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 あすかのことはたぶん小学校一年生のときから知っていた。いつから認識していたかなんてそんな細かいことは覚えていない。ショートカットで、背が高かった。男の子みたいだったから「あすかくん」と呼ばれていた。廊下ですれ違うたび、体全身が小さく脈を打った。わたしもみんなが思うようにあすかのことをかっこいいと思った。みんなは最終的にあすかが女の子だからと線を引いて遠慮していたけれどわたしは男の子よりもあすかのほうが好きだと思ったし、仲良くしたいと幼いながら強く願っていた。


 小学校四年生のときにはじめて同じクラスになった。その頃あすかは誰の前でも「俺」か「僕」と言っていた。夏はTシャツに短パン、冬はニットにダボダボのズボンを穿いていた。女子とも遊ぶし、男子とも遊んでいた。運動神経がよく、みんながあすかに注目していた。


 わたしはそのとき、クラスの誰にも相手にされず休み時間はひとりで絵を描いて過ごしていた。好きな漫画のキャラクターをじぶんの絵柄で描きおこすのが好きだった。


「何描いてんの?」


 あすかは取り巻きから離れてひとり、わたしのところへ来た。急にあすかに声を掛けられて、すぐに反応できなかった。


「へぇ、うまいじゃん」


 あすかはほんとうに、いいひとの顔で笑った。


「ありがと」


 それからも、たびたびあすかはわたしに話しかけてくれた。ほかのひとと対等に扱ってくれた。わたしのことを、ほかのひとは名字にさんづけで呼ぶのに「梓」と呼んだ。だからわたしも「あすか」と呼んだ。嬉しかった。あすかにとってそれはなんでもないことだったのかもしれない。話すきっかけが欲しかったけれどじぶんから行動できないからあすかのほうからわたしなんかを構ってくれたことが何よりも嬉しかった。


 掃除をしている最中、あすかは廊下で男子と喋っていた。誰とでも仲良くできる天才が実在するんだと関心していた。あすかには裏表がなさそうだった。そう勝手にわたしが信じていたのかもしれない。


「ねえ、梓」


 廊下にいたあすかが急にわたしの前に現れた。


「な、なに」


「きょう、梓の家行ってもいい?」


 正直、意味がわからなかった。もちろん、断る理由はない。


「いいよ」


 なんで。訊くのをやめておいた。意地悪な子だと思われたくなかったから。


「よっしゃ。じゃあ俺、廊下で待ってるから」


 全身が熱くなったし、体が震えていた。わたしひとりで焦って掃除しても仕方ないのでみんなのペースを見ながら続けた。


 あすかと一緒に帰る道は、いつもよりも何も見えなかった。いま車が飛び出してきたらきっとわたしは避けられないだろう。


「案外近くに住んでるんだな」


 だいたいみんな小学校の徒歩五分圏内のところに住んでいるから、どこの子の家に行っても十分もかからない。


 あすかはわたしの好きな漫画について訊いてきた。それ知ってるとかそれ知らないから教えてとか言ってきた。


 鍵を開けて家をあけて部屋の中に入れた。あすかは「予想通り」と笑いながら言った。


「む、麦茶持ってくる」


「あー、いいよいいよ」


「でも、喉渇いてるでしょ?」


 むしろ枯渇してるのはわたしのほうだ。


「ありがとう」


 わたしは下へ行き、まずコップ一杯に麦茶を注ぎ、一気に飲んだ。それからもう一度麦茶を注ぎ、あすかの分も用意して部屋に戻った。あすかは部屋中を見渡し、珍しそうにしていた。


「どうぞ」


「ああ、ありがと」


 あすかは少し遠慮しがちに麦茶を一口飲んだ。


「やっぱほかの子と違うなぁ」


「え?」


「結構、クラスの子の家行ったけどなんか一番すげえって感じする」


「別にすごくないよ」


「漫画家になりたいの?」


「そういうわけじゃないけど」


「なんか梓ってひとに流されない感じがする」


 そんなことを言うなんて占い師みたいだ。


「そうかな?」


「そうだよ」


 ほかの誰かに言われたならネガティブに受け取ったかもしれないけれど、あすかに言われたならそれはとても嬉しいことの気がした。


 あすかはそれからときどきウチに来るようになった。わたしが勧めた漫画を読んだり、アニメを観たりして過ごした。あすかがくつろいでくれるみたいで嬉しかった。学校ではときどきしか話さなかったからこうやってウチに来るとあすかをわたしだけのものに出来ているみたいで嬉しかった。


 休み時間や放課後、男子たちに交じってサッカーをやったりアスレチックで鬼ごっこをやったりしているあすかを見ていた。こうやって、遠くから好きなひとを眺めていると漫画の主人公になれたような気がした。


 中学校に入っても同じクラスだった。あすかは部活動に入らなかったし、わたしは美術部だった。みんな緩くやっていたので好きなときに帰れた。あすかは放課後、相変わらずウチに遊びにきた。


 あすかは何も変わらなかったけれど、あすかがクラスでつるんでいるひとは発言力のあるグループだった。どうしてあすかみたいに少し変わった子があそこに入れてもらえるのかわからない。あすかは、ひとの懐に入るのがうまい。たぶん、そこにいるのが安全だと察知し、本能に従って行動しているだけだ。わたしはそれをべつにずるいとは思わなかった。ただ、そういう生き方もあるのだと知った。


 いつもは放課後に来るのに一度、十時過ぎに家にきたことがある。あすかは「迷惑だよな、ごめん」とわたしに謝ったけれど親にはあすかのことを話していたし、わたしとしても迷惑ではなかった。いつものあすかとは違って目に見えて顔が暗く、テンションが低かった。


 ベッドに座り、あすかが話し出すのを待っていた。


「きょうみんなと遊んでたんだ」


 楽しい遊びでなかったことはその声をきいていればわかる。


「なんか、エロい話になって、エロい動画観て、みんなで騒いでて無理だなって思った。みんなこういうこと考えてるんだって知ったら気持ち悪くなったっていうか」


 あすかは具体的に語ろうとしなかった。その話の表面だけで、あすかが不快な思いをしたことはわかる。だからそれ以上知らなくてもいい。


「俺、ほんとに男になりたいんだ」


 その本気度がどれくらいのものかわたしにはわからない。だけど嬉しかった。あすかには永遠に女に戻らないで男のままで居てほしかった。


「こんなこと言えるの梓しかいなくて……」


 あすかの表情を見ているだけで息をするのが難しかった。あすかを見ていると酸素が足りなくなる。あすかを見ていると愛しさが溢れだして止まらない。


「好き」


 わたしはとうとうじぶんの気持ちを隠しきることができず言ってしまった。


「男の子としてのあすかが好き」


 あすかは目をぱちくりさせながらわたしを見た。それから、わたしの両肩を掴んだ。その次の瞬間、キスをされた。あまりに突然のできごとで、わたしは何もできなかった。そのまま、あすかに抱きしめられた。


「俺もだ。ずっと好きだった。梓しか俺のことわかんないだろうって思ってたから、嬉しい」


みんなの憧れのあすかがわたしに弱いところを見せてくれた。このとき、わたしはあすかにずっとついていこうと誓った。何があってもわたしはあすかの理解者でありたい。疑うことをやめ、自我を押し通したり束縛をしない。どんなに向こう側にいてもあすかを見つめ続ける。


それからわたしたちは秘密の関係を続けた。キスをすると盛り上がってあすかがわたしの性器を触るようになった。あれはいつからだったのか。わたしは別にあすかの玩具でもよかった。好きなひとと触れあい、息をし、同じ空気を共有して、じぶんの絵のエッセンスにできればよかったから。


じぶんの思い描く理想が、じぶんのことを好きになってくれた。それと同時にそれが終わるまで不安で居続けなくてはいけないことも知った。失くしたくないとか、嫌われたくないとか、そんなことを思っていつも不安だった。でも、それを無視して夢に溺れるしか方法はない。学校でも一緒にいてと言わなかったのは中身のないわたしが底をついてあすかに飽きられてしまう気がしたのと、ずっと一緒にいてわたし自身、あすかに対する飢餓心を失いたくなかったから。いつだって、少し足りないくらいでいい。希求することに悦びを感じていた。

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