第36話

「まあ、綺麗ですね、お兄様!」


 あれから数日、どうにか立ち上がれるまでに回復した私は、晩餐を終えた後、私室のバルコニーでお兄様と共に星空を見上げていた。


 この別荘はクロウ伯爵領の中でも田舎の方に位置しているらしく、王都で見る星空よりも星の数が多く思える。銀色に瞬く星々は、お兄様の銀髪を思わせるから好きだ。


 お兄様は、私を背後から抱きしめるようにして一緒に星を眺めていた。正直、その距離の近さに心臓は早鐘を打ったままだけれど、お兄様は気づかない振りをしてくださる。そういう優しさも好きだ。


「星の勉強をしておけば良かったな。そうしたら、フィーネに神話の一つでも聞かせてあげられたかもしれないのに」


「ふふ、こうして二人きりで眺められるだけでも充分に幸せですわ。……ここは、とても静かで良いところですね」


 月並みな表現だが、まるでこの世界にいるのは私とお兄様だけのような、そんな幻想的な雰囲気があった。


 ……もしも本当に、私とお兄様の二人きりだったのなら。


 そうしたら、この恋は叶っただろうか。誰の目を気にすることも無く、彼に好きだと言えたのだろうか。


 妙に感傷的な気分になって、溜息交じりの笑みが零れた。背後にいるお兄様には私のそんな表情の変化など伝わらないはずなのに、彼は溜息ごと私をぎゅっと抱き寄せる。


「……フィーネが望むなら、ずっとここで暮らすのもいいね」


 耳元でそう甘く囁いては、私の左手を取って薬指に口付ける。ただでさえいつもより落ち着かなかった脈が、余計に早まるのを感じた。


「……そんなこと、出来るはずがありませんわ」


「出来るよ。君が望むなら、僕は何だって叶えてあげる」


 その言葉は、私をからかっているようには思えなかった。


 だからこそ、怖いと感じてしまう。お兄様なら本当に、私のどんな願いでも叶えかねない。


「……夜も遅いし、そろそろ休もうか。フィーネだって、まだ万全の体調というわけじゃないんだ」


「はい、お兄様」


 そのまま彼に導かれるようにして室内に戻った私は、彼に見守られながらベッドに潜り込んだ。何だか幼いころに戻ったみたいだ。


「……良い夢を見るんだよ、フィーネ」


 お兄様は、横になった私の前髪を掻き上げて、そっと額に口付けを落とした。慈しまれていると感じる。


「ええ、お兄様も」


 少しだけ上体を上げて、私もお兄様の頬にちゅっと口付けた。彼の左目が大きく見開かれ、やがて戸惑うように視線が泳ぐ。


 お兄様は、私には散々口付けたり触ったりするわりに、私からするといつもこうだ。お兄様に向かって失礼だとは思いつつも、可愛いと思ってしまう。


「おやすみなさい、お兄様」


「……うん、おやすみ」


 笑った拍子に僅かに前髪が揺れて、赤紫に変色したお兄様の右目が垣間見えた。やはり、胸が苦しくなってしまう。


 お兄様が立ち去った後の寝室で、私はぼんやりとお兄様のことを想った。ぐるぐると、答えの出ない葛藤に胸が締め付けられるようだ。


 そのまましばらく思い悩んだところで、気分を切り替えるために水を飲むことにした。サイドテーブルにはリアが置いて行ってくれた水差しが置いてある。


 自分でコップに水を注いで、半分ほど飲んだところで小さく息をつく。首元には包帯が巻かれていて、触れれば僅かな痛みが走ったが、リアもお兄様も包帯の下の傷を頑なに私に見せようとしなかった。


 ベッドから離れ、ドレッサーの前に歩み寄って、鏡を覗き込む。仰々しいくらいの包帯だが、この下には何が隠されているというのだろう。


 気にならないと言えば嘘になるけれど、包帯を勝手に解いたのがバレたら、二人に心配をかけてしまうかもしれない。下手に構わない方がいいだろう。


 目覚めた直後は病的なほどに青白かった肌も、いくらか血色を取り戻してきた気がするが、まだまだ本調子とは言えなかった。月の光のせいか、余計に弱々しく見えてしまう。


 お兄様と二人でお出かけするのは、もう少し先になるかもしれない。楽しみが先に延びたと思って、今は回復することに専念しよう。

 

 そんなことを考えた矢先、不意に立ち眩みに見舞われた。慌ててドレッサーの台の部分に手をつき、何とか姿勢を保つ。その拍子に、かしゃん、と乾いた音を立てて、ドレッサーから何かが落ちた。

 

 立ち眩みが引いたのを確認して、私は落ちたものを拾い上げた。


 それは、銀色のロケットだった。細かな傷がいくつもついていて、見るからに新品ではない。


 しゃらしゃらと鳴る細かな鎖を指先で撫で、そっとロケットを開いた。中には薄紅色の花弁が、まるで押し花のように閉じ込められている。


「……この、花」


 この花は、何度も夢の中で見たことがある気がする。それに、このロケットを見ていると、腹立たしいような、温かいような、不思議な気持ちになった。


 それと同時に、陽だまりの中で笑う、黒髪の青年らしき姿が脳裏に浮かぶ。


「っ……」


 僅かな頭痛と共に、靄がかかったようなもどかしい感覚に襲われた。私は、その青年のことを知っているような気がするのに、まるで心当たりがない。妙な感覚だ。


 思わずその場に崩れ落ちて、ロケットをぎゅっと胸に抱きしめる。そうすればいくらか、この得体の知れない感覚に耐えられるような気がしたのだ。


 バルコニーへとつながる扉ががたがたと揺れたのは、その直後だった。


 風で揺れたのかと思いきや、いつの間にか、バルコニーには黒い外套を纏った誰かの姿があった。すらりと高い身長からして男性だろう。まさか、侵入者だろうか。


 外套を纏った男は、バルコニーとこの部屋を繋ぐ扉を開け、ゆっくりとこちらへ歩み寄ってきた。


 侵入者は、黒髪と紺碧の瞳が美しい、端整な顔立ちをした青年で、彼は確かに私だけを見ていた。


 今すぐに人を呼ばなければならないと頭では分かっているのだが、あまりの衝撃にどうしても声が出ない。


 それは、突然の侵入者に怯えているせいもあったが、黒髪の青年が、つい先ほど脳裏に浮かんだ誰かとそっくりだったからでもあった。


「……フィーネ!」


 青年は、私と目が合ったことを認識するなり、どこか嬉しそうに声を上げた。一見すると近寄りがたい雰囲気を纏っているのに、笑うとぐんと雰囲気が柔らかくなる、不思議な人だ。


 でも、どうして私の名前を知っているのだろう。やはり、彼とはどこかで会ったことがあるのだろうか。


「っ……顔色が悪い。体調が優れないのか?」


 私の傍に跪くようにして、青年は紺碧の眼差しを私に向けてきた。その瞳には紛れもなく私を案ずるような色が浮かんでいる。


 だが、こちらに触れようと手を伸ばす青年の手を見て、びくりと肩を震わせてしまった。流石に見ず知らずの人に手を触れられるのには抵抗がある。


「っ……やめてください!」


 やはり、人を呼ぶべきなのだろう。今更になって、見ず知らずの青年と二人きりというこの状況が怖くなってきた。今からでも大声を出せば誰かが来てくれるだろうか。


「っ……フィーネ、俺のことを覚えていないのか?」


 打ちのめされたように目を見開く青年を前に、ますます訝しむ気持ちが膨らんでいく。一体、彼は誰なのだろう。


 黒い外套も中の衣服も、一目で質の良いものだと分かるし、彼は貴族かそれに近い存在なのだろう。夜会か何かで出会っていたのかもしれないが、一度や二度顔を合わせただけの人を完璧に覚えていられるほど私は記憶力がよくない。


「……申し訳ありませんけれど、存じ上げません。どこの家門のご子息かは知りませんが、このような夜更けに不法侵入してくるなど……言語道断です」


 睨むように青年を見つめるも、彼の瞳に絶望の色が浮かんでいることには驚いてしまった何だか調子の狂う相手だ。


「……遅かったか」


 青年はどこか悔しそうに呟いたかと思うと、ふと、私が手にしているロケットに視線を落とした。反射的に、ロケットを握りしめる手に力がこもる。


「お前の顔色が悪いのも……あいつに血を吸われたせいか。何が騎士だよ、笑わせるな……」


「……さっきから、一体何なのです?」


 ぶつぶつと訳の分からぬことを呟く青年が不気味で仕方なかった。本当ならば今すぐ逃げ出したいのだが、これでも恐怖に身が竦んでいるのか、先ほどから立ち上がろうとしても上手く足が動かないのだ。


「そのロケットを渡せ」


 青年は、右手を私に差し出した。ロケットを手渡すように促しているのだろう。


「……いきなり何なのですか? 渡せるわけがないでしょう」


 このロケットのことはよく分からないが、何だかとても大切なもののような気がしていた。そう易々と手渡すわけにはいかない。


「いいから、ノアに見つかる前に何とかしたいんだよ」

 

 青年の手が、私の握りしめているロケットに伸びる。突然触れられたその手の温もりは不思議と不快ではなかったが、だからと言って渡してしまっていいわけではない。


「っ誰か! 来てっ‼ 侵入者がいるの——」


 何とか大声を上げたのも束の間、青年の手が私の口に伸びる。片手でも私の口を塞ぐのには充分で、必死の叫び声もくぐもった声となって彼の手に奪われてしまう。


 口元を押さえられた衝撃でバランスを崩してしまった私は、そのまま床に倒れ込んでしまった。


 これは、非常にまずい。妙な既視感に踊らされて、青年を目にした瞬間に声を上げなかった自分の浅はかさを悔いた。


 押し倒された拍子に私の手から滑り落ちたロケットは、いつの間にか青年の手に握られており、彼は乱雑にそれを開けると、半ばロケットを壊すような形で薄紅色の花弁を取り出した。


 奪った直後に壊すなんてひどい。思わず涙目になりながら青年を睨みつけるも、彼はどこか意味ありげに笑って私を見下ろしていた。


「……頼むから、効いてくれよ」


 青年は薄紅色の花弁を口に含んだかと思うと、何の前触れもなく私に口付けてきた。突然のことに、一瞬頭が真っ白になるが、全力で手足をばたつかせて抵抗する。


 ……嫌、お兄様! お兄様、助けて‼


 ぽろぽろと涙が目尻から零れ落ちていく感覚があった。青年はそれを見て、不思議と苦し気な表情をしていたが、それでも口付けを止める気配はない。


 深くなっていく口付けの中で、気づけば私は彼が口に含んでいた花弁を飲み込んでしまった。


 その瞬間、喉が焼けるような衝撃に見舞われる。


 それに動揺する間もなく、続いて頭が割れるような頭痛にも見舞われた。


「っ……」


 ようやく青年が私から顔を離したというのに、私はろくに声を上げることもできなかった。ただ、眩暈を伴うような頭痛に呻くことしか出来ない。


「フィーネ……」


 青年は私をそっと抱き上げると、痛みを分かち合うかのようにそっと私を包み込んだ。見ず知らずの人に触れられるなんて吐き気がするほど嫌なはずなのに、むしろ、彼の腕の中で私は安心感を覚えていた。


 脳裏に、ちらちらと薄紅色の花が舞い始める。まるで雪のように降り積もるその花に、いつしか私は頭が痛むことも忘れて見惚れていた。


 何か膨大な波のようなものが押し寄せてくる気配がする。それと共に、薄紅色の花弁が私の視界を奪うように色濃く舞い上がった。


 ぶわり、と視界を覆いつくすような花弁の嵐の中、その先に、誰か、とても大切な、愛おしい人が私に手を差し伸べていた。


 ……フィーネさま、こちらですよ。いっしょに参りましょう。


 ああ……どうして私、彼のことを忘れていたの。


 刹那、花弁の嵐がぴたりと止み、視界が明瞭になっていく。


 それと同時に、部屋のドアが乱雑に開けられる気配があった。


「っフィーネ‼」


 力の限り私の名を叫ぶ彼の声に、私はぽろぽろと涙を零しながら、そっと顔を上げる。


 そこには、私の大切な大切なが、信じられないものを見るような目で私を見下ろしていたのだった。

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