚と言っても、両親の間で暴力的な事案が発生したことはなかったし、直接的な言い争いがあったわけでもない。

 ただ純粋に、家の空気が冷え込んでいくのは、子供心に察知していた。同時に、自分が両親の邪魔者にはなっていることも。そして、自分の力では両親の仲を取り持つことはできないということも。


 明日、梅子と向かうことになる裏山を、僕はぼんやりと眺めた。

 そう言えば、僕がこんな状況に陥った時も、変わらず接してくれたのは梅子と彼女の家族くらいのものだった。


 ふと、梅子の境遇に思い至り、僕はすっとカーテンを閉めた。彼女も彼女とて、大変な目に遭っている。辛いのは、僕だけじゃない。


「ふぅ」


 そこまで考えが至り、僕は背中からベッドに倒れ込んだ。ばすん、と軽く布団が凹む。

 天井の円形蛍光灯を横切るように、蚊が飛んでいる。だが、今の僕に、その蚊を叩き落すだけの攻撃性はなかった。


 明日は、僕が命を懸ける事態が発生するかもしれないのだ。今更蚊の一匹や二匹、殺めたところで何にもならないだろう。

 

 そんなことを思っていると、あるリモコンが目に入った。先ほどのエアコン用のリモコンではなく、部屋の反対側に置かれているコンポのリモコンだ。

 最近の若者は、皆ダウンロードで音楽を聴くらしいが、僕は専らCDを購入してこのコンポで聴く。


「誰のCD入れてたんだっけかな……」


 そう呟きながら電源を点け、再生ボタンを押し込むと、八十年代の和製ポップが流れ出した。

 両親どちらの影響かは知らないが、僕は古めの音楽が好きだ。よく祐樹のような友人からは、『それは俺の親父の趣味だ』などと揶揄されるが。


 聴き入っていると、不意に二つの感情が浮かんできた。

 一つは、明日自分が死ぬのではないか、という恐怖心。今日学校に乗り込んでいたテロリストたちは、明らかに実銃で武装していた。そうでなければ、屋上から降下してきた連中が窓を撃ち破ることはできなかっただろう。

 つまり、下手に歯向かえば蜂の巣にされてしまいかねないということだ。


 もう一つの感情は、寂寥感である。

 仮に僕が、明日死傷したとして、誰が悲しんでくれるだろうか? そりゃあ、梅子は泣いてくれるだろう。もしかしたら、玲菜も。祐樹だって、葬儀に参列するくらいのことはしてくれるかもしれない。

 しかし、僕には家族がいない。やはり、知人の涙と、血の繋がった肉親の涙とでは重さが違う。梅子たちには申し訳ないけれど、やはり僕は、どうせ死ぬなら両親に認められてからの方がいい。


「まあ、明日生き延びればいいんだよな」


 ローゼンガールズの一員に加えられてしまった以上、明日の任務が最初で最後だとは思えない。しかし、今はそれを考えないことにした。

 一日一日、大事にしていなければ。


 ガンダムの予告編でも毎回問われているではないか。『君は、生き延びることができるか』と。


         ※


「本当に可愛いわね、この子」

「それはそうさ。やっと授かった命だからね」

「あなた、名前は決めてくれたんでしょう? いい加減、私にも教えて?」

「そうだな」


 これは夢だ。僕は自分に言い聞かせた。

 自分が産まれた直後の記憶など、僕には残っていない。僕の下に残された写真から、妄想を膨らませているだけだ。


「少し待ってくれ。半紙に清書するから」

「全く、もったいぶらないでよ」


 視界の中央に、三十代前半と思われる男女がいる。男性は眼鏡をかけ、女性は肩まで届くくらいの髪を引っ詰めている。

 長身痩躯の男性――父と、赤ん坊を胸に抱いた女性――母。父はくるりと振り返り、立ったまま筆を手に取った。母はといえば、渋々といった様子で、しかし笑みを浮かべながら、赤ん坊――僕を見下ろしている。


 不思議なことだけれど、僕は夢の中にいながら、三人の姿に見入っていた。


「ようし、書けた!」

「どれどれ? たくみ? 『拓く』に『海』で、『たくみ』?」

「そうさ」


 胸を張る父から半紙を受け取り、母は満足気にそれを見つめている。僕は、乳児用のベルトで母の胸に固定されたまま、すうすうと寝息を立てている。


「何だか大袈裟な名前ね?」


 母から返された半紙を受け取りながら、父はやや眉間に皺を寄せる。


「大袈裟って……。第一印象がそれかい?」

「褒めてるのよ」


 なおも難しい顔をする父に、母は微笑みかける。


「だって凄い名前じゃない! 海を拓くって、とんでもないことでしょう?」

「ま、まあね。そういう意味でつけたからな」


 旧約聖書のパクリか。とは思いつつ、誇りの残滓のようなものがこみ上げてくる。

 僕にだって中二病だった時期はある。といっても、五、六歳の頃の話だ。モーゼが海を割ったという伝説は、あまりにも有名だ。それにちなんだ名前なのだと知った時は、胸が高鳴ったものである。


 だがそれも、僕が小学三年生に上がるくらいまでのことだった。

 映像は切り替わる。僕は、写真に基づく妄想から脱し、自分の過去体験に知覚が移行したのを感じた。


「あなた? ねえ、あなた?」


 母の声がする。『母の』とは分かったものの、それは先ほど聞いたものとは似ても似つかない。冷静な、いや、冷淡な声音だ。

 僕は廊下の角から、そっとリビングを覗き込む。母は立ち上がり、こちらに背を向けながら腕を組んでいる。その足先は、苛立たし気にフローリングを叩いている。


 ぱた、ぱた、ぱた、ぱた。

 スリッパが床を叩く。


 ぱた、ぱた、ぱた、ぱた。

 一拍ごとに、僕は心臓が不気味に脈打つのが感じられた。


 永遠にも思われる時間が過ぎ、やがて背後から、別な足音が近づいてきた。


「どうした」


 頭上から父の声がした。しかし、そこに先ほどまでの穏やかさは含まれていない。

 代わりに感じられたのは、日々に対する疲れだ。


 母が振り返る。その顔もまた、やつれているように見えた。

 しかし、父と違って声には張りがあった。そして勢いよく、テーブルから一枚の紙を取り上げた。


「離婚届、か」


 無感情に呟く父。

 この光景は、まるで、父が僕の名前を母に書いて見せた時の再現のようだ。しかし、漂う空気が全く違う。そこにある感情があまりにも異質である。そして、子供に対して残酷すぎる。当時の僕ような児童に対しては猶更だ。


「あなたは優秀な工業技術者だったかもしれない。でも、妻や子供に対しては、最低の夫、最悪の父親だったわ」

「その事由は何だ?」


 母は語気を荒げはしなかった。ただ勢いよく振り返り、キッと父を睨みつけてこう言った。


「研究のために、ずっと私たちから距離を取り続けたことよ」


 すると、父はゆっくりと母に歩み寄った。僕に背を向けたまま、ゆっくりと言葉を紡ぐ。


「それはお前だって同じだろう?」


 ダン! と凄まじい打撃音が響いた。母が拳を壁に叩きつけたのだ。

 二人の間で感情が露わにされた、最初で最後のことだった。


「そう言うなら、この子はあなたが面倒を見て頂戴」


 そう告げ、母はそのまま父と僕のそばを通り抜けて、玄関から出て行った。

 そこから先のことは、目の前に霧が迫ったように見づらくなっていく。僕は自分が、夢から覚めつつあるのだと自覚した。

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