虹を見にいこう 第8話「雨宿りの時間」

なか

Chap.8-1

 季節外れの突然の豪雨だった。始めは点々と黒い染みをつくるように地面を濡らしていた雨粒が、あっという間にアスファルト一面、黒く染め上げていった。

「うわ、こりゃ無理だって!」

 ひとり叫んで、コーヒーショップの軒下に駆けこむ。

 新宿三丁目、二丁目にも近い柳通りのコーヒーショップだった。店のシャッターが下り、ひと気も感じない。年中無休のチェーン店のはずだが、店内改装で特別休業の貼り紙がされていた。

 アスファルトからもうもうと立ち上る水煙と、雨音のあまりの激しさにたじろいでしまう。夏の夕立のように激しく、朝靄が立ちこめるようにもうもうと、新宿の町並みを煙らせている。マンションまで走って帰るには距離がある。腹を括ってずぶ濡れになるにしても、仕事帰りで、鞄に入った書類まで濡れてしまうのが心配だった。

 鉛色の空が閃き、間髪入れずに雷鳴が鳴り響く。すぐそばで誰かがドラム缶を蹴り倒したのかと思うほど、お腹の底まで響いてくる。今のは相当近い。どこかに落ちたりしなかったかと、手をかざして通りの向こうに目を凝らした。この角度からでは見えないが、新宿御苑の方向には、時計塔としてのイメージがあるNTTドコモ代々木ビル、通称ドコモタワーがある。ビルの先端に避雷針のようにして立っているのは、実はとてつもなくでかいクレーン車のアームらしいが、あそこにいつ雷が落ちてもおかしくないなあと思う。

 僕と同じようにして、柳通りの水煙の中をこちらへ駆けてくる人影があった。見覚えのあるシルエットに両手を振って声を上げた。

「タカさーん、こっち、こっちです!」

「あ~、一平か!」

 タカさんが、「いやぁ、まいった、まいった」とコーヒーショップの軒下に駆けこんで来る。息を弾ませて、服の上から水滴を払いのける仕草をした。片手に大きなスーパーのビニール袋をぶら下げている。

「夕飯の買い物ついでに、そこのダイコクドラッグに寄ったんだ。急に降り出してしまって、まいったよ。真っ直ぐ帰ればよかったなあ。一平も仕事帰りかい?」

 タカさんはネギの突き出たスーパーのビニール袋を足下に置くと、額の汗を拭うように濡れた顔に手の甲を当てた。

「はい、客先から直帰だったんですよ。地下鉄から上がって来たらあっという間にこんな状態で、どうしようかと途方に暮れてました」

 タカさんと肩を並べて見上げる新宿の空。絶え間なく降り続ける大粒の雨と厚い雲に覆われ、稲光が走り去って行った。遅れて響き渡る雷鳴。

「夕立のようだが、すぐには止みそうもないなあ」

 タカさんがつぶやく。

 スーツの上着からスマホを取り出すと、天気予報のサイトから雨雲レーダーを検索した。

「わ、すごい……見事に新宿直撃ですよ、これ」

 東京都をクローズアップした縮尺地図上で、新宿区に襲いかかるように雷雲が発達していた。雨雲の中心は雨の強さが最大であることを示す赤色で、周囲にいくほど黄色、ブルーと色彩を淡くさせている。その赤く喉元をさらすように見える雲の中心は、ちょうど新宿御苑を飲み込もうとしているバケモノの横顔のようだった。

「やあ、これ大丈夫かね。新宿御苑は背の高い大きな木も多いだろう? 雷が落ちたりしたら大変だ」

 画面を覗き込むタカさんも、雲の形が御苑を襲っているように見えたのだろう。心配そうな声を出す。

「ほんとですね。まだ閉園時間にもなっていないから、人がいるだろうし。園内は避難するような場所も少ないですもんね」

 夏前にユウキと訪れた御苑の景色を思い返していた。色彩豊かな光景が、雨に濡れる様子が目に浮かぶ。日本庭園の池は、きっと激しく波打っているに違いない。いくつか屋根付きの休憩所もあったが、この土砂降りでは心もとないと思う。

「たしか、温室があっただろ? あの中なら何とかなりそうじゃないか」

「ああ、言われてみれば。あそこ、ちょっとやそっとの風じゃびくともしなそうだし。でもあの温室、意外と早く閉まっちゃうんですよね。いつもタイミングが悪くて、実は中に入ったことはなくて」

 スマホ画面から顔を上げると、僕の手元を覗き込むタカさんの顔が思いのほか近かった。

「ああ、俺も行ったことないんだ。店のお客さんの話だと、食虫植物や滝まであって、けっこう面白いようだが」

「ち、近くにあると、いつでも行けると思って。なかなか……その、逆に行かないもんですね」

 タカさんの顔の近さにどぎまぎとして、深呼吸をした。丸い眼鏡の奥に、スマホ画面に集中するタカさんの真剣な眼差しが見える。

 雨雲レーダーの予想図では、一時間もしないうちに雷は通り過ぎてくれるようだった。無理をしてずぶ濡れになるよりも、このままここで雨宿りをしていた方が正解かもしれない。そう言うタカさんに僕も肯いた。

 豪雨の中へ鞄を頭上にかざしたサラリーマンが、地下鉄出口から駆けだして行った。雨の激しさとは裏腹に、しんとひと気のなくなった新宿の町並み。水しぶきを上げ、ときおり車だけが通り過ぎて行く。濡れた身体が少し冷えて、両手で腕のあたりをごしごしとこすった。

 濡れる町の景色に目を細めるタカさんに声をかける。

「お店は……ちむどんどんは、まだ再開できないですか?」

 めちゃくちゃになってしまったタカさんのお店の周年パーティーから二週間が経っていた。これからの事について、みんなの前で話すタカさんの口は重く、再開の準備が上手くいっていないのではないかと心配だった。

「内装も修理しなくてはいけないし、保険や警察も……いろいろと手続きが多くてな。ビルの管理会社からもなかなか手厳しいことを言われたよ。まあ火事を起こしてしまったのだからしょうがない。どうせ修理するなら、今度は思い切ってパッと華やかな店内にするかな」

 タカさんが笑う。

「前のままがいいです」

 僕の言葉に、タカさんの笑顔が消えていく。

 あの夜。警察から延々と詰問をされた消防法については、その後の聴取で守れていたことが説明できたので、タカさんにいわゆる業務上過失のお咎めはなかった。もしそうなっていたらお店を続けるのは難しかったかもしれない。見た目よりも被害が大きくなかったことも幸いだった。

 だけど、火災の原因はよくわからないままだ。わかっているのは、出火元のトイレを最後に使ったのが、DSバーのマスターおケイさんだということだけ。そもそも警察は本気で調査をする気がないのだと思う。新宿二丁目という繁華街で起きた事件性のないボヤ騒ぎ。よくあることだと片付けられ、埋もれていこうとしていた。それでも、タカさんの店の被害ははかり知れない。

「僕、悔しいんです。絶対、あの火事はおかしいのに。何で、誰も何も言おうとしないんですか?」

 みんな、口には出さない。だけどおケイさんが疑わしいと思っているはずだ。厄介者扱いされた腹いせに、タバコの火をトイレットペーパーや据え付けのハンドペーパーに放った。そう考えると納得がいった。

「一平、店のことを気にかけてくれて……その気持ちは嬉しいよ」

 タカさんが短く息をついた。

「でも、事を荒立ててどうする? ちゃんとした証拠があるわけでもないんだ。誰かを疑って、間違っていたら大変なことになる。ごめんなさいじゃすまない」

「証拠なら、あのとき店にいた人、全員が見ていました。みんなで証言すればきっと」

「迷惑をかけたくないんだ。これ以上、お客さんに迷惑をかけるわけにはいかない」

 タカさんの強い口調に阻まれて、僕は口を閉ざした。わかっている。お店の信用にかかわる話だった。誰だって厄介なことには巻きこまれたくない。お客さんの中には、素性を隠してゲイバーに飲みに来ている人だっている。世間からいわれのない偏見にだって晒されやすい。火事の後に来た警官のように、女装をしているだけで、気持ちが悪いと暴言を吐く者だっている。

『普段は女装していませんから』

 あのとき僕はそう口走りそうになった。

 女装とゲイを区別することに何の意味もないのに。結局、僕ら自身だって自分たちに寛容ではないし、会社でゲイではないかと疑われれば、慌てて否定をしてしまう……。そういう窮屈な生活の中で、ほっと落ち着いて、ありのままの自分でいられる店。タカさんの店はそういう店だった。

 だが、事件性があると主張すれば、警察の事情聴取が、お客さんにまで及ぶかも知れない。タカさんはそれを心配していた。口調が重いのもそのせいなのだろう。

「それに、警察が言っていた通りだと思ったよ。俺がちゃんと火の元やいろいろなことに注意を向けていれば、こんなことにはならなかったんだ。周年の忙しいときに、長い間、店の裏に引きこもってしまった。みんなに迷惑をかけたのは自分の責任だ。他の誰のせいでもない」

 僕は奥歯を噛んで、自分の足下の一点を見た。

「少なくとも僕は迷惑をかけられたと思っていませんから。リリコさんや、ユウキや源一郎さんだって、みんなそうです」

「ありがとう」と、タカさんは張り詰めていた声のトーンを少しだけ和らげた。そして、もうこの話は終わりだと言わんばかりにぐっと伸びをして、厚い雲を見通すような目をした。

「そういや、ゲンちゃんは今頃、もう空の上だろうね」

 僕も自然と空へ目が向く。

「飛行機の時間、十五時くらいって言ってましたっけ? まさか、この雷雲の上にはいないでしょうけれど」

 戦場カメラマンの源一郎さんのことだった。店の周年パーティーに合わせて日本に帰って来ていたのだが、今日、日本を離れることになっていた。

『次の仕事の予定があって、店が大変なときに何も力になれず、すまない』

 そうみんなに送信されて来たメールの文面に、太い眉毛をしたカワイイクマのキャラクターがペコリと頭を下げているスタンプが添付されていた。クマのキャラクターが源一郎さんのひげ面と似ていた。

 源一郎さんは、僕に個人的なメッセージも送ってくれた。

『タカは自分の大事な友人だ。出来る範囲でかまわない、力になって上げて欲しい。そして、次に日本に帰ったときに、そのお礼がしたい。一平くんのことをもっとよく知りたいんだ』

 メールを受け取った僕は口を開けたまましばらく固まってしまった。

 店のカウンターで手を握ってくれた源一郎さん。いくら経験の乏しい僕にだって、源一郎さんの好意が伝わった。ひとり悶々として『次、日本に帰って来た時には、またタカさんのお店で、みんなで飲みましょう』と返信をした。このたった一行の返信をするのに一時間以上は書いては消してを繰り返した。

 源一郎さんはとてもいい人だ。頼りになり、僕の知らない世界を生きてきた魅力的な人だと思う。外見は熊のようだが、熊は熊でもハンサムな熊だし。つぶらな瞳は年齢を感じさせない愛嬌があって、温和な人柄に垣間見せる野性的な一面も、ドキッとさせられるギャップだった。源一郎さんに気に入ってもらえるのは正直嬉しい。だからこそ、失礼のない返信をしたつもりだった。タカさんやリリコさんの大事な友人として、僕も源一郎さんに接して行きたい。

「ゲンちゃん、一平には何も言わずに行っちゃったのかい?」

「メールもらいましたよ。タカさんが大変だろうから、よろしくと」

「それだけ? おかしいなあ。ゲンちゃん、一平のことを気に入ったと思ったんだけどなあ」

「源一郎さんとは、ほんとに何もないですから」

「別に悪いことをしようってわけじゃないんだ。そもそも、一平はそろそろ何かあった方がいいと思うけどな」

「そんな、からかわないでください。デビューして一年で、そんな何もかも上手くいくわけないですよ」

「そうか、もう一年か。早いもんだ。俺の歳になると、なおさら時が経つのを早く感じるよ」

 横に並ぶタカさんがこちらをチラリと見る。

「一平とはじめて会ったのもこんな雨の日だった」

「ついこの間のような気もするし、ずいぶん昔のような気もします」

 柳通りのアスファルトを叩きつける激しい雨音が、ザー、ザーと押し寄せては引き返す波のように風にあおられるなか、僕は一年前のことを思い出していた。


Chap.8-2へ続く

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