麻布1丁目1番1号

路地裏乃猫

麻布の幽霊屋敷 第一話

 地下鉄大江戸線を麻布十番駅で降り、元麻布方面へしばらく坂を登った先にその屋敷はあった。

「あれかな、兄さん」

「だろうな」

 近代的な豪邸が立ち並ぶ住宅街の中、その屋敷だけは時が停まったかのように戦前の佇まいを残している。チューダー様式、と言うのだろうか。いわゆる世間が言うところの洋館のイメージそのままの外観は、東京有数の高級住宅街にあってもなお見劣りするどころか、むしろ高貴な印象を印象を与える。レンガ造りの外壁と、スレート葺きのとんがり屋根。瀟洒なデザインの窓。ただ、長らく空き家の状態が続いていたせいだろう、窓ガラスは割れ、外壁にはびっしりと蔦が這っている。庭もロータリーも雑草まみれで、以前のオーナーだか管理人だかが踏み固めた細い獣道を除けば、もはや雑木林と言っても差支えのないありさまだった。

「まるでお化け屋敷だね」

「まるで、じゃねぇから買ったんだろ」

 僕の隣で同じように屋敷を見上げる兄さんが、洋ドラの俳優みたいな挙措でサングラスを外しながら言う。

 一八〇センチをゆうに超える長身と高い等身、すらりと長い手足、さらにはアイドルにも引けを取らない精悍なルックスの兄さんは、何を着てもファッション誌のグラビア並みにクールに着こなしてしまう。ただ、何にせよ例外はつきもので、江戸勘亭流の力強いフォントで『不労所得』と描かれたTシャツはさすがにクールとは程遠く、駅からここまで歩く道すがら、幾度となく通行人の視線を集めては、隣を歩く僕は他人のふりを余儀なくされた。

 そしてまた、地元のマダムと思しき二人組の女性が僕らの姿をくすくすと笑いながら通り過ぎてゆく。

「は……早く入ろう、兄さん」

 一足先に門扉に飛び込み、兄さんを促す。とにかくさっさと屋敷に入ろう。これ以上、兄さんの面白Tシャツを麻布マダムの目に晒すのは忍びない。

 雑草だらけの獣道を踏み越え、玄関先に向かう。八月もすでに下旬に差しかかっているが、まだまだ残暑は厳しく、パーカーの下のシャツは汗でぐっしょりだ。それでも、聞こえる蝉の声のほとんどが今やツクツクホウシのそれで、些細な変化の中にも季節の移ろいが確かに感じられる。

 ようやく玄関先に辿り着いた頃には、僕のカーキ色のチノパンは緑色のひっつきむしだらけになっていた。一方、同じくジーンズをひっつきむしだらけにした兄さんは、お構いなしにポケットから鍵を取り出すと、目の前の、見るからに分厚そうな樫造りのドアへと差し込む。ただ、ドア自体は重厚でも、鍵の方はさもピッキングしてくれと言わんばかりのシンプルな真鍮製で、いまどきの治安を考えると少々不用心かなと思わなくもない。まぁ……これだけ派手に窓が割れていると、鍵の仕様一つ心配したところで、という気もしなくもないけど。

「よし、んじゃ、始めるか」

「うん」

 振り返る兄さんに、僕は大きく頷いてみせる。

 この先に待つ〝誰か〟を知る人はいない。僕はいつだって、その〝誰か〟と出会う最初の人間だ。でも……

 それでも、兄さんがいれば僕は何も怖くない。

 ドアの奥で、カコン、と錠の開く音がする。ぎい、と、金属の擦れあう音とともに暴かれる漆黒の闇。戸口から流れ出すひやりとした空気が、異界めいた不気味さをより一層際立たせる。

 そんな深い闇の只中に――彼女は立っていた。

「……あ」

「どうした」

「ええと……視える? あの子。前方五メートルぐらいに立つ白い服の女の子」

 兄さんは眉間に皺を寄せて闇に目を凝らすと、「いや」と短く答える。どうやら兄さんには、彼女の姿は視えていないらしい。ということは――

「……彼女が?」

「そうらしいな」

 どうやら彼女が、今回の〝誰か〟らしい。

 歳は高校生ぐらいだろうか。少なくとも子供には見えない。すらりとした体躯に、飾り気のない白のワンピース。雪のような白肌が、肩まで届く黒髪が玲瓏な美貌に良く似合う。

 切り揃えた前髪が落とす影の奥では、黒い瞳が用心深く僕らを見つめている。一見、無表情に見えるけれど、一応は僕らを警戒しているらしい。ただ、それにしては登場の仕方が唐突で、今も身を隠すそぶりがないのは、僕らには自分の姿が視えないと確信しているからだろう、多分。

 ただ、これだけ僕と目を合わせていると、さすがに彼女も気付いたようだ。

「驚いたわ」

 それは水琴窟の水音によく似た、深く澄んだ声だった。

「やっぱり、私が視えるのね、あなた」

「ええと、君は?」

「人様に名前を訊ねる時は、まずは自分から名乗りなさい。そう、お母様に教わらなかったのかしら」

 ゆるりとした口調。なのに妙に怖い。乱暴に怒鳴られたわけじゃないのに、胃袋がきゅっと竦む。

「し、失礼しました。……ええと、僕は、比良坂瑞月ひらさかみづきと言います。で、こちらは五つ上の兄の比良坂陽介ひらさかようすけ。今日はたまたま残念なTシャツを着ていますけど、こう見えて、頭が良くてスポーツも万能で、あと……」

「おい」

 バン、と強く背中を叩かれて、バランスを崩した僕は勢いあまって二、三歩つんのめってしまう。見ると、彼女の冷たい双眸が目の前に迫っていて、女性への接近イコール痴漢行為と認識する僕は慌てて回れ右、兄さんの背後へと逃げ込んだ。

「何やってんだ、お前」

「兄さんこそ、いきなり酷いじゃないか」

「そうじゃねぇよ。なに悠長に自己紹介なんてやってんだ」

「そ、それは……だって彼女が、まずは名を名乗れって……」

「名前ェ? 相手は不法滞在者だぞ? そんな奴に名乗る名はねぇし、よしんば名乗るにしても、俺たちはこの屋敷のオーナーなんだ、堂々と名乗れ!」

「う、うん……」

「オーナー?」

 端正な顔に、わずかに怪訝の色を浮かべて少女は小首を傾げる。さらりと肩をこぼれる長い黒髪に、不覚にも僕はどきりとなる。

「は、はい……先日、兄さんが購入しまして……」

 そう、僕らは一応、この屋敷のオーナーではあるのだ。といっても、つい先日、甲区に名前を記したばかりの新米オーナーではあるのだけど。

 兄さんがこの屋敷を手に入れたのはほんの一週間前のこと。

 そこは、都内でも超超超一等地とされる麻布の戸建物件で、この国にまだ貴族制度が存在した当時、伯爵だか公爵だとかいう人が居住用に建てたものらしかった。その偉い誰かさんが金に糸目をつけずに施工してくれたおかげで、九十年が経つ今も基礎や壁材のコンクリートは頑強そのもの。専門家の鑑定によれば、現在の耐震基準も難なくクリアできるという。麻布十番からも近く、内装や設備にリノベーションをかければ入居者には困らないはずのこの物件は、しかし、昔から投資家界隈では特級の地雷として敬遠されてきた。

 理由は、工事のたびに頻発する謎の怪異だ。そしておそらく、原因は――

「世間知らずのお兄様を持つと苦労するわね。どのみち、二束三文でこのお屋敷を手に入れたのでしょうけど、安物買いは往々にして痛い目を見るものよ?」

 その原因ご本人にぬけぬけと言われ、僕はハハハと死んだ魚の目で笑う。とはいえ、彼女の忠告はごもっともだ。見た目もスペックも完璧超人な兄さんの唯一の欠点、それは、金と利回りに目がなさすぎて、ついついこんなクソ物件……もとい、曰く付きの不動産に飛びついてしまうことだった。

「それで……君は?」

「私? ご覧の通り、幽霊よ」

 当たり前のように答えると、少女はひょいと肩を竦める。

〝彼ら〟の中には自分が置かれた状況に無自覚な人も多く、突如突きつけられた現実に動揺、混乱の挙句に激昂してしまう人も多い。なので、そのあたりの事実をどう伝えるかはかなり気を使うポイントなのだけど、少なくとも彼女には、そうした気を使う必要はなさそうだ。

 まぁ……自覚がなければそもそも〝視える〟僕に驚くこともなかっただろう。

「それは、わかっています。……その、お名前をお訊ねしても?」

「死人の名前を? そんなもの、伺って何になるの?」

「ええ……」

 どうやら答えるつもりはなさそうだ。うう、そりゃないよ。一人で良かれと思って答えた僕が馬鹿みたいじゃないか……いや、気をしっかり持つんだ比良坂瑞月。この際、名前はどうだっていい。最悪、彼女の願いを聞き出せさえすればそれで。

 そう。大切なのは彼らの願い、それだけだ。

「で、そのオーナー様がわざわざご足労なさったのはなぜ? まさか、私に名前を訊くのが目的だった、とは仰らないわよね?」

「え、ええと……それもありますが、まずは内見を……」

「内見? ああ、中をご覧になりたいのね。……そうね、構わないわ。見て回るだけなら」

「あ、ありがとうございます!」

 深々と頭を下げながら、自己所有物件を内見するのにどうして頭を下げなきゃいけないんだ、と、もう一人の僕が呆れる。でも仕方ないじゃないか。そういう空気だったんだから。そういう圧を感じちゃったんだから。

「おい、なに頭を下げてんだ、相手はたかが幽霊だろ」

「うん……と、とりあえずOKは、出たから……うん」

 頼むから兄さんは、せめて屋敷にいる間だけは黙っていてほしい。

 屋敷の中は相変わらず暗かったが、それでも目が慣れてくると、天窓から注ぐ光だけでも充分に中の様子を見回すことができた。玄関ホールは二階まで吹き抜けになっていて、ホールの壁に沿って伸びる階段が立体的な空間の広がりを演出している。三和土はなく、靴のまま家に上がる仕様らしい。

 とりあえず一番手前のドアを開いてみる。ドアは両開き式で、玄関ドアほどではないにせよ、かなり重厚な造りになっている。

 その、重いドアの先に広がっていたのは――

「……わぁ」

 そこは、どうやら応接室らしかった。事前に目を通した図面によれば、畳数は約二十。ただ、天井が一般的な住居に比べてやたら高く、おかげで実際の表記よりもずっと広く感じられる。

 壁紙には、見るからに豪奢な文様の壁紙がふんだんに用いられていて、床や腰板、装飾用の梁材にも丈夫な樫材が惜しげもなく投入されている。戦後、とりわけ最近の分譲住宅では絶対にお目にかからない贅沢な内装だ。

 部屋の隅に設えたマントルピースは大理石製。床の文様は寄木細工で、天井にはびっしりと漆喰装飾……うん、お見事。

「すごい。一流ホテルのスイートルームみたいだね、兄さん」

「ふむ……意外と保存状態は悪くねぇな。てっきり近所のガキに荒らされてんじゃねぇかと心配していたんだが」

「心配って……また中も見ずに買ったの?」

「うるせぇ。美味い不動産ってのは早い者勝ちなんだよ。今回も、タッチの差で危うく上海の投資家に獲られそうになったんだし」

 叱られた幼稚園児みたいな顔でむくれる兄さんに、それ以上、僕は何も言えなくなる。これでも一応、日本の最高学府を卒業し、一時は霞が関で働いたこともある立派な社会人なのだ……一応は。

 部屋には、前庭に面して大きなフランス窓が設けられている。その先には広々としたテラス。ただ、この窓もやっぱり派手に割れていて、段ボールとガムテープで無造作に塞がれているのが痛々しい。まさに応急処置だ。

「なぜ、このお屋敷を?」

 警戒の目を解かないまま、少女がそう問うてくる。そういえば、名前は明かしても僕らの身分や仕事についてはいまだに何も紹介していない。

「すみません、説明が遅れました。ええと……兄は不動産投資業を営んでいて、具体的には収益不動産を買って、そのお家賃で暮らしているんですけど……」

「お家賃、ということは、ここもいずれ誰かに貸し出すつもりなの?」

「はい。リフォームやクリーニングをかけて、いずれは賃貸に出す予定です。居住用か商業テナントとしてかは、まだ決めかねていますが……」

「なるほどね。でも、今まで同じような理由でこのお屋敷に手を出した人たちが、その後どういう目に遭ったか……あなた、ご存じないの?」

「うっ」

 冷ややかな少女の言葉に、僕はひゅっと息を呑む。

 もちろん知っている。これまで何人もの工事関係者が謎の転落事故に見舞われ、病院送りにされたことも。あるいは突然閉じたドアに指を挟まれたり、階段を踏み外して大怪我を負ったり……聞くだけで身体のあちこちが痛くなりそうな噂をいくつも。

 相変わらず少女は、獲物をいたぶる猫の目でにやにやと僕を眺めている。やっぱり……犯人は彼女、なのだろうか。でも、こんな見るからに可憐な女の子が?

「え、ええと……必要とあらば、あなたに許可を頂きますので、その……」

「許可ぁ?」

 今度は兄さんが、不満を訴える目で僕を睨む。

「どういう流れの話かは知らねぇが、ここをどう使おうが俺たちの自由だ。大体、いつも言ってるだろうが。死人の前じゃ堂々としてろってな。生きた人間ってのは、ただ生きてるだけで死人なんぞより何倍も偉いんだ」

「えっ、うん……」

 死人より生きた人間が偉い。それは兄さんのいつもの口癖で、今回も大した考えもなしに口にしたのだろう。

 ただ、こと今回に限っては少女の逆鱗に触れる禁忌ワードだったらしい。

「随分と傲慢な仰りようね」

 そう吐き捨てる彼女は、やんわりとした笑顔とは裏腹に、目はちっとも笑っていなかった。

「生きているだけで偉い? ふふっ、何を仰るの? そもそも、いま貴方たちが生きるこの世界を築いたのは、今は死者となった過去の人たちよ。そうした人々を軽んじる物言いには……そうね、おしおきが必要だわ」

 言うが早いか、少女はつかつかと兄さんに歩み寄る。そして――

「兄さん危ない!」

「は? ――んおっ!?」

 僕が兄さんに警告を促すのと、少女の手が兄さんの襟首を掴んで投げ飛ばすのはほぼ同時だった。柔道みたいに足払いをかけ、相手の体の崩れを利用しながらの投げではない。掴んだその手で軽々と、まるでぬいぐるみでも抛るような投げ、いや投擲は、物理法則に縛られる生身の人間にはまず不可能な芸当だ。

 ただ、そこはさすがの兄さんで、空中で咄嗟に体をひねり、頚椎を庇いながら模範的な柔道の受け身を取る。スポーツなら何をやらせても上手かった兄さんは、学生時代は最強の助っ人としてあちこちの運動部にヘルプを頼まれていたという。その面目躍如だ。

「そいつか!?」

 跳ねるように身を起こすと、すかさず兄さんは僕に問うてくる。僕は大きく頷くと、今も僕らをにやにやと眺める少女を指さした。

「彼女だよ。彼女が、兄さんの襟首を掴んで投げ飛ばしたんだ」

 彼らは、基本的に風のようなものだ。所詮は風だから、本来は触れても空しくすり抜けるだけの覚束ない存在だ。ただ、風もある程度強くなると、もはや物理的な暴力と変わらなくなる。そして、この世に長く留まる幽霊ほど、そうした〝風〟の使い方も上手くなる。

 今の仕事を始めて三年。その間、いろんな幽霊に会ってきたけれど……彼女ほど器用な幽霊は見たことがない。ということは、今までの怪異も彼女が……?

「面白い反応ね」

 相変わらず少女は楽しげに僕を見つめている。

「今までいろんな無礼者を投げ飛ばしてきたけど、みんな泡を食って屋敷を出て行ったわ。怖がるどころか私に敵意を向けてきたのはあなたたちが初めてよ。……まぁ、私が視えなければ、あなたたちも逃げ帰っていたでしょうけど」

「じゃあやっぱり、今まで工事の人たちに怪我を負わせてきたのは、」

「そう、私」

 悪びれるどころか、むしろ誇るように言うと、少女はにっ、と唇を左右に引く。

「でも仕方がないの。私は、このお屋敷を護らなくちゃいけない。たとえオーナーだろうと、お屋敷に余計な手を加えるつもりなら私、容赦しなくてよ」

「余計な、と言うと……割れたガラスを張り替えることも?」

「修復なら構わなくてよ。むしろ、雨風が吹き込んで困っているぐらいだし。……でも、床を剥いだり壁紙を張り替えるのは駄目。家具もいけないわ。床が傷むもの」

「えぇ……」

 部屋の内装云々はともかく、家具まで禁止されるのはさすがに無理ゲーがすぎる。一体この世界のどこに家具や機材を置けない物件をわざわざ借りたがるテナントがいるのだ。テナントが入らなければ家賃も入らない。家賃が入らなければ、僕らのように銀行からの融資でぎりぎり資金をやりくりする零細オーナーは食い詰めるしかない。

 やはりここは、当初の予定どおり……

「あの」

「今度はなに?」

「あ、あなたも……このままでは辛いばかりだと思うんです。いつまでも現世に留まるのは、何か強い思い残しがあるからでしょう、違いますか」

 そもそも僕が、兄さんについてきたのには理由がある。

 僕には、死者が視える。しかも視えるだけではなく会話もできる。そんな僕の特技、というか体質に目をつけた兄さんは、今の仕事、つまり本気マジで出る格安事故物件を買い取り、僕に除霊させた上で賃貸に出す独自のスキームを編み出した。

 霊が視え、言葉を交わせるだけで霊媒の技術もなく除霊ができるのか。

 答えは、半分は正解で半分は間違いだ。

 黙っていれば極楽浄土に行けるのに、わざわざ好きこのんで現世に留まる死者にはある共通点がある。それは皆、何かしら強烈な思い残しを抱いている点だ。逆に言えば、その思い残しさえ解消すれば彼らはおのずと旅立ってゆく。そうやって僕は、これまで何十人もの死者をあちらに見送ってきた。

 ただ、何事にも例外はつきものだ。中にはコミュニケーションが期待できないほど心があちら側(穏当な表現)に行ってしまった幽霊もいて、そうしたケースではプロの霊媒師に外注をかけることになる。今回は、とりあえず言葉は交わせるし意志の疎通も充分に可能だろう。ただ、その上で彼女が頑として屋敷に居座るというのなら、最終的にはそうした方法も視野に入れる必要が出てくる。……悲しいことだけど。

「よろしければ……僕に、成就のお手伝いさせて頂けませんか」

 駄目で元々。むしろ、これまでの態度から考えて彼女が僕の提案を呑んでくれる可能性はうんと低い――が、それでも。

「要するに、私が邪魔だと仰るのね」

 うっすら微笑むと、そう彼女は冷ややかに吐き捨てる。やっぱり駄目だったか……

「そういうことなら、ええ、そうね、私を殺した犯人を見つけてくださらない?」

「すみません。お力になれずに――えっ?」

 予想外の単語につい面食らう。まさか、僕の提案を受け入れて……?

「つまり、あなたはあなたを殺した犯人を探していて、見つかったら成仏できる……と?」

 彼女は答えなかった。代わりにうっすらと唇を左右に引く。これは……肯定、と取ってもいいんだろうか。

「ちなみにその、犯人というのは……?」

「だから、それを見つけて来てくださらない? とお願いしているのだけど」

「ええ。それはもちろん……ですが、そのためにもまずは名前ですとか、あと、差支えがなければ殺された時の状況を、」

「お生憎様、でも、無理なの」

 そして彼女は、肩にかかった長い髪をふわりと払う。

「私ね、生前の記憶を全部なくしちゃってるの。ごめんなさいね」

「えっ?」

 待ってほしい。じゃあ犯人が当たっているかどうかのジャッジは誰が下すんだ。いやそもそも、生前の記憶を失っているということは、つまり、彼女の――被害者の名前もわからない……と?

「ね……念のためお聞きしますが、ご自分の名前も?」

「ええ」

「そんなぁ」

 いくら何でも無理ゲーがすぎる。顔も名前も性別もわからない、さらに言えば、いつ、どこで誰をどのように殺したのかもはっきりとしない殺人犯を捜せ、だなんて。

「どうした瑞月。まさか探偵をやれ、なんて言われてんのか?」

「うん……ただ、」

 さすがにこんな難題は、名探偵にだって厳しいだろう。というわけで、名探偵でもない僕は、泣きそうな目で頭を抱えるしかなかった。

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